第2話 河港の古参商人
翌日の昼前、秀吉は銅貨三枚を河港の監督所へ置いた。
「今日は先に来たな、梨の坊主」
「ユアンじゃ。昨日、次からは先に払えと言われたからの」
昨日と同じ監督人が三枚を数え、青い許可札を差し出した。
これで秀吉の手持ちはなくなった。
バルガス商店から預かってきた傷梨は十六個。値は昨日と同じ八個で銅貨六枚、合わせて十二枚だ。売れ残ってもその十二枚は自分が負担するという条件で、オルドから預かっている。
昨日と同じ一個銅貨一枚で全部売れれば十六枚。
十二枚を店へ返せば四枚残る。
ただし、場所代に使った三枚は昨日稼いだ自分の銭だ。
今日一日の商いで増えるのは、たった一枚。
それでも秀吉は河港へ来た。
一度売れただけでは、その商いが続くかどうか分からない。客が昨日だけ多かったのかもしれず、たまたま果物を扱う店が少なかっただけかもしれない。
そして昨日、もう一つ分かったことがある。
場所は選べる。
秀吉は許可札を受け取り、荷役場と休憩所の間にある四番区画へ向かった。
だが、昨日目をつけた場所には、すでに別の男がいた。
四十半ばほどだろう。
日に焼けた顔に短い顎髭を生やし、木台の上へ梨や林檎に似た赤い果物を手際よく並べている。
どれも傷が少なく、大きさも揃っていた。
台の見やすい場所には、青い許可札が掛けられている。
正規の商人だ。
男は秀吉の抱えた箱を見ると、作業の手を止めた。
「お前か」
「わしを知っとるのか?」
「昨日、ここで傷梨を一個一枚で売ってた若造だろ」
「よう知っとるの」
「十三年ここで商売してるんだ。自分のすぐ近くで何が売られてるかくらい耳に入る」
男は最後の梨を台へ並べた。
「ドニスだ」
「ユアンじゃ」
「名前も聞いてる。昨日から荷役連中が、安い梨を売る変な喋り方の若造が来たってうるせえからな」
「梨よりそっちで覚えられたか」
「若造には聞こえねえぞ、その喋り方」
「それも昨日からよう言われる」
秀吉が肩をすくめると、ドニスは笑わなかった。
「先に言っとく。札を取ってるなら売るなとは言わん」
「ありがたいの」
「だが、ここは昨日だけ空いてた場所じゃない。本来は俺がよく使ってる区画だ」
「早い者勝ちと聞いとる」
「ああ。だから今日は俺の場所だ」
「なら文句はない」
秀吉はあっさり答えた。
ドニスの目がわずかに細くなる。
「それだけか?」
「先に来た者の場所なんじゃろ? 決まり通り取った相手と揉めて何になる」
「……昨日、一個一枚で売ったそうだな」
「今日もそのつもりじゃ」
「俺の梨は一個二枚だ」
なるほど。
こちらが本題らしい。
秀吉はドニスの台へ目を移した。
傷のない梨が、一個銅貨二枚。
四個なら五枚。
まとめて買えば一個あたりはかなり安くなる。
「いい梨じゃな」
「値段の話をしてる」
「分かっとる」
「分かってて一枚で売るのか?」
「これは傷物じゃ」
「客がそこまで分けて考えると思うか? 昨日一枚で買った奴が、今日俺のところへ来て二枚だと言われりゃ、高いと思うだろう」
言い分はもっともだった。
安売りで客を集める者が一人入れば、その周囲まで値下げを迫られることがある。
しかもドニスは十三年、この河港で商売している。
昨日来たばかりの秀吉からすれば、向こうの方がはるかに多くのものを積み上げている。
そこで喧嘩を売るほど、秀吉は若くなかった。
「おぬし、よう売れるのは何時頃じゃ?」
「……何?」
「朝か。昼か。夕方か」
「何でそんなことを教えなきゃならん」
「では客を見せてもらう」
「勝手にしろ」
秀吉は四番区画から二つ離れた空き区画へ移った。
箱はまだ開けない。
少しの間、ドニスの店を眺めた。
最初に来たのは食堂の使用人だった。梨を八個、赤い果物を四個買っていく。
次は船員が三人。船へ持ち込むらしく、一人が籠ごと果物を選んでいた。
そのあとに来た女は宿屋の者らしく、ドニスと値段を相談しながら二十個近く買っていった。
誰も一個だけでは買わない。
一方、荷役場では仕事を終えた男たちが少しずつ休憩へ入り始めている。
財布だけ腰に差し、買い物籠を持っている者はいない。
秀吉はようやく箱を開けた。
「なるほどの」
ドニスがこちらを見る。
「何がだ」
「おぬしとわしでは、客が違う」
「同じ梨を売ってて何を言ってる」
「おぬしのところへ来るのは、まとめて欲しい連中ばかりじゃ。船、宿、食堂。それに家へ持って帰る客もおる」
「だから?」
「わしが昨日売ったのは、仕事の合間に一個食いたい連中じゃ」
ドニスの表情が少し変わった。
秀吉は傷梨を一つ持ち上げる。
「おぬしの梨を一枚に下げる必要はない。わしも上物を二枚で売る気はない」
「そんな綺麗に分かれるかよ」
「全部は分かれんじゃろ」
秀吉は笑った。
「じゃから、やってみる」
ちょうど荷役人が数人こちらへ歩いてきた。
昨日、娘に持ち帰ると言って梨を二個買った大男もいる。
「お、いたいた。今日は遅かったな」
「店の仕事をしてから来たからの」
「昨日の梨、娘が全部食いやがった。俺の分まで取られたぞ」
「なら今日は自分の分だけ食って帰れ」
「二つくれ」
「二つで二枚じゃ」
「知ってるよ」
大男が銅貨二枚を出す。
一個はすぐ食べると言うので熟れたものを、もう一個は持ち帰るというので少し硬いものを渡した。
その後ろにいた二人も一個ずつ買った。
四枚。
そこから客が続いた。
秀吉は大声で呼び込まなかった。
通りがかった荷役人が箱を見れば値段を告げ、足を止めなければ追わない。
昨日買った者が知り合いを連れてくることもあった。
七個売れたところで、船員らしい男が箱を覗き込んだ。
「安いな。残り全部くれ」
箱には九個ある。
「船へ持っていくんか?」
「ああ。明日の昼までには食う」
「なら向こうで買え」
「は?」
秀吉がドニスの店を指す。
「わしのは今日食う傷物じゃ。船へ積んで明日まで置くなら、あっちの方がええ」
船員が怪訝な顔をした。
「そっちは高いだろ」
「まとめて買えば一個あたりはそこまで変わらん。それに、九個で足りるのか?」
「十二、三個は欲しいな」
「ならなおさら向こうじゃ」
「お前、客を逃がしてないか?」
「腐った梨を船で食わせて、次から来なくなる方が困る」
男はまだ不思議そうだったが、ドニスの方へ向かった。
ドニスと何か話し、やがて梨を十二個買う。
銅貨十五枚が動いた。
ドニスがこちらを見た。
秀吉は次の客へ梨を渡していた。
しばらくして、今度は年配の荷役人がドニスの台の前で何か話し始めた。
「一個だけでいいんだよ」
「一個なら二枚だ」
「高えなあ。今食うだけなんだ」
ドニスが一瞬、秀吉を見る。
それから顎をこちらへ向けた。
「安いのでよけりゃ、二つ向こうへ行け。傷物だが一個一枚だ」
「お、そうなのか」
男が秀吉のところへ来る。
「一個くれ」
「毎度」
銅貨一枚と梨を交換する。
秀吉はその銭を掌の上で一度転がした。
これでいい。
無理に同じ客を奪い合う必要はない。
上物をまとめて買う者はドニスへ。
今すぐ一個だけ食べたい者は自分へ。
客にとっても、選べる方がいい。
残りの梨は昼休みが終わる前になくなった。
十六個、完売。
売上は銅貨十六枚。
秀吉が空箱を閉じていると、ドニスがやってきた。
「おい、ユアン」
「ようやく名を覚えたか」
「十二個買った船員な」
「さっきのか」
「十五枚になった」
「そうか。それはよかった」
「他人事みたいに言うな。お前が寄越した客だぞ」
「買ったのはおぬしの梨じゃ」
ドニスは何とも言えない顔をしたあと、腰の袋から銅貨を一枚取り出した。
「取っとけ」
「何じゃ」
「客を寄越した礼だ」
秀吉は受け取らなかった。
「いらん」
「何でだ」
「今日だけの一枚ならいらん。それより、さっきみたいな客をまたこっちへ回してくれ」
「安いのを一個だけ欲しがる客か?」
「そうじゃ。代わりに、まとめ買いや日持ちする物を欲しがる客はおぬしへ回す」
ドニスはしばらく秀吉の顔を見ていた。
「お前、俺の客を奪いに来たんじゃなかったのか」
「奪わんでも銭になるなら、わざわざ喧嘩する必要はなかろう」
「俺がそのうち、お前と同じ傷物を一枚で売り始めたらどうする」
「その時は考える」
「今決めてないのかよ」
「まだ起きてもおらんことで、おぬしと今から揉めてどうする」
ドニスの口元が初めて緩んだ。
「変な若造だな」
「それもよう言われる」
「喋り方も変だ」
「それはもう聞き飽きたわ」
ドニスが声を上げて笑った。
「分かった。安い一個売りを欲しがる奴はお前に回す。ただし、俺の上物を値切るためにお前の値段を持ち出す客が来たら、お前の梨とは別物だと言わせてもらうぞ」
「当然じゃ。わしもそう言う」
「なら決まりだ」
握手を求めるように手を出された。
秀吉はその手を握った。
十三年ここで商売してきた男の掌は硬かった。
◇
秀吉は帰る前に監督所へ立ち寄った。
「もう売り切ったのか?」
「おかげさまでな」
監督人が書類から顔を上げる。
「今日は揉めなかったか? ドニスと近かっただろ」
「見とったのか」
「ここで十三年やってる古株と、昨日来たばかりの一個売りが並べば気にもなる」
「少し話しただけじゃ」
「少しねえ」
監督人は秀吉の顔を見たが、それ以上は聞かなかった。
秀吉には別の用がある。
「一つ聞きたい。この札で、人を一人使うことはできるか?」
「売り子か?」
「そうじゃ」
「同じ商いを手伝わせるだけなら一人まで追加料金なしだ。ただし問題を起こした時の責任は札を取ったお前に来る。二人以上増やすなら補助札がいる」
「補助札はいくらじゃ」
「一人につき銅貨一枚」
「商品を増やすのは?」
「一区画に収まるなら構わん。食い物でも調理が必要なものは別の許可がいるぞ」
「焼いたり煮たりせん物なら?」
「この札でいい」
「分かった。助かった」
秀吉が帰ろうとすると、監督人が呼び止めた。
「お前、今度は何を売る気だ?」
「それを考えるところじゃ」
「考えてから札を取れよ」
「明日の三枚を稼がんとな」
監督人が苦笑した。
◇
バルガス商店へ戻り、秀吉はオルドの前へ銅貨十二枚を並べた。
「十六個、全部売れた」
「十二枚、確かに受け取った」
オルドが帳面へ数字を書き込む。
秀吉の手元には四枚残った。
昨日の終わりが三枚だったから、一日で増えたのは一枚だけだ。
「今日は一枚の儲けね」
帳場から見ていたリゼが言った。
「ちゃんと分かっとるではないか」
「昨日の三枚を場所代に使って、十六枚売って十二枚返したんでしょう。今持ってるのは四枚。差し引き一枚」
「さすが帳場じゃ」
「馬鹿にしてる?」
「褒めとる」
リゼは秀吉の顔を疑うように見たあと、空箱へ目を向けた。
「でも、昨日より売った数は少ないし、利益も少ない」
「そうじゃな」
「なのに機嫌がいい」
「今日は銭以外も増えたからの」
オルドが顔を上げる。
「何が増えた」
「客を回してくれる商人が一人」
「誰だ?」
「ドニス」
オルドの筆が止まった。
「河港のドニスか?」
「知っとるんじゃな」
「中央市場にも仕入れに来る。河港じゃ古株だぞ。気難しいが、品物の見方は確かだ」
「気難しいかの。話せば分かる男じゃったぞ」
「何をしたんだ」
秀吉が事情を説明すると、リゼは途中から帳面へ何か書き始めた。
「一個買いはユアン。まとめ買いはドニスさん……」
「全部きっちり分かれるわけではないぞ」
「分かってる。でも昨日までなら、同じ梨を売ってる店同士でしょう?」
「そう見えるの」
リゼが自分で計算を続ける。
「ドニスさんは上物を多く持っていて、店賃も仕入れも高い。ユアンはバルガス商店で夕方には値下がりする傷物を少量だけ持っていく。だったら同じ値段で売る必要がない……」
秀吉は黙って聞いた。
「それにドニスさんが一個売りまで相手にしなくてよくなれば、まとめ買いの客に時間を使える」
「そこまで分かれば十分じゃ」
リゼが顔を上げる。
「もしかして、それを最初から狙ってたの?」
「いや」
「違うの?」
「ドニスがおることすら知らなんだ。見てから考えた」
リゼが一瞬黙った。
「……そっちの方が怖いんだけど」
「何でじゃ」
「一昨日までのユアンなら、古参の商人にあんなこと言われたら、謝って帰ってたと思う」
秀吉は答えず、残った四枚を小袋へ入れた。
昨日までのユアンがどういう若者だったのかは、断片的な生活の記憶からしか分からない。
だが、おそらくリゼの言う通りなのだろう。
今さら元の十八歳らしく振る舞うのは無理がある。
それなら余計な嘘を増やすより、変わったと思わせておく方がましだった。
「リゼ」
「何?」
「明日、昼前から一刻ほど河港へ来んか」
リゼが目を瞬く。
「私が?」
「相場を見たい」
「今日も見てきたでしょう」
「売れる場所と客は見た。じゃが、ローデンで何がいつ安くなるかは、おぬしの方が知っとる」
オルドへ向き直る。
「借りてええか?」
「本人より先に俺へ聞け」
「では、オルド。リゼを一刻借りたい」
「何をさせる」
「中央市場から河港まで歩いて、値を比べる。店の仕事を邪魔した分は埋め合わせる」
「どうやって」
「まだ決めとらん」
「お前はそればっかりだな」
オルドは呆れながらも、すぐには断らなかった。
リゼは自分の帳面を見ている。
「市場の値を調べるだけなら、私にもできる」
「できるでは足りん」
「何よ」
「おぬしなら、普段から見とるじゃろ。朝と夕方で値が変わる物、雨の日に余る物、逆にすぐなくなる物。この店で帳面をつけとる者にしか分からんことがある」
リゼの表情が変わった。
秀吉が欲しいのは、荷物持ちではない。
自分にないものを知っている人間だ。
「わしはこの街を知らん。おぬしは知っとる」
そこで秀吉は余計な言葉を足さなかった。
リゼは少し考え、オルドを見る。
「明日の昼前なら、朝の仕入れ分を帳面につけ終わってます」
「一刻で戻れ」
「はい」
決まった。
秀吉は小袋の銅貨四枚を指で確かめた。
昨日より増えた銭は一枚だけ。
だが今日は、河港に商売相手ができた。
そして明日は、この街の相場を自分よりよく知る者が隣を歩く。
銭だけを数えるなら、小さな一日だった。
秀吉にはそうは見えなかった。




