第八話
しばらく、そのまま確認していた。
凛は理央だけを見つめていた。
やがて理央は、ゆっくりと首を横に振った。
「……亡くなったわ」
「私が……殺した……」
凛の声が、静まり返った手術室に落ちた。
ついさっきまで激しく身をよじっていた女は、もう動かない。
凛はその場に立ち尽くしていた。
指先が小刻みに震えている。
自分で判断し自分の意思で女性を押さえつけた。
手のひらに残った感触が消えない。
自分の圧迫が直接の原因だったのか。それとも、それ以前の出血や身体の状態が原因だったのか。
凛には分からなかった。
ただ一つだけ分かる。
自分が手を出したあと、女は動かなくなった。
その事実だけが、頭の中に焼きついていた。
「……理央」
返事はなかった。
理央は黙ったまま、手術室の中を確認している。
その表情は、研究室で実験結果を確かめている時とほとんど変わらない。
「……死んだんだよね」
「ええ」
凛は床へ視線を落とした。
あまりにも短い返事だった。
自分と同じように、目の前で起きたことを受け止めきれずにいるかもしれない。
そんなものを、無意識のうちに期待していたのかもしれない。
しかし、理央の表情は変わらなかった。
二人は手術室の片付けを始めた。
凛は何度も手を止めた。
視界の端に横たわった女の身体が入るたび、先ほどの光景が蘇る。
堪えきれなくなり、凛は手洗い場へ駆け込んだ。
胃の中のものを吐き出し、荒く息をする。
「凛」
「……なに」
「それ、こっち」
「あ……うん」
理央に言われるまま、凛は手を動かした。
今は考えない。
何をしているのか考えてしまえば、もう動けなくなる。
ただ言われたものを運び、片付ける。
それだけを繰り返した。
すべてを終え、二人は廃病院を出た。
外の空気が頬に触れる。
凛は大きく息を吸った。
冷たい空気が肺へ入ってくる。
胸の奥に沈んだ罪の意識は消えなかった。
しばらく歩いたところで、凛は足を止めた。
少し先を歩いていた理央が振り返る。
「……理央は平気なの?」
「何が?」
思わず顔を上げた。
「何がって……人が死んだんだよ」
「みなさん、自分で望んで来たのよ」
理央の声に迷いはなかった。
「でも今日は違ったでしょ」
「違った?」
「途中で目を覚ました。逃げようとしてた」
「今日のは事故よ。普段はこうならないわ」
「事故って……」
「想定外だっただけ」
凛は何も返せなかった。
理央にとっては、本当にそうなのだ。
死を望んだ者が自らやって来る。
理央はその身体を受け取り、自分の知りたいことを確かめる。
いつの間にか理央の中では、それが一つの形として成立していた。
今日起きたことだけが、その流れから外れた。
凛にとっては、人が死んだ。
理央にとっては、想定外が起きただけ。
同じものを見ていたはずなのに、二人の目に映っているものはまるで違っていた。
「……私が殺したのかな」
「分からないわ」
「分からないって……」
「あなたが押さえたことが原因だったのか、それ以前の状態によるものだったのか。今ここでは判断できない」
「そういうことを聞いてるんじゃない」
理央が黙る。
「私、人を殺したのかなって聞いてるの」
理央は凛を見た。
「だから、分からないわ」
凛は俯いた。
理央が私を慰めるためだけに根拠のないことを言うとも思えなかった。
昔からそうだった。
理央は真っ直ぐだった。
一度興味を持てば、その一点を見続ける。
周囲が何を言おうと、自分が納得するまで追い続ける。
大学で同じ研究をしていた頃、凛はそんな理央の隣にいることが心地よかった。
理央が見ているものを、自分も見ることができた。
だから一緒に進めた。
だが、今は違う。
理央が見ている先を、凛は同じようには見ることができなかった。
「……これからどうするの?」
「どうって?」
「これからも続けるの?」
「そのままよ。明日も研究所に行く。依頼があれば、また同じことをするだけ」
明日の予定でも話しているような口調だった。
「……出頭しよ?」
理央は黙って凛を見る。
「まだやり直せるよ」
返事はない。
「今ならまだ――」
「私は最後まで行くわ」
凛の言葉が止まった。
「まだ知りたいことがあるもの」
「理央……」
「凛。あなたはこのまま、今日のことは忘れて普段の生活に戻りなさい」
「……」
「あなたまで付き合う必要はないわ」
凛は理央を見つめた。
止めなければならない。
理央のしていることは間違っている。
そんなことは分かっている。
それでも、理央は進む。
何を言われても、自分の見ている先から目を逸らさない。
「そう‥だね‥」
「‥‥」
理央はそのまま背を向けた。
凛も反対方向へ歩き出した。
数歩進んだところで、振り返る。
理央は振り返らなかった。
その夜、凛はほとんど眠れなかった。
目を閉じるたびに、手術室が浮かんだ。
何度寝返りを打っても消えてくれない。
「……もう関係ない」
布団の中で、小さく呟いた。
理央にもそう言われた。
昨日までの自分に戻ればいい。
研究所へ行き、仕事をして、普通に暮らす。
全て忘れる‥‥
翌朝。
凛は一睡もできないまま、研究所へ向かった。
理央はすでに席についていた。
机の上に資料を広げ、何かを書き込んでいる。
凛が入ってきても、特別な反応はなかった。
「おはよう」
「……おはよう」
昨日の話は出ない。
周囲には他の研究員たちがいる。
研究所では、何事もなかったように時間が進んでいく。
日頃と同じ対応を取った。
そんな自分自身に、凛は戸惑った。
人が死んだ。
自分もそこに加担した。
理央はなんでそんなに冷静でいられる?
家へ帰ると、再び考え始めた。
理央は続けると言った。
依頼があれば、またあの場所へ行く。
そのことだけが、頭から離れなかった。
その姿を見ているうちに、凛は気づいてしまった。
変わったのは、自分の方だった。
あの事故の日、自分を庇った理央の姿が頭に残っている。
あの日から理央のことしか考えなくなった。
それが凛の中では当たり前になっていた。
「……ずるいよ」
誰にも聞こえない声で呟いた。
理央は何も求めていない。
戻れと言われた。
付き合う必要はないとも言われた。
凛は理央を責めることさえできなかった。
理央のしていることは間違っている。
命を助けてもらったことと、犯罪に手を貸すことは別だ。
何度考えても、結論は変わらない。
理央が一人であの場所へ向かう姿を想像するだけで、胸の奥がざわついた。
また何か起きたら。
今度こそ理央自身に何かあったら。
その時、自分は何を思うのだろう。
離れたことは正しかったと、本当に納得できるのだろうか。
凛にはできると思えなかった。
数日後。
必ずその日は来る‥凛は確信していた。
理央は止まらない自分が何を言っても。
理央の気持ちは共有することはできない。
それでも凛は、理央を一人にはしたくなかった。
凛は目を閉じた。
自分を庇った理央の姿が浮かぶ。
そこへ、あの手術室の光景が重なった。
本来なら、決して交わるはずのない二つの記憶だった。
凛はゆっくりと目を開いた。
分かった上で決めた。
自分の意思で、あの場所へ戻る。
理央は何も変わらず、ただ真っ直ぐに進んでいた。
その隣に立つために。
凛は、自分の信念を捻じ曲げた。




