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第九話

自分の意思で、あの場所へ戻る。

理央は何も変わらず、ただ真っ直ぐに進んでいた。

その隣に立つために。

凛は、自分の信念を捻じ曲げた。

廃病院の手術室。


使われなくなってから、どれほどの年月が経ったのか。


薄汚れた壁。錆の浮いた器具。中央に残された古い手術台。


初めてここへ足を踏み入れた時、凛は何度も周囲を気にしていた。


物音がするたびに振り返り、理央が奥へ進めば、その背中を追うようについていった。


今は違う。


凛は持ち込んだ荷物を開き、中身を確認していた。


「薬品、これでいい?」


「ええ。そこに置いておいて」


「わかった」


指定された場所へ置き、次の準備へ移ろうとする。


そこで、凛の手が止まった。


何の違和感もなく動いていた。


何が必要なのかを覚えている。


どこに置けば理央が使いやすいのかも分かっている。


「……私、慣れてきてる」


理央が振り返る。


「何に?」


「こういうのに」


少しだけ間が空いた。


「嫌?」


「嫌に決まってるでしょ」


凛は即答した。


その言葉だけなら、以前と何も変わらない。


だが、本当に嫌なら来なければいい。


警察へ知らせることもできる。


理央から離れることだってできる。


全て自白し終わらせることだってできた。


それでも今日もここにいる。


理央を一人にしないため。


もしもの時には、自分が止めるため。


そう考えていれば、ここにいる自分を納得させることができた。


だが今は、理央に指示されるより先に必要なものを揃えている。


止めるために来た人間の行動ではなかった。


「……始めるの?」


「ええ」


理央は手術台へ向かった。


その途中で、ふと足を止める。


「凛」


「なに?」


「今日は、あなたがやってみる?」


凛は顔を上げた。


「……私が?」


「ええ」


視線が手術台へ移る。


これまで何度も、その傍に立ってきた。


理央が何を確かめようとしているのかも知っている。


必要なものを渡し、記録を手伝い、時には相手を押さえた。


だが、自分が中心になったことは一度もない。


「嫌ならやらなくていいわ」


それだけ言うと、理央は黙った。


勧めることも、説得することもしない。


後戻りはできない。


ここまで来たなら理央に認めてもらいたい。


「……やる」


凛は一呼吸置いて返事をした。


「そう」


理央が場所を譲った。


その場所へ、凛が立つ。


目の前にいるのは人間だった。


研究材料。


理央なら、そう見るのだろう。


凛も同じように考えようとした。


これまで見てきたことを思い出しながら、自分の手を動かす。


傍から見ている時とは、まるで違った。


冷や汗と震えが止まらない。


理央も気づいてるはずそれなのに何も言わない。


ただ、ずっと人体を見続けている。


自分でやると言った以上止めることもできない。


凛は続けた。


やがて、手術台の上から動きが消えた。


静寂が戻る。


凛は動けなかった。


理央が近づき、状態を確認する。


「……私が、殺したの?」


「ええ。今度は間違いなく」


凛の指先がまた震え出した。


膝から力が抜け、その場にしゃがみ込み両手を見る。


見慣れたはずの自分の手は相手の血で染まっている


やり遂げた高揚感に包まれる凛、犯罪の意識はもう無い。


「……私、本当にやったんだ」


「ええ」


「理央は……最初の時、怖くなかったの?」


「怖くなかったとは言わないわ」


凛は顔を上げた。


「じゃあ、なんで続けられたの?」


理央は少しも迷わなかった。


「知りたかったから」


「……やっぱり理央だね」


すると今度は、理央が尋ねた。


「凛は?」


「え?」


「どうしてやったの?」


答えが出なかった。


研究に惹かれたわけではない。


人体について知りたいわけでもない。


理央と同じ景色を見たかったわけですらなかった。


ただ、理央だけを自分の届かない場所へ行かせたくなかった。


「帰りましょう」


「……うん」


理央が手を差し出した。


凛はしばらくその手を見つめ、それからゆっくりと握った。


数日後。


二人はいつものように研究室にいた。


凛は机に広げられた資料を整理し、理央は隣でノートを確認している。


「前回、確認できなかったところあるよね」


「あるわね」


「次やるなら、そこ見た方がいいんじゃない?」


口にした直後、凛の手が止まった。


「どうしたの?」


「……今の私、普通に言ってた」


「何を?」


「次やるならって」


「いつものあなたじゃない」


凛は自分の口から出た言葉を確かめるように黙り込んだ。


「理央は何とも思わないの?」


理央はノートを閉じた。


「別に」


「別にって……」


「凛が判断して私が実行する。いつものプロセスだわ」


「……そっか」


その時だった。


休憩室のテレビから流れていたニュースに、聞き覚えのある情報が混じった。


複数人の失踪。


ここ数か月、行方が分からなくなる人が相次いでいるという。


警察はそれぞれの失踪について調べるとともに、関連性についても捜査を進めているらしい。


凛の視線がテレビへ向いた。


画面が切り替わる。


表示された失踪者の一人を見た瞬間、息が止まった。


知っている。


ここへ来た人間だった。


「……理央」


凛は声を抑え、理央を休憩室の外へ連れ出した。


「これ……私たちのことだよね」


「おそらく」


あまりにも平静な返事だった。


凛は休憩室を振り返る。


他の研究員たちは、ただのニュースとしてテレビを眺めていた。


誰も二人を見ていない。


画面に映っている人間がどこへ消えたのか。


その身に何が起きたのか。


知っているのは、自分たちだけだった。


「……怖くないの?」


「怖いわよ」


思いがけない答えに、凛は理央を見る。


「怖いんだ」


「私だって捕まりたいわけじゃないもの」


「じゃあ……やめる?」


理央は一度だけ視線を落とした。


「今やめても、これまでのことは消えないでしょう」


「……」


「それに、まだ知りたいことがある」


凛は何も言わなかった。


以前なら止めていたかもしれない。


少なくとも、止めようとはしたはずだった。


今は違う。


理央の言葉を聞いても、何も返す言葉が浮かばなかった。


その日の帰り道。


二人は並んで歩いていた。


しばらく会話はなかった。


やがて、凛が小さく口を開く。


「ねえ、理央」


「なに?」


「……いつからだろうね。こんな関係になったの」


理央は答えなかった。


凛は足元を見ながら歩き続ける。


「昔は楽しかったな」


高校にいた頃。


大学へ進んだ頃。


二人で研究をしていた頃。


どこから間違ったのかを考えようとして、凛はやめた。


「戻りたいな。あの頃に」


声が震えた。


頬を涙が伝う。


「……無理ね」


「わかってる」


理央の答えは短かった。


慰めることもない。


「もう戻れないもの」


「うん」


凛は涙を拭った。


「後悔してないって言えば、嘘になる」


理央は前を向いたまま歩いている。


「でも、時々思い出すんだ。普通に二人で笑ってた頃のこと」


「私は振り返らないから、凛の気持ちは分からないわ」


凛は少しだけ笑った。


「……理央らしいね」


その横顔を見た時、凛の中で何かが繋がった。


理央は前を向いている。


昔から、ずっとそうだった。


研究したいと思えば研究する。


知りたいと思えば確かめようとする。


そのために前へ進む。


事故に遭っても、身体が思うように動かなくなっても、それだけは変わらなかった。


凛の足が止まった。


「……変わったな、私」


理央も立ち止まり、振り返る。


「凛?」


「理央はずっと同じだった」


自分の声なのに、ひどく遠く聞こえた。


「私は理央の隣にいたくて、いろんなものを曲げてきた」


理央は黙っている。


「進路も、常識も……自分が正しいと思ってたことも」


また涙が流れた。


それでも凛は笑った。


ようやく分かった気がした。


「こんなに近くにいたのにね」


「……」


「理央と同じ道を進めなくなったのは、仕方なかったんだ」


真っ直ぐ進み続ける理央。


その隣にいたくて、進む方向を変え続けた自分。


最初は小さなずれだった。


いつからか、それは戻せないほど大きくなっていた。


「真っ直ぐ進んでる理央に、曲がり続けた私が合わせられるわけなかった」


「凛……」


凛は理央を見つめた。


ずっと隣にいた。


だから、自分も同じ場所にいるのだと思っていた。


違った。


「寄り添えなくなってたのは……私の方だったんだね」

挿絵(By みてみん)

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