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第七話

理央は何も変わっていないように見える。

凛も何も聞かなかった。

理央はその理由を話すつもりもない。

同じ場所にいるはずの二人の間には、いつの間にか小さなずれが生まれていた。

廃病院の手術室


以前この場所で研究をした時、相手は一時間もしないうちに息を引き取った。


理央は手術台の傍らに立ち、置いていたノートを開いた。


ページには細かな文字がびっしりと並んでいる。


時間ごとの変化、観察した箇所、気づいたこと、確認するべき事。


その一部には、乾いた赤い染みが残っていた。


理央は気にする様子もなく、自分の書いた記録を指で辿っていく。


「あのやり方では、長く持たないことが分かった」


見たいものは、まだいくらでもあった。


しかし、臓器もまた生きている。


限られた時間の間でしか見ることのできない変化がある。


前回は、一度で全てを知ろうとした。


それでは当然時間が足りなくなる。


理央はしばらく記録を眺めたあと、空いているページを開いた。


「次からは部分観察に切り替える」


一人につき、一箇所。


その方がいい。


見る場所を限定すれば、余計なことに時間を使わずに済む。


理央は新しい方針を書き加え、ノートを閉じた。


それからも、理央は廃病院で研究を続けた。


今日もまた一人、手術台に人間が横たわる。


その傍らに立つ理央の姿も、最初の頃とは少し変わっていた。


今日は心臓。


一定の間隔で繰り返される鼓動。


色、形、時間経過による変化。


細かく詳細をノートに写す


回数を追うごとに着ていた白衣に赤い染みが増え続けた。


当然、ノートにも染みが増える。


拭き取る時間が惜しい程に研究にのめり込んでいた。


「なるほど……」


小さく呟き、またペンを動かす。


目の前にあるもの以外が、気にならなくなっていた。


やがて、一定だった心音が弱くなっていった。


「……まだ」


音と音の間隔が長くなる。


理央は手を止めない。


そして、音が潰えた‥


静かになった手術室で、理央はしばらく目の前の変化を見つめていた。


やがてノートへ最後の一行を書き加える。


「今日は終わりね」


ぱたん、とノートを閉じた。


数日後。


理央は、また別の人間と廃病院へ来ていた。


同じ廊下を通り、同じ手術室へ入る。


この場所へ来ること自体が、すでに特別ではなくなり始めていた。


以前なら、手術室へ足を踏み入れただけで胸の奥にあった高揚も、今ではずっと静かになっている。


代わりにあるのは、これから何を見ることができるのかという期待だけだった。


理央は手術台に横たわった相手の顔を覗き込む。


「おやすみ……よく眠れるわよ……」


穏やかな声だった。


相手はすでに意識を失っている。


返事など返ってこない。


それから理央は、毎回のように声をかけるようになっていた。


理央はノートを開く。


「今日は肺ね」


迷いなく書き始める。


状況を観察し、記録する。


変化があれば、それも書き残す。


廃病院で過ごす時間は、理央にとって研究室で過ごす時間と大きく変わらないものになっていた。


別の日。


研究室には凛が一人残っていた。


机の上には資料が広げられ、パソコンにも研究データが表示されている。


だが、凛の手は止まっていた。


画面を見つめたまま、何分経ったのかも分からない。


やがて椅子の背にもたれ、小さく息を吐いた。


「……絶対おかしい」


薬品の件もある。


あの時から抱いていた理央への違和感は、消えるどころか日に日に大きくなっていた。


だからといって、すぐに問い詰めることはしなかった。


追及してもまた誤魔化されるだけかもしれない。


それなら、自分で見るしかない。


凛はそう考え、しばらく理央の様子を気にするようになっていた。


そのうち、一つだけはっきりと変わったことに気づいた。


帰る時間だった。


「ここ数日……いや、もっと前からか」


以前の理央なら、放っておけば日が落ちても研究室から出ようとしなかった。


研究に入り込めば周囲が見えなくなる。


凛が帰ろうと声をかけても、返ってくるのは決まって


『あと少し‥』


十分経ってもまた『あと少し』


結局、凛が半ば無理やり連れ出すようにして一緒に帰る。


そんなことも珍しくなかった。


「昔はあんなに帰らなかったのに……」


今は違う。


夕暮れ前になると、理央は自分から時計を見る。


研究が途中でも手を止め、一人で帰っていく。


理由を聞いても、


『ちょっと用事があるから』


『今日は先に帰るね』


と答えるだけだった。


翌朝になれば、何事もなかったように研究室へやってくる。


どうしても夕方だけが不自然だった。


凛は資料へ視線を戻した。


一行も頭に入ってこない。


最近では、理央が席を立つ時間まで気にするようになっていた。


小さな違和感が、一つずつ積み重なっている。


「絶対、何かある」


その時、研究室の扉が開いた。


理央が戻ってきた。


「まだやってたの?」


「うん」


凛は何事もなかったように資料へ目を落とした。


理央も自分の席へ戻り、作業を始める。


しばらくして、時計を見る。


そして、まだ外が明るいうちに資料を閉じた。


凛は横目でその様子を追っていた。


理央が鞄を持つ。


「じゃあ、先に帰るね」


「……うん」


「凛もあんまり遅くならないでね」


「分かってる」


理央は笑った。


凛も笑い返した。


やがて扉が閉まる。


その瞬間、凛の顔から笑みが消えた。


間を空けて、凛は立ち上がり資料を閉じる。


「……今日こそ確かめる」


パソコンの電源を落とし、鞄を掴んだ。


音を立てずに研究所を出ると、その先にはまだ理央の姿が見えた。


凛は距離を取って後を追った。


近づきすぎないように歩く。


理央が角を曲がれば、少し待ってから自分も曲がる。


「私、何やってるんだろ……」


友人を尾けている罪悪感が凛の尾を引く


意識する度、引き返したくなった。


今日も何もせず見送れば、明日になってまた同じことを考えるだけだ。


しばらく歩いたところで、理央が立ち止まった。


凛も咄嗟に足を止める。


少し離れた場所に、一人の女性が立っていた。


「……誰?」


見覚えがない。


大学関係者でも、研究所の人間でもなかった。


女性は理央を見ると、小さく頭を下げた。


理央も何か言葉を返している。


親しいようには見えなかった。


むしろ初対面に近いようにさえ見える。


それなのに、二人はそのまま並んで歩き始めた。


凛も後を追う。


進むにつれて、人通りが少なくなっていった。


建物も減っていく。


凛の胸の奥がざわついた。


やがて二人が向かった先に、一つの古い建物が見えてきた。


「……病院?」


理央と女性は立ち止まらなかった。


そのまま建物の中へ入っていく。


凛は離れた場所から入口を見つめた。


すぐに追いかけることはしなかった。


一分。


誰も出てこない。


五分。


入口は静かなままだった。


凛はスマートフォンのマナーモードをオンにする。


十分が過ぎても二人は出てこなかった。


「……何してるの、理央」


何も見なかったことにして、明日になってから理央に聞くこともできる。


だが、胸騒ぎは消えなかった。


夕暮れ前の外出。


見知らぬ女性。


そして、廃病院。


ここで帰れば、自分はまた何も分からないままだ。


凛は入口へ向かった。


廃病院の中は薄暗かった。


足を踏み入れると、床には細かなガラス片が散らばっている。


凛はできるだけ音を立てないよう、ゆっくりと奥へ進んだ。


暗がりの廊下を壁に手を添えて歩く


「……理央?」


声を抑えて呼ぶが当然返事はない。


自分の足音だけが静かな廊下に響く。


しばらく進んだところで、廊下の先に光が見えた。


凛は足を止める。


扉の隙間から、細い光が漏れている。


ゆっくりと近づいた。


扉の前まで来たところで、凛は視線を上げる。


古びたプレートが残っていた。


『手術室』


胸の鼓動が速くなる。


理央がここにいる。


凛は扉に手をかけた。


一瞬だけ迷うが、ゆっくりと押し開けた。


「……理央?」


中にいた理央が振り返った。


「……凛!」


理央の動きが止まった。


凛も動けなかった。


目の前にあるものを、頭が理解することを拒んでいた。


手術台。


横になってるのは理央と一緒に入っていった人のようだった。


そして、その傍らに立つ理央。


血のついた白衣。


側には開かれたノート。


理央の異様な光景。


「なに‥‥してるの?」


理央は答えなかった。


「……」


凛は手術台へ目を向ける。


血が滴り落ちている。


腹が開かれた女性が横たわっている。


「……嘘でしょ」


「凛……」


「何してるの! 理央!」


返事はない。


「何してるのって聞いてるの!」


理央が何か言おうとした。


その時だった。


手術台が揺れた。


「……え?」


理央が振り返る。


凛も息を呑んだ。


女性の指先が動いた。


続いて腕が動く。


そして、目が開いた。


「え? 嘘、待って」


女性は状況を理解できていない様子で、身体を起こそうとした。


直後、手術室に悲鳴が響いた。


「……っ!」


凛の身体が硬直する。


女性は激しく身体を動かし始めた。


「動かないで!」


「理央!」


「凛、下がって!」


理央の声から、それまでの落ち着きが消えていた。


完全に想定外だった。


女性が動くたび、手術台の周囲が乱れていく。


何が起きているのか。


凛にはもう、それを一つずつ理解する余裕がなかった。


ただ、目の前の光景が異常であることだけは分かった。


「待って……お願い、動かないで!」


「どうするの!?」


「分からない……!」


「分からないって何!?」


再び悲鳴が響いた。


凛の頭の中が真っ白になった。


「静かにして……」


凛は女性へ駆け寄った。


「お願い……静かにして!」


近くにあった布を掴む。


何をしようとしているのか、自分でも分かっていなかった。


ただ、声を止めなければならない。


それしか考えられなかった。


凛は布を女性の顔へ押し当てた。


女性が必死に抵抗する。


「お願いだから……!」


「凛!」


理央の声が聞こえた。


だが、その意味までは頭に入ってこなかった。


凛は必死に女性を押さえ続けた。


「静かにして……お願い……!」


抵抗が続く。


本当ならこの手を離さなければならない。


どこかでは分かっていた。


それでも、手を離した瞬間にまた叫ばれる。


その恐怖の方が勝っていた。


どれほどの時間が経ったのか分からない。


理央が何かを言っている。


聞こえない。


やがて、女性の抵抗が少しずつ弱くなっていった。


凛はそれでも手を離せなかった。


腕の動きが小さくなる。


そして、手術台の端から腕が落ちた。


力の抜けた手が、だらりと垂れ下がる。


動かない。


「……え」


凛の手が離れた。


女性はそのまま横たわっていた。


「……ねえ」


返事はない。


「……起きて」


「凛……」


「ねえ……」


理央が女性へ近づいた。


凛はその場から動けなかった。


理央が手首に指を当てる。


しばらく、そのまま確認していた。


凛は理央だけを見つめていた。


やがて理央は、ゆっくりと首を横に振った。


「……亡くなったわ」

挿絵(By みてみん)

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