第六話
「じゃあ早く片付けて」
「分かってるって」
いつもと変わらない返事をしながら、理央は資料を閉じた。
生きた検体を手に入れたい。
ただ、それだけだった。
死体解剖の補助をするようになってから、理央が研究室に残る時間は以前より長くなっていた。
頼まれた仕事が終わっても、すぐには帰らない。
パソコンには人体に関する論文をいくつも開き、机の上には過去の解剖記録や医学資料が積まれている。一つ読み終えれば次を開き、気になる記述があれば別の資料を探す。
その日も、凛が帰り支度を終えた頃になっても、理央は画面から目を離そうとしなかった。
「理央、まだ帰らないの?」
「もう少し」
「最近ずっとそれじゃん」
「だって面白いから」
返事をしながらも、理央の視線は画面に向けられたままだった。
凛は鞄を肩に掛け、その横顔を見る。
研究に夢中になること自体は珍しくない。
納得できないことがあれば時間を忘れて調べ、思うような結果が出なければ何度でも試す。それは高校時代から変わらない理央の姿だった。
けれど最近は、以前とは少し違うように感じる。
「そんなに人体って面白い?」
「うん」
あまりにも早い返事に、凛は苦笑した。
「即答なんだ」
「だって、面白いでしょ」
そこでようやく理央が画面から顔を上げた。
「同じ人間なのに、まだ分からないことがいっぱいあるんだよ」
「まあ……そうだけど」
「構造だけじゃないし。死んでから変わるものもあるし、生きてる間にしか起きないこともある」
「……生きてる間?」
ほんの一瞬。
理央の表情が止まった。
「いや……普通の話だよ。反射とか、筋肉の動きとか」
「そういうことね」
凛は笑った。
理央も同じように笑う。
会話はそれで終わった。
だが研究室を出てからも、凛の頭には理央の言葉が残っていた。
生きている間にしか起きないこと。
研究者なら、それくらい考えるのかもしれない。
人体について調べているのだから、何も不自然ではない。
「……考えすぎか」
凛は小さく呟き、そのまま帰路についた。
数日後。
解剖の補助を終えて戻ってきた理央は、自分の席に着くなり記録をまとめ始めた。
凛が隣から覗き込む。
「今日も解剖?」
「うん」
「もう慣れた?」
理央は少し考えてから首を傾げた。
「慣れたっていうより、毎回違うから楽しい」
凛の手が止まった。
「……楽しい?」
「うん」
理央は何の疑問も持たずに答えた。
「普通、そういうのって怖いとか、気持ち悪いとかじゃない?」
「最初は少し緊張したけど」
理央は記録へ視線を戻す。
「でも、中身はみんな違うし、教科書で見るのと実際に見るのも違う。知ってたことが本当にそこにあるって分かるの、楽しいよ」
「へえ……」
凛は曖昧に返した。
以前なら
理央らしい
と言って笑っていたかもしれない。
しかし今はその言葉だけが妙に耳に残る。
『楽しい』
理央にとっては、知らなかったことを知る喜びを表しただけなのだろう。
目の前にいる理央も、いつもと変わらない。
楽しそうに記録を整理している。
「なに?」
不意に理央が顔を上げた。
「え?」
「さっきから見てるから」
「ああ、ごめん。ぼーっとしてただけ」
「変なの」
理央が笑う。
凛も笑い返した。
その笑顔を見ながら、今度は理央が凛の目を見つめた。
ほんの少しだけ長く。
やがて何も言わず、再び記録へ視線を戻した。
その日の夜。
自室へ戻った理央は、パソコンを開いていた。
人体に関する論文や症例記録、医学資料まで
いくつもの画面を切り替えながら、情報を追っていく。
解剖によって分かることは多くある。
実際に自分の目で見ることで、教科書の図だけでは理解できなかったものまで見えてくる。
だが、どれほど詳しく観察しても、それはすでに活動を終えた身体だった。
そこには、どうしても越えられない壁がある。
理央の指が止まった。
『どうしても生きている検体が欲しい』
その考えが、頭から離れなくなっていた。
目の前には手術の資料がある。
医学生に混じって生の手術を見ることもできるはず、
しかしそれでは傍観しかできない。
自分の目で見て、触って、確かめたい。
その欲求は、資料を読むほど強くなっていった。
理央はしばらく画面を見つめていた。
やがて別の場所を開く。
そこには、自ら死を望む者たちの書き込みが並んでいた。
理央は一行、また一行と目で追い始める。
やがて、一つの書き込みで指が止まる。
画面を見つめる。
考える時間は、それほど長くなかった。
短い文章を入力し、送信ボタンを押した。
そのままパソコンを閉じた。
数日後。
理央は大学から遠く離れた場所にいた。
目の前にあるのは、かつて病院として使われていた建物だった。
窓の一部は割れ、外壁は長い年月を経て黒ずんでいる。
周囲に人影はなく、建物が使われなくなってから相当な時間が経っていることが分かった。
理央は建物を見上げる。
そして、建物へ入る。
廊下には埃が積もり、壁には病院だった頃の案内表示が残されている。
閉ざされた病室。
使われなくなった受付。
かつて多くの人間が行き交っていたはずの場所に、今は物音一つない。
さらに奥へ進んだ理央は、一つの扉の前で足を止めた。
『手術室』
不気味なきしみ音と共に扉が開く
中央には古い手術台が残されていた。
理央は室内をゆっくり見回した。
「……ここなら」
その声だけが、静まり返った室内に響いた。
後日。
理央は再び廃病院の手術室にいた。
今度は一人ではない。
古びた手術台には、一人の人間が横たわっている。
理央は必要な準備を済ませると、相手と短く言葉を交わした。
その表情に迷いはなかった。
薬品を打ち込むと相手の体からは力が抜けていった。
反応を確認したところで観察を始める。
手術台の脇には、一冊のノートが置かれていた。
変化が起きるたびに視線を落とし、書き留めていく。
目の前で起きている変化を、理央は一つも見逃すまいとしていた。
実際に目の前で起きている現象は、研究で見てきた遺体での解剖とは明らかに違う。
理央の呼吸が僅かに速くなる。
「……すごい」
思わず声が漏れる。
目の前にあるのは知識の塊だった。
今まで文字や図でしか知ることのできなかった変化が、現実のものとして起きている。
理央は一心不乱に観察を行った。
時間が経つにつれ、反応は弱くなっていった。
やがて動きが止まる。
心停止‥‥
手術台の脇に置いたノートへ目を落とす。
最後に一行を書き加えた。
「……そうなるんだ」
静かな声だった。
そこに恐怖も後悔もない。
理央の中に残ったのは、知らなかった現象を一つ知ることができたという事実だけだった。
翌朝。
研究室へ入ると、いつものように凛がやってきた。
「おはよう」
「おはよう」
何も変わらない朝だった。
凛は理央の隣へ座り、二人はそれぞれの作業を始める。
しばらくして、凛が何気なく口を開いた。
「昨日、休みだったよね?」
「うん」
「何してたの?」
理央の動きが一瞬だけ止まった。
「ちょっと出てた」
「そっか」
凛はそれ以上聞かなかった。
画面へ視線を戻す。
声をかけた直後の動きが妙に気になった。
理央も資料へ目を戻した。
文字を追いながら、隣にいる凛の様子を横目で窺う。
以前なら、何も感じなかった質問だった。
(私、動揺している?)
凛は何も追及してこない。
それなのに、理央の中には小さな落ち着かなさが残った。
さらに数日後。
凛は研究室の備品を確認していた。
記録と照らし合わせながら数を確認していく。
途中で手が止まった。
「……あれ?」
もう一度数える。
薬品の数が合わない。
使用記録を確認したが、該当する記載もなかった。
「一個足りない?」
念のためにもう一度棚を確認する。
結果は変わらない。
誰かが記録を忘れたのだろうか。
近くにいた研究員にも尋ねたが、誰も心当たりはない。
そこで凛は、何気なく理央へ視線を向けた。
いつもの席で資料を読んでいる。
「理央」
「ん?」
「この薬品、知らない?」
一瞬、ほんの僅かな間があった。
「……知らないよ」
「そっか」
凛はそれ以上聞かなかった。
理央は再び資料へ目を戻した。
視線は文字を追っている。
内容はほとんど頭に入ってこなかった。
(凛が私を疑っている‥‥?)
考えすぎかもしれない。
最近、自分の周囲の目や動きが気になり始めた。
その日の夕方。
備品について確認していた担当者から、凛が声を掛けられた。
「篠宮、例の備品どうだった?」
凛は答えようとして、一瞬だけ棚を見た。
「やっぱり足りなかったか?」
「いえ」
少しだけ間を置く。
「私の数え間違いでした」
「そうか。ならいい」
「すみません」
担当者が離れていく。
凛は小さく息を吐いた。
(なんで嘘ついたんだろう‥)
自分でもよく分からなかった。
もう一度、理央に確認してから報告したかっただけ。
そう自分に言い聞かせる。
何気なく理央の席を見る。
そこに姿はなかった。
「あれ……?」
少し前までいたはずだった。
机には資料だけが残されている。
凛はしばらく、誰もいない席を見つめていた。
それから、理央が先に帰る日は少しずつ増えていった。
凛が休憩から戻れば、すでに姿がない。
以前なら声を掛けていた場面でも、そのまま通り過ぎることがある。
「理央、今日一緒に帰る?」
「ごめん。ちょっと用事ある」
「そっか」
「また今度ね」
「うん」
理央はいつも通り笑った。
凛も笑い返す。
だが理央が研究室から出ていくと、その表情から少しずつ笑みが消えていった。
「……最近忙しいのかな」
声に出してみる。
以前にはなかった違和感を感じていた。
一方、研究室を出た理央も廊下の途中で足を止めていた。
頭に浮かんだのは凛の顔だった。
備品について尋ねてきたときの声。
最近、何度か感じるようになった視線。
(凛に疑われている)
そこまで断定することはできない。
日が経つに連れ、自分を気にしていることは確かだった。
なら少し離れた方がいい。
それだけなら不自然ではない。
理央はそう結論づけると、再び歩き始めた。
その夜。
風呂から上がった凛は髪を乾かし、パソコンを開いた。
何かを調べるつもりだったわけではない。
画面を眺めているうちに、最近の理央の姿が頭に浮かんできた。
理央が急に態度を変えてきたのは、人体解剖を始めた頃からだ。
一つ一つなら、気にするほどのことではない。
理央が研究に夢中になるのは昔からだった。
それでも、何かが引っかかる。
以前なら気のせいだと思って終われた。
今は、それだけでは消えてくれない。
「理央、最近……私を避けてる?」
声に出した瞬間、胸の奥に残っていた違和感が、初めて形を持った。
そう考えると、それまで気に留めなかった小さな変化まで気になり始める。
凛はパソコンを閉じた。
「……もしかして」
続く言葉は出なかった。
自分でも何を考えようとしたのか分からない。
一度生まれた違和感はもう消えてくれなかった。
翌朝。
二人はいつもの研究室で顔を合わせた。
「おはよう」
「おはよう」
理央は何も変わっていないように見える。
凛も何も聞かなかった。
理央はその理由を話すつもりもない。
同じ場所にいるはずの二人の間には、いつの間にか小さなずれが生まれていた。




