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第五話

理央にとって、それは恐れるものではない。

まして、避ける理由にもならない。

研究対象が変わった。

ただ、それだけのことだった。


大学を卒業した理央と凛は、そのまま大学院へ進んだ。


所属こそ変わったものの、二人の生活そのものに大きな変化はなかった。


朝から研究室へ向かい、実験をして、結果をまとめる。分からないことがあれば資料を調べ、仮説を立て、また試す。


理央にとって、それは昔から変わらない日常だった。


事故によって一度は思うように動かせなくなった身体も、今では研究生活に大きな支障をきたすことはない。


完全に元通りになったわけではなかった。それでも、理央は自分にできないことを数えるより、できることに目を向けていた。


ある日、研究室で資料を整理していると、教員の一人から声を掛けられた。


「白石、今ちょっといいか」


「はい」


理央が振り返ると、教員は手にしていたファイルを閉じた。


「解剖の補助に人が足りなくてな。手伝えるか?」


「解剖ですか?」


「そう。難しければ他を当たるけど」


理央はすぐには答えず、ほんの少し考えた。


人体について学んだことはある。研究に必要な資料も読んできたし、画像や映像を見る機会もあった。


だが、実際の人体を自分の目で見る機会はほとんどなかった。


「やります」


返事は早かった。


初めて解剖室へ入った時、理央は普段より口数が少なかった。


怖かったわけでも、気分が悪くなったわけでもない。


目の前にあるものを、一つでも多く自分の目で確かめようとしていた。


教科書で見てきたものと、そこにあるものは同じ人体だった。


だが、実物を前にすると印象はまるで違った。


平面の図では分からなかった位置関係。写真だけでは掴みにくかった奥行き。文章では何行も使って説明されていた構造が、目の前では一つの身体としてつながっている。


理央の視線は忙しなく動いていた。


指示された作業をこなしながらも、そのたびに新しく見えるものへ目が向く。


「白石」


呼ばれて顔を上げる。


「そこ、見えるか?」


教員が示した場所へ視線を移し、理央は頷いた。


「見えます」


「教科書で見るのとは違うだろ」


「……はい」


返事は短かった。


それ以上の言葉を返す余裕がなかった。


分からなかったものが分かる。


知識として覚えていたものを、実際に自分の目で確かめられる。


理央にとって、それは純粋に面白かった。


解剖を終えて研究室へ戻ると、凛がパソコンに向かっていた。


理央に気づくと、椅子を回して振り返る。


「どうだった?」


「何が?」


「今日。解剖の補助に入ったんでしょ?」


「ああ」


凛は理央の顔を確かめるように見た。


「平気だった?」


「何が?」


「いや、何がって……」


困ったような顔をされて、理央はようやく質問の意味に気づいた。


「ああ、そういうこと」


小さく笑い、自分の机へ資料を置く。


「別に。面白かったよ」


「面白かったって言う?」


「だって、分かりやすいじゃん」


「何が?」


「人体」


凛は数秒黙ったあと、呆れたように息を漏らした。


「その感想がもう理央だよね」


「褒めてる?」


「たぶん」


「じゃあ褒め言葉として受け取っとく」


理央は笑いながら、持ち帰った資料を開いた。


凛もそれ以上は何も言わなかった。


事故から復学までの時間を、凛は一番近くで見てきた。


身体が思うように動かない時期も、それでも研究へ戻ろうとしていた姿も知っている。


だからこそ、興味を持ったものへ夢中になっている今の理央を見ると安心した。


研究に向かっている時の理央は、昔からこうだった。


それから理央は、機会があるたびに解剖の補助へ入るようになった。


経験を重ねるにつれて、見る場所も変わっていった。


最初は実物の人体を見るだけで、新しい発見がいくつもあった。


やがて知識が増えてくると、以前なら見落としていた細かな違いにも気づくようになった。


教科書に描かれた人体は、理解しやすいように整理されている。


だが、実際の人体はそれほど単純ではない。


同じ部位であっても、すべてがまったく同じ形をしているわけではなかった。


理央は、その違いにも興味を持った。


知れば知るほど、新しい疑問が生まれる。


一つの答えを得れば、その向こうにまた分からないことが現れる。


それを追いかける時間が、理央は好きだった。


「白石、また解剖入るのか」


研究室を出ようとしたところで教員から声を掛けられ、理央は足を止めた。


「はい」


「最近多いな」


「面白いので」


即答すると、相手は笑った。


「お前、本当に研究好きだな」


「今さらですか?」


「いや、前から知ってるけどな」


理央も笑う。


「白石なら、そっちの分野でもやっていけそうだな」


「そうですか?」


「少なくとも嫌がってるようには見えない」


「嫌ならやりませんよ」


「それもそうか」


周囲から見れば、理央は新しい分野に興味を持った大学院生にすぎなかった。


誰も不自然には思わない。


理央自身も、それ以上のことは考えていなかった。


「最近、解剖ばっかり行ってない?」


研究室へ戻ると、今度は凛から声を掛けられた。


「そう?」


「そうだよ。今日もでしょ?」


「頼まれたから」


「前はそんなに嬉しそうに引き受けてなかったじゃん」


「面白いからね」


凛は呆れたように笑った。


「理央、最近ほんと楽しそう」


「研究者が研究楽しんで何が悪いの」


「悪いとは言ってないよ」


「じゃあいいじゃん」


「はいはい」


凛にとっては、理央が新しい研究対象を見つけただけだった。


その認識は、理央自身も同じだった。


ある日の夜。


風呂を上がった凛は髪を乾かし、寝室の机に置いていたパソコンを開いた。


特に目的もなく画面を眺めているうちに、ふと最近の理央を思い出す。


以前より、明らかに楽しそうだった。


研究室へ戻れたことだけではない。


解剖の補助へ入るようになってから、理央は新しいものを見つけた子供のように次々と資料を読み漁っている。


その姿を見られることは、凛にとって嬉しいことだった。


それでも、一つだけ引っ掛かる。


死体を目の前にして、あれほど楽しそうにできるものなのだろうか。


少なくとも凛なら、自分から何度も見たいとは思わない。


だが、すぐに考えるのをやめた。


昔から理央は、興味を持ったものには周囲が見えなくなるほど夢中になる。


研究対象が人体へ変わっただけだ。


「……考えすぎか」


パソコンを閉じ、凛はベッドへ入った。


その頃には、理央の中にも小さな変化が生まれていた。


最初は気にも留めなかった。


目の前にある人体を見て、構造を確認する。


それだけで十分だった。


だが、何度も解剖へ立ち会ううちに、一つのことが気になり始めた。


理央は目の前の臓器を見つめる。


周囲とどのようにつながっているのかも、自分の目で確かめられる。


死体だからこそ見ることのできないものもある。


『生きている人体も見てみたい。』


理央は、そのことに気づいた。


その日の夜。


研究室には理央と凛だけが残っていた。


凛はパソコンに向かい、理央は机に広げた資料を眺めている。


しばらく静かな時間が続いていた。


「……理央」


「ん?」


「さっきから同じページずっと見てるけど」


理央はページへ目を落としたまま答える。


「そう?」


「そうだよ。考え事?」


返事がない。


凛が手を止めた。


「理央?」


しばらくして、理央が小さく口を開いた。


「……動いてる時って、どうなってるんだろ」


「え?」


「臓器」


凛は眉を寄せた。


「臓器?」


「今まで見たの、全部止まってたから」


一瞬だけ沈黙が落ちた。


「そりゃ、解剖なんだからそうでしょ」


「うん」


「手術の映像とかなら見られるんじゃない?」


「見たことあるよ」


「じゃあ、それでいいじゃん」


「……うん」


理央はそれ以上何も言わなかった。


凛はその横顔をしばらく見ていたが、やがてパソコンへ視線を戻した。


理央が研究について考え込むこと自体は珍しくない。


昔から一つ疑問を見つければ、納得するまで追いかける。


今回も、その延長に見えた。


映像なら見た。


論文でも読んだ。


心臓がどのように血液を送り出すのかも、肺がどのように働くのかも知っている。


けれど、それは誰かが見たものだった。


誰かが記録し、誰かが残したものだった。


それで本当に、知ったと言えるのだろうか。


理央はもう一度、資料に描かれた人体へ目を落とした。


生きている時は、どうなっているのだろう。


実際に動いているものを、この目で見てみたい。


その疑問は、いつまでも頭から離れなかった。


「帰らないの?」


凛の声で、理央は顔を上げた。


「帰るよ」


「じゃあ早く片付けて」


「分かってるって」


いつもと変わらない返事をしながら、理央は資料を閉じた。


生きた検体を手に入れたい。


ただ、それだけだった。

挿絵(By みてみん)

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