第四話
理央の隣へ並び、そのまま一緒に廊下を進んだ。
止まっていた研究は、もう動き始めている。
それを追うのも、もう一人ではなかった。
二人の研究が、ここから始まった。
復学した頃は車椅子での移動が中心だったが、リハビリは少しずつ進んでいた。
そして、ある朝。
教室の扉が開き、何人かの学生が何気なくそちらへ目を向けた。
「あれ?」
入ってきた理央を見て、一人が声を上げる。
理央は車椅子に乗っていなかった。
両脇に松葉杖をつき、一歩ずつ床を確かめるように教室へ入ってくる。
「白石、車椅子取れたんだ」
「完全にじゃないけどね」
「でも、よかったー」
別の学生も近寄ってきた。
「まだ手伝えることあったら言ってね」
「ありがとう」
少し遅れて教室へ入ってきた凛も、その姿を見て足を止めた。
「今日は松葉杖なんだ」
「うん。少しずつなら歩いていいって」
「調子に乗って歩きすぎないでよ」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんじゃない」
理央は笑いながら、自分の席へ向かった。
松葉杖を使えるようになったことで、行動できる範囲も少しずつ広がっていった。
車椅子では通りにくかった場所へも入りやすくなり、研究室でも、それまで凛に取ってもらっていた資料へ自分で手を伸ばすことが増えた。
もちろん、何でもできるわけではない。
長く歩けば脚は痛む。階段もまだ楽ではなく、荷物を持ったまま移動することも難しい。疲れが強い日には、今でも車椅子を使っている。
それでも、自分でできることは確実に増えていた。
ある日、研究室で凛が何冊もの資料を抱えていると、理央が松葉杖を机へ立てかけた。
「それ、半分ちょうだい」
「いいよ。私が持つから」
「持てるって」
「松葉杖なのに?」
「ここから机まででしょ」
凛は理央と机の間にある、ほんの数歩の距離を見る。
「転んでも知らないよ」
「その時は助けて」
「結局頼るんじゃん」
「転んだ時だけね」
ため息をつきながらも、凛は抱えていた資料の半分を渡した。
理央は両手でそれを受け取り、慎重に数歩進んで机へ置く。
棚から資料を取る。
近くの机まで移動する。
立ったまま短い作業をする。
以前なら凛が先回りしていたことを、理央は少しずつ自分でするようになっていた。
どれも小さな変化だった。
けれど理央にとって、自分でできることが一つ増えるたび、狭くなっていた世界が少しずつ元の広さを取り戻していく。
その変化は、凛にとっても嬉しいはずだった。
それなのに、長く続いた習慣は簡単には抜けなかった。
「それ取ろうか?」
「大丈夫」
「こっちは?」
「それも大丈夫」
二度続けて断られ、凛は少し不満そうに理央を見る。
「……もう私いらなくない?」
「何それ」
「前はもっと頼ってたじゃん」
「できるようになったんだからいいでしょ」
「えー、寂しいなー」
理央は呆れたように凛を見る。
「私に治るなって言ってるの?」
「そういう意味じゃないって」
「じゃあいいじゃん」
「まあ、そうなんだけど」
凛は納得しきれない様子で口を尖らせる。
そんな凛を見て、理央は小さく笑った。
「無理な時はちゃんと頼るから」
「それならいいけど」
その言葉を聞いて、凛もようやく引き下がった。
大学生活も、終わりへ近づいていた。
二人で続けてきた研究も、一つの形になろうとしている。
理央は机に並べた実験結果を確認し、そのうちの一か所を指さした。
「三回目だけ少しズレてる」
「やっぱり?」
「誤差で片付けるには大きいかな」
「もう一回やる?」
「やる」
凛は壁に掛かった時計を見る。
「卒論提出前なんだけど」
「だからでしょ」
「はいはい」
苦笑しながら、凛は実験器具へ手を伸ばした。
数日後。
論文の最終確認をしていた二人のもとへ、教授がやってきた。
「白石、篠宮。少しいいか」
二人が顔を上げる。
教授は手にしていた論文を机の上へ置いた。
「よくまとめたな」
「ありがとうございます」
凛が素直に頭を下げる横で、理央は論文へ目を落とした。
「まだ直せるところはあります」
教授は一瞬黙り、それから苦笑した。
「そういうところだぞ、白石」
「?」
「褒められた時くらい素直に喜べ」
凛がすぐに笑う。
「先生、それ昔からです」
「凛まで何」
教授もつられて笑った。
やがて表情を戻し、二人を見る。
「二人とも、この先も研究は続けるんだろう?」
「はい」
凛が答え、理央も頷いた。
「そのつもりです」
「なら安心した。研究者は結果を出すことも大事だが、続ける力も必要だからな」
そう言ってから、教授は理央の松葉杖へ目を向けた。
「白石、身体の方はどうだ」
「だいぶ楽になりました」
「無理はするなよ」
「無理だってしますよ。ここ研究室でしょ?」
「そういう意味じゃない」
横から凛が口を挟む。
「先生、言っても聞かないですよ」
「失礼だな」
「事実でしょ」
理央はそう返しながらも、笑っていた。
卒業研究の発表も無事に終わった。
質疑応答では理央が中心となって答え、必要なところを凛が補足する。
長く一緒に研究を続けてきた二人にとって、それは特別に打ち合わせる必要もないほど自然な役割分担になっていた。
発表を終えて研究室へ戻ると、凛は椅子へ深く腰を下ろした。
「終わった……」
「まだ論文の最終提出あるよ」
凛が勢いよく顔を上げる。
「今それ言う?」
「終わってないから」
「理央って本当に余韻ないよね」
「提出終わったら余韻に浸ればいいじゃん」
「そういうことじゃないんだけどなあ」
呆れながらも、凛は笑っていた。
理央も机の上に積まれた資料を見ながら、わずかに口元を緩めた。
そして迎えた卒業式の日。
校内には多くの学生が集まり、いたるところで写真を撮る声や笑い声が響いていた。
理央は松葉杖をつき、凛と並んで歩いていた。
以前ほど、一歩ごとに慎重になる必要はない。
歩く速度も少しずつ上がっている。
「終わっちゃったね」
凛が校舎を見上げながら呟いた。
「何が?」
「大学」
「研究は続くよ」
「そういう話じゃなくて」
「分かってる」
二人はそのまま研究棟の前を通り過ぎる。
凛が建物を振り返った。
「結局、大学生活ほとんど理央と一緒だった気がする」
「嫌だった?」
「まさか」
「ならいいけど」
凛は少しだけ歩いてから、今度は理央を見る。
「理央は?」
「何が?」
「私とずっと一緒だったこと」
理央は少しだけ考えた。
「悪くなかったよ」
「それだけ?」
「十分でしょ」
「はいはい」
いつものやり取りだった。
二人はそのまま並んで歩いていく。
学生として通った研究棟が、少しずつ遠ざかっていった。
卒業後、理央と凛は大学院へ進学した。
研究する場所が変わっても、理央のすることは大きく変わらなかった。
長い距離を移動する時にはまだ杖を必要としたが、研究室の中であれば、短時間なら立ったまま作業できる。
資料を読み、実験を行い、結果を記録する。
分からないことがあれば調べる。
答えが見つかれば、そこからまた新しい疑問が生まれる。
その繰り返しを、理央は何より好んでいた。
ある日。
研究室で作業をしていた理央は、指導教員から声をかけられた。
「白石、少しいいか」
「はい」
理央が手を止める。
「今度、献体を用いた研究に参加してもらいたい」
理央の視線が指導教員へ向いた。
「献体?」
「亡くなったあと、医学や研究のために提供されたご遺体を使う。解剖の補助にも入ってもらうことになる」
理央は一瞬だけ黙った。
これまで扱ってきたものとは違う。
機械でも、薬品でも、紙の上に並ぶ数値でもない。
かつて生きていた人間の身体を、自分の目で見て、自分の手で扱う。
指導教員は理央の沈黙を見て、言葉を付け加えた。
「無理なら断って構わない」
「いえ」
理央はすぐに答えた。
「やります」
迷いはなかった。
その日の夜。
理央から話を聞いた凛は、思わず聞き返した。
「解剖?」
「うん」
「理央がそんなことまでする必要ある?」
「必要があるかどうかじゃないよ。研究の一環だから」
凛は少し眉を寄せた。
「提供されたご遺体とはいえ、人だよ? 私なら怖い」
「私は平気」
「本当に?」
「うん」
理央の返事は変わらなかった。
凛は何かを言おうとして、やめた。
理央にとって、それは恐れるものではない。
まして、避ける理由にもならない。
研究対象が変わった。
ただ、それだけのことだった。




