第三話
理央はもう一度、車輪へ手をかけた。
ゆっくりと回す。
車椅子が前へ進む。
そのすぐ隣を、凛が歩いていった。
理央が大学へ戻ってきたのは、事故から一年近くが過ぎた頃だった。
意識を取り戻したからといって、すぐに元の生活へ戻れたわけではない。
長く眠っていた身体は、理央の思うようには動かなかった。
最初に始めたのは、ベッドの上で身体を起こすことだった。
自分の力で座る。
ベッドから車椅子へ移る。
両手で車輪を回し、前へ進む。
それまでなら意識することさえなかった一つ一つの動作を、理央は時間をかけて取り戻していった。
脚には、まだ十分な力が戻っていない。
リハビリ室では平行棒を両手でつかみ、ゆっくりと身体を起こす。
「もう少しです。頑張って、白石さん」
理学療法士の声に、理央は奥歯を噛みしめた。
「……っ」
腕に力を込め、震える脚で身体を支える。
少し離れた場所では、凛が黙ってその姿を見ていた。
立つための訓練は続いている。
それでも、大学生活を送るにはまだ車椅子が必要だった。
その状態で、理央は復学を選んだ。
そして、その隣には凛がいた。
二人は再び大学三年生として、同じ場所からやり直すことになった。
事故のあと、凛はそのまま三年生として大学へ通い続けることもできた。
だが、それを選ばなかった。
途中になっていた研究を、理央と一緒にやり直したい。
周囲にはそう説明していた。
もちろん、それも嘘ではない。
けれど、本当の理由はそれだけではなかった。
自分を庇ったことで、理央は一年を失った。
その理央を残して、自分だけ先へ進むことが、凛にはできなかった。
復学初日。
久しぶりの大学の廊下を、理央は自分の手で車輪を回しながら進んでいた。
凛はその隣を歩いている。
「久しぶりだね」
凛が辺りを見回す。
「そうだね」
「なんか変な感じ」
「一年空いたから?」
「それもあるけど」
凛は言葉を濁した。
廊下を行き交う学生たちの視線に気づいていたからだ。
事故のことを知っている学生もいる。
理央に声をかけようとして、結局やめる者。
少し離れたところから様子を窺う者。
一年ぶりに戻ってきた学生が車椅子に乗っているのだから、無理もない。
だが、当の理央はまるで気にしていなかった。
「気にならない?」
「何が?」
「見られてる」
理央は周囲へ視線を向けた。
何人かが慌てたように目を逸らす。
「見たいなら見ればいいんじゃない」
あまりにもあっさりした返事に、凛は苦笑した。
「理央らしい」
「車椅子が珍しいわけでもないでしょ」
「そういう問題じゃないと思うけど」
「じゃあ何?」
「……なんでもない」
凛はそれ以上言わなかった。
身体も生活も変わった。
できなくなったこともある。
それでも、理央は理央のままだった。
教室へ入ると、最初の小さな問題が待っていた。
理央がいつものように机へ近づこうとして、車椅子を止める。
机と椅子の間隔が狭い。
「これ邪魔だね」
「動かそうか?」
「うん」
凛が椅子を引き、机を少しずらす。
それだけで車椅子が入れるだけの空間ができた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
理央が席につくと、近くにいた女子学生がおそるおそる声をかけてきた。
「白石先輩、これ使います?」
手には授業で使う資料がある。
理央はそれを受け取りながら、別のところに引っかかった。
「先輩はやめて」
「え?」
「同じクラスなんだから」
女子学生は困ったように理央を見る。
「でも、一個上ですよね?」
「今は同じ三年生でしょ」
「じゃあ……白石さん?」
「それでいい」
そのやり取りを聞いていた男子学生も振り返った。
「なんか困ったことあったら言ってください」
「ありがとう」
「高いところの物とか、俺たちでも取れますから」
「それは助かる」
凛が横から口を挟む。
「私だけじゃ足りないって」
「一人に全部頼む必要ないでしょ」
「はいはい」
女子学生が小さく笑った。
「仲いいですね」
「まあ、長いからね」
凛が答えると、理央も頷いた。
「そうだね」
それまで少し固かった空気が、ようやく緩んだ。
授業を終えて廊下へ出ると、向こうから歩いてきた学生が理央に気づいた。
事故前まで同じ学年だった学生だった。
「あ、白石」
「久しぶり」
相手は理央の前まで来ると、一瞬だけ言葉に詰まった。
「体、大丈夫……ではないよな。ごめん」
「いいよいいよ、気にしないで。私、死んでないから」
「そういうこと言う?」
「事実でしょ」
呆れたような顔をされた。
けれど、その表情はすぐに笑いへ変わった。
「相変わらずだな」
「そっちもね」
「またな、白石」
「うん、また」
学生が去っていく。
その背中を見送ってから、凛が理央を見る。
「そういうこと普通に言うよね」
「何が?」
「死んでないからって」
「死んでないし」
「分かってるけど」
「ならいいでしょ」
「はいはい」
午後。
二人は研究室へ向かった。
一年近く離れていた場所だった。
入口の前まで来たところで、理央の手が止まった。
車輪を回していた手を膝の上へ置き、閉じた扉を見つめる。
「どうしたの?」
「別に」
「入りづらい?」
「そういうわけじゃない」
凛はそれ以上聞かなかった。
「じゃあ入ろう」
扉を開ける。
理央は再び車輪を回した。
そこには、一年前とほとんど変わらない光景が残っていた。
奥から教授が顔を出す。
「やっと二人揃ったな」
「ご心配おかけしました」
凛が頭を下げる。
教授は理央へ目を向けた。
「白石、無理はするなよ」
「はい。でも、無理くらいしますよ。ここ研究室でしょ?」
教授が呆れたように笑った。
「そういうところは変わってないな」
「変わってたら困ります」
「まあ、ほどほどにな」
「善処します」
その返事を聞いた凛がすぐに口を挟んだ。
「それ、絶対聞かないやつですよ」
「知ってる」
「ひどいな」
教授は笑いながら奥へ戻っていった。
理央の視線が、机の上に置かれていた一冊のファイルへ向かう。
手に取って開く。
事故の前まで、二人でまとめていた研究資料だった。
「本当にそのままだ」
「先生が残してくれてたから」
「片付けてもよかったのに」
「それ言ったら怒られるよ」
「誰に?」
「私に」
理央が顔を上げた。
「凛が?」
「途中だったでしょ」
理央はもう一度ファイルへ視線を落とした。
ページをめくる。
事故前に自分が書いた文字が残っている。
その横には、凛が書き足した記録もあった。
一年近く前。
そこで二人の研究は止まっていた。
「続ける?」
凛が尋ねる。
理央は迷わなかった。
「もちろん」
「すぐ?」
「何か問題ある?」
「まだリハビリもあるでしょ」
「あるよ」
「無理しないでよ」
「無理はしない」
凛はじっと理央を見る。
「理央の『無理しない』は信用できない」
「失礼だね」
「事故の前からそうだったでしょ」
「そうだった?」
「そうだった」
凛は椅子を引き、理央の隣へ座った。
止まっていた研究が、再び動き始めた。
ただし、以前とまったく同じようにはいかなかった。
車椅子に座ったままでは、手の届かない場所がある。
姿勢を変えなければ扱いづらい器具もあった。
最初のうち、凛はそんな部分を補った。
理央の手が届かない器具を取る。
高い棚の資料を下ろす。
リハビリの時間になれば作業を引き継ぎ、結果を記録しておく。
理央が戻ってくれば、二人で数字を確認した。
ある日、理央は記録された結果を見ながら眉を寄せた。
「ここ変じゃない?」
「私も思った」
「条件変えてもう一回やってみよう」
理央はすぐに次の準備へ入ろうとしたが、凛が時計を指した。
「今日はもう遅いよ」
「まだできる」
「病院から無理するなって言われてるでしょ」
理央は時計と資料を交互に見た。
しばらく考えた末、諦めたように息を吐く。
「……分かった。明日」
以前なら、そのまま続けていただろう。
けれど今は、凛が止める。
理央も最後にはそれを受け入れる。
そんな日々が続いた。
そして、少しずつ二人の関係も変わっていった。
最初の凛は、理央ができない作業を補っていただけだった。
だが、毎日のように研究へ関わり、同じ資料を読み、同じ結果を追ううちに、凛自身が研究について意見を出すようになった。
ある日、凛が一つの記録を指さした。
「こっちの条件も試してみない?」
「なんで?」
「この結果見て。最初の条件だけ少し違う」
理央が資料を引き寄せる。
数字を追っていた目が止まった。
「……確かに」
「でしょ?」
理央はもう一度、最初から結果を確認した。
「やってみよう」
「うん」
凛の提案した条件で実験を行う。
出てきた結果は、二人が予想していなかったものだった。
「出た」
凛が呟く。
だが、理央はすぐには喜ばなかった。
「もう一回」
「また?」
「偶然かもしれない」
「分かった」
条件を揃え、もう一度同じ実験を行う。
結果は変わらなかった。
凛が記録を見比べる。
「やっぱり同じ」
「面白いね」
「ね」
理央はしばらく、その数字を見つめていた。
事故の前から続けてきた研究。
始めたのは自分だった。
けれど、この結果には自分一人では辿り着かなかった。
「これ、もう私の研究じゃないね」
凛が顔を上げた。
「え?」
「凛がいなかったら、この条件は試してない」
「でも、元々は理央が始めた研究でしょ」
「始めたのは私。でも、今やってるのは二人」
理央は凛を見る。
「共同研究にしよう」
凛はすぐには答えなかった。
「……いいの?」
「何が?」
「私で」
「凛がいいんだけど」
その答えを聞いて、凛はようやく笑った。
「じゃあやる」
「うん」
「途中で、やっぱり一人でやるとか言わないでよ」
「言わない」
「絶対?」
「しつこい」
「だって理央だから」
「どういう意味?」
「そのままの意味」
二人の声が、研究室に響いた。
外へ出る頃には、すでに日が暮れていた。
理央が車輪へ手をかけ、廊下を進み始める。
その後ろへ回った凛が、車椅子の取っ手へ手を伸ばした。
「押さなくていいよ」
凛の手が止まる。
「疲れてない?」
「疲れてるけど、自分で行ける」
「そっか」
凛は取っ手から手を離した。
理央が、自分の力で車輪を回す。
ゆっくりと前へ進んでいく。
凛はその後ろには立たなかった。
理央の隣へ並び、そのまま一緒に廊下を進んだ。
止まっていた研究は、もう動き始めている。
それを追うのも、もう一人ではなかった。
二人の研究が、ここから始まった。




