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第二話

その手が届くより先に、凛の喉から声が漏れた。

「理央ーっ!」

凛の叫びが、夜の路上に響いた。

理央は、動かなかった

市内の救急病院。


集中治療室のガラスの向こうで、理央は眠り続けていた。


白いシーツの上に横たわる身体には、いくつもの管や機器が繋がれている。一定の間隔で電子音が鳴り、そのたびにモニターの波形が動いていた。


凛はガラスの前から動けずにいた。


腕には白い包帯が巻かれている。


同じ事故に遭ったはずだった。


それなのに、自分の怪我は腕だけだった。


「理央……ごめんなさい……」


声が震えた。


ガラスに手をつき、その向こうにいる理央を見つめる。


「ごめんなさい……」


あの瞬間が、何度も頭の中で繰り返されていた。


理央が自分を突き飛ばさなければ。


自分を庇わなければ。


あの場所に倒れていたのは、理央ではなかった。


「私のせいで……」


足から力が抜けた。


凛はガラスに手をついたまま、その場に崩れ落ちる。


どれだけ謝っても返事はない。


目を開けることもない。


「ごめんなさい……理央……」


その背中に、そっと手が触れた。


凛が振り返る。


そこには、理央の両親が立っていた。


慌てて立ち上がろうとしたものの、うまく足に力が入らない。


「ごめんなさい……私のせいで理央が……」


理央の母親は静かに首を横へ振った。


「いいのよ。あの子がしたことだもの」


「でも……」


責める言葉はなかった。


怒鳴られた方が、まだ楽だったかもしれない。


穏やかな声を向けられるほど、胸の奥が締めつけられた。


「凛ちゃん」


理央の母親が、凛の肩へ手を置く。


「あなたは、ちゃんと生きなさい」


凛は唇を噛んだ。


もう一度、ガラスの向こうを見る。


眠ったままの理央は何も答えてくれない。


「……はい」


今の凛には、それしか言えなかった。


退院した凛は、大学へ戻った。


以前と同じように講義へ出る。


教授が教壇に立ち、黒板へ文字を書いていく。周囲の学生たちもノートを取り、時折交わされる冗談に笑っている。


事故の前と変わらない光景だった。


けれど、凛には以前と同じようには見えなかった。


講義を聞いていても、内容がほとんど頭に入ってこない。


何気なく隣へ目を向ける。


そこに理央はいない。


それだけで、意識はすぐ病院へ引き戻された。


授業が終わると、凛は研究室へ向かった。


理央が使っていた机は、事故の日からほとんど変わっていない。


椅子を引き、机の上に置かれていた一冊の研究日誌を手に取る。


存在は知っていた。


理央が何度も書き込んでいる姿も見ていた。


それでも、中身を最初から読んだことはない。


凛は表紙を開いた。


日付とともに、細かな文字が並んでいる。


その合間には、思いついたことをそのまま残したらしい短い文章まで書き込まれていた。


一枚ページを開く、さらに次のページへ進む。


読み進めるほど、分からないことが増えていった。


知らない言葉が出てくれば調べた。


参考文献を探し、それでも理解できなければ教授に尋ねた。


理央が何を見て何を知ろうとしていたのか。


少しでも、それを知りたかった。


大学が終われば病院へ向かった。


理央はまだ眠っている。


凛はベッドのそばに椅子を置き、その手を握った。


「今日ね、授業で教授がまた話を脱線させてさ」


返事はない。


「みんな笑ってた」


それでも凛は話し続けた。


大学で起きたどうでもいいような出来事まで。


「研究日誌も読んでるよ」


理央の表情は変わらない。


「難しすぎるんだけど」


凛は小さく笑った。


握っている手は動かなかった。


「起きたら、ちゃんと説明してよね」


理央の瞼は閉じたままだった。


それでも次の日になれば、凛はまた大学へ行き、授業が終われば病院へ向かった。


事故から二か月ほどが過ぎた頃だった。


大学にいた凛のスマートフォンが鳴った。


理央の母親からの電話だ


「もしもし」


『凛ちゃん』


「はい」


その声を聞いた瞬間、凛は椅子から立ち上がった。


いつもと違う。


『理央、目を覚ましたの』


「……え?」


言葉の意味を理解するまで、一瞬かかった。


『さっき意識が戻ったって、先生から連絡があって』


「理央が……?」


スマートフォンを握る手に力が入る。


二か月間、目を覚まさなかった理央が目を覚ました。


「会えますか」


『ええ。でも、まだ長くは――』


「行きます! 今から行きます!」


凛は鞄を掴み、そのまま研究室を飛び出した。


病院へ着いた時、理央は仰向けのまま天井を眺めていた。


身体にはまだいくつもの管が繋がれている。


昨日までとほとんど同じ姿。


ただ一つだけ、決定的に違っていた。


目が開いている。


凛はゆっくりとベッドへ近づいた。


「理央」


声に反応して、理央の視線が動く。


ゆっくり、凛の方へ。


「……」


凛は息を呑んだ。


自分を見ている。


間違いなく、理央が自分を見ていた。


「理央……」


返事はなかった。


まだ声を出すことはできないらしい。


凛は椅子へ座り、その手をそっと握った。


温かかった。


何度も握ったはずの手なのに、その温度を感じただけで涙が出そうになった。


「理央……なんで庇ったの」


理央の頭がほんのわずかに横へ動いた。


「……理央?」


もう一度聞こうとしたところで、背後から声をかけられた。


「凛ちゃん、ごめんなさい。理央を休ませたいから……また来てね」


理央の母親だった。


「あ……はい」


凛は立ち上がった。


それでも、握っていた手をすぐには離せなかった。


「また来るからね」


指を一本ずつ離していく。


最後にもう一度だけ握ってから、ようやく手を離した。


病室を出る直前、凛は振り返る。


理央は目だけを動かして、まだ凛を見ていた。


それから、さらに二か月が経った。


理央の身体は少しずつ回復していた。


自由に動ける状態にはほど遠かったが、短い時間であれば会話もできるようになっている。


その日も、凛は病室を訪れた。


「理央」


ベッドに横たわっていた理央が目を向けた。


「……凛」


かすれた小さな声が聞こえた。


凛の足がベッドの前で止まる。


事故から四か月も経った。


理央の声を聞いたのは、あの日以来初めてだった。


「……喋れるようになったんだ」


「少し……だけ」


「そっか……よかった……」


笑ったはずなのに、視界が滲んだ。


凛は椅子を引き、いつものようにベッドのそばへ座る。


しばらくすると、理央が口を開いた。


「大学……どうなってる?」


「え?」


思わず聞き返した。


「目を覚まして、最初に気になるのがそれ?」


「気になる」


声にはまだ力がない。


それなのに、言っていることは以前と何も変わっていなかった。


凛は小さく笑う。


「何も変わってないよ。みんな普通に授業受けてる」


「研究室は?」


「そっちも変わってない」


そこで凛は少し迷った。


「理央の研究日誌、読んでる」


理央の目がわずかに動く。


「……勝手に?」


「勝手に」


「……そう」


「怒らないの?」


「別に」


凛は苦笑した。


「難しいんだけど。理央が何考えてたのか全然分かんない」


「難しく……書いてない」


「書いてある」


「凛が……分かってないだけ」


「病人じゃなかったら怒ってるからね」


理央の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


その表情を見て、凛も笑った。


事故以来初めてだった。


ほんの短い時間だけ、二人の間に以前と同じ空気が戻っていた。


「授業のことも教えるよ」


「うん……」


「研究室のことも。理央が戻った時に困らないように」


理央が黙った。


しばらく天井を見つめてから、小さく口を開く。


「……戻れるかな」


凛の表情から笑みが消えた。


理央が自分の未来について不安を口にしたのは、初めてだった。


「戻れるよ」


凛は迷わなかった。


「絶対戻れる」


理央は何も答えず、静かに目を閉じた。


春を迎える頃には、治療は次の段階へ進んでいた。


長い時間身体を起こしていられるようになり、少しずつリハビリも始まった。


凛は大学と病院を行き来する生活を続けていた。


授業で取ったノートを病室へ持ち込み、理央に見せる。


研究室で変わったことがあれば伝えた。


教授から預かった資料を読み上げることもある。


理央は病室にいても研究のことばかり考えていた。


「そこ、次のページ」


「はいはい。これ?」


「違う」


「こっち?」


「それ」


凛は資料をめくりながら、呆れたように息を吐いた。


「自分でめくれるようになったら、絶対やってもらうからね」


「分かってる」


「本当に?」


「分かってるって」


そんなやり取りが、いつの間にか二人の日常になっていた。


しかし、身体の回復は簡単ではなかった。


事故の影響は残っている。


特に下半身の回復には時間がかかり、以前と同じ生活へすぐ戻ることはできなかった。


大学への復帰も、当初考えられていた時期より大きく遅れる。


結果として、理央は同級生たちより実質的に一年遅れることになった。


そのことを知った凛は、自分も一年遅れることを決めた。


当然、教授にも親にも止められた。


それでも凛の意思は変わらなかった。


「私も一年遅らせます」


病室でその話をすると、理央は露骨に眉を寄せた。


「なんで」


「なんでって……」


「凛まで遅れる必要ない」


「あるよ」


「ない!」


即答だった。


凛も引かなかった。


「理央が戻った時、一人じゃ大変でしょ」


「何とかする」


「できないこともあるでしょ」


理央が黙る。


「大学のことも研究のことも、私がいた方が楽じゃん」


「それで一年使うの?」


「使う」


今度は凛が即答した。


理央はしばらく黙ったまま、凛を見ていた。


「……教師になるんじゃなかったの」


凛の言葉が一瞬止まる。


「なるよ」


「だったら――」


「一年遅れたくらいで、ならなくなるわけじゃないでしょ」


理央は何も言わなかった。


凛は少しだけ視線を落とす。


「それに……」


膝の上で組んでいた指に、わずかに力が入った。


「今は、理央のそばにいたいから」


病室が静かになった。


理央はしばらく凛を見ていたが、やがて天井へ視線を戻した。


「好きにすれば」


「うん。好きにする」


凛は笑った。


季節はさらに進んだ。


理央はついに、車椅子へ移る訓練を始めた。


最初はわずかな時間座っているだけでも身体への負担が大きかった。


日を追うごとに、一日また一日とできることが少しずつ増えていく。


凛はその様子を何度も見ていた。


まだ立つことも歩くこともできない。


それでも理央は一度も研究を諦めるとは言わなかった。


ある日。


病院の廊下で、理央は車椅子に座っていた。


凛がその後ろに立つ。


「押そうか?」


「自分でやる」


「まだ慣れてないでしょ」


「だからやる」


理央は車輪に手をかけた。


ゆっくりと前へ進む。


思うようには動かない。


少し曲がっただけで、壁へ寄りすぎた。


「危ないって」


「分かってる」


「絶対分かってない」


それでも凛は手を出さなかった。


理央が自分の手で車輪を回す。


少し進んでは止まり、また進む。


凛はその後ろを歩いた。


しばらく進んだところで、理央の手が止まった。


「凛」


「ん?」


理央が振り返る。


「大学、戻りたい」


迷いのない目だった。


凛はその顔を見て、少しだけ笑った。


理央の前へ回り、目線を合わせるようにしゃがむ。


「うん」


凛は頷いた。


「戻ろう」


理央はもう一度、車輪へ手をかけた。


ゆっくりと回す。


車椅子が前へ進む。


そのすぐ隣を、凛が歩いていった。

挿絵(By みてみん)

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