第一話
理央は小さく笑い、再び机の上へ視線を落とした。
高校の理科室で交わされた、何気ない進路の話。
のちに二人とも合格し同じ大学同じ学科に通うことになる。
大学の正門をくぐった瞬間、白石理央は足を止めた。
春の風に、新入生歓迎の立て看板が揺れている。
正門から講義棟まで続く道の両側では、上級生たちがサークルのチラシを配っていた。運動部、文化部、学生団体。聞いたこともない名前の活動まで並び、大学という場所の広さをこれでもかと見せつけている。
「……広いね」
隣を歩いていた凛が、正門の向こうへ続く人の波を眺めながら呟いた。
「そりゃ大学だからね」
理央はそう返したものの、視線はサークル勧誘には向いていなかった。
そのさらに向こう。
講義棟の奥にある研究棟へ、じっと目を向けている。
「理央」
「何?」
「さっきからずっとあっち見てる」
「研究棟でしょ?」
「今日は入学式だよ」
「終わったら見に行こう」
あまりにも当然のように言う理央に、凛は眉を寄せた。
「入れるの?」
「分からない」
「分からないのに行くの?」
理央は不思議そうに凛を見る。
「分からないから行くんじゃない?」
数秒の沈黙。
凛は小さく息を吐いた。
「……はいはい」
高校を卒業した二人は、同じ大学の、同じ学科へ進学した。
示し合わせたわけではない。
それぞれが興味を持った分野を選び、その結果、また同じ場所になった。
理央にとっては、それで十分だった。
おそらく凛も似たようなものだった。
入学式が終わり、新入生向けの説明を受け、履修登録という大学特有の面倒な作業に頭を悩ませる。
そんな、ごく普通の大学生活が始まった。
ただ、白石理央という学生が周囲に知られるようになるまで、それほど時間はかからなかった。
最初は講義だった。
教授が説明し、学生たちはノートを取る。
理央もきちんとノートは取っていた。
問題は、その先だった。
講義が終わりに近づく頃になると、大抵一つや二つ、理央の中に疑問が生まれる。
その日もそうだった。
「先生」
理央が手を挙げる。
入学したばかりの頃、凛はそのたびに隣で身構えていた。
「この結果って、この条件だから成立してるんですよね?」
教授は少し考えてから頷いた。
「そうですね」
「じゃあ、こっちを変えた場合はどうなります?」
「その場合については、次の段階で扱います」
そこで終われば、普通の質問だった。
しかし、理央はもう一つ先へ進む。
「実際にやったら駄目ですか?」
教室にいた何人かが、一斉に理央を見る。
教授も一瞬だけ言葉を止めた。
「……まだ一年生ですから、まずは基礎を覚えてください」
「はい」
理央は素直に引き下がった。
隣から凛が顔を寄せる。
「絶対、納得してないでしょ」
「納得はしてるよ」
「じゃあ、その顔は何」
「やってみたいなと思って」
「やっぱり」
凛は呆れたように息を吐いた。
理央は、教わったことを疑っているわけではなかった。
まず理解する。
そのうえで、その外側が気になる。
なぜそうなるのか。
条件を変えたらどうなるのか。
別の方法なら、どんな結果になるのか。
教科書に答えが載っていたとしても、それで終わりにはならない。
知らないことが残っているなら、自分で確かめたい。
理由は、それだけだった。
その性格は、実験課題が始まったことで一気に表へ出た。
「これ、条件一つ増やしたら面白くない?」
思いつくなり実験台へ向かおうとした理央の白衣を、凛が後ろからつまんだ。
引っ張られた理央が振り返る。
「何?」
「何じゃない。まだ手順決めてないでしょ」
「だいたい決まってる」
「理央の『だいたい』は信用してない」
「失礼だな」
凛は白衣から手を離すと、机の上のノートを開いた。
「比較対象は?」
「用意する」
「記録方法は?」
「書く」
「どの数値を取るの?」
そこで理央が止まった。
凛がじっと見つめる。
「……今考える」
「ほら」
凛はペンを取り、理央が思いついた仮説を聞きながら、それを一つずつ紙の上へ落としていった。
理央が思いつくまま口にしたものを、凛が整理していく。
数分もすると、理央の頭の中にしかなかったものが、一つの実験計画として形になっていた。
凛がペン先で一行目を示す。
「これでやれば?」
理央はノートを覗き込んだ。
「うん。これなら分かりやすい」
「最初から整理して」
「凛が得意だからいいじゃん」
「よくない」
口ではそう言いながら、凛も本気で嫌がってはいなかった。
理央が思いつけば、凛が整理する。
理央が実行すれば、凛が記録する。
結果が出れば二人で考える。
うまくいかなければ、理央がまた別の仮説を持ち出し、凛がそれを組み直す。
いつの間にか、それが二人の研究の形になっていた。
そして、結果も出た。
入学したばかりの学生に与えられた課題としては、必要以上と言っていいほどのものが。
最初に気づいたのは教員だった。
次に、同じ学科の学生。
そのうち、別の学年にも話が伝わった。
ある日、廊下を歩いていると、前を歩いていた学生たちの会話が聞こえてきた。
「白石って一年だよな?」
「そう」
「また何か実験やってるらしいけど」
「篠宮と一緒にいる子?」
「そうそう」
凛は思わず隣を見る。
当の本人は、歩きながら資料を読んでいた。
「理央」
「ん?」
「今、私たちの話してた」
「そうなんだ」
資料から顔すら上げない。
「それだけ?」
「何の話?」
「研究」
「結果のこと?」
「多分」
「じゃあ別にいいんじゃない?」
理央はそのまま次のページをめくった。
凛は苦笑する。
「もうちょっと気にしなよ」
「噂になって何か変わる?」
「変わらないけど」
「じゃあいいじゃん」
そう言われると、凛も何も言い返せなかった。
やがて学生たちの間では、二人の役割まで知られるようになった。
白石理央は発想する。
そして、思いついたらすぐに試そうとする。
凛はその横で手順を作り、形を整える。
「白石が走って、凛が道作ってる」
誰かがそんな言い方をした。
それを聞いた凛は、妙に納得した。
確かにそうだった。
理央は、とにかく先を見る。
凛は、その理央が転ばないよう足元を見る。
そうして二人で研究を続けるうちに、季節は巡った。
十九歳になる頃には、理央の名前は教授たちの間でも知られるようになっていた。
学生として優秀。
それだけではない。
自分で問いを作ることができる。
その部分を高く評価する教員は多かった。
凛もまた、理央の補助というだけの存在ではなくなっていた。
研究計画の作成や記録、整理。
理央の曖昧な思いつきを、他人にも理解できる形へ変える能力は教員からも評価されていた。
二人で一つ。
そう呼ばれることさえあった。
そんな十九歳の冬。
絢奈から連絡が来た。
以前、合同交流行事で関わったメンバーを集め、久しぶりに食事をしようという誘いだった。
当日集まったのは、絢奈、咲希、柚月、亜美、凛、理央、楓、紬。
久々に顔を合わせた八人は、それぞれ以前とは少しずつ違っていた。
中でも、理央と凛を驚かせたのは咲希だった。
陸上をやめたこと。
結婚したこと。
子どもが生まれたこと。
そして今は大学を休学しており、この先についてはまだ決めていないという。
「ほんとにお母さんなんだ……」
凛が思わず口にすると、咲希が笑った。
「何だよ、その反応は?」
「いや、分かってたけど。実際に聞くとやっぱりすごいなって」
「毎日そんな感じよ。先のこと考える余裕ない時もあるし」
そう言いながら、咲希は携帯を取り出した。
画面に映っていたのは息子の写真だった。
複数の写真を見せられる
凛はそのたびに「可愛い」と声を上げる。
理央も横から覗き込み、同じように頷いていた。
五枚目あたりから、理央の反応はほとんど同じになっていた。
その一方で、柚月と亜美は大学でも競技を続けていた。
柚月は国体を目標に。
亜美は日本代表を視野に入れ、強化合宿のメンバーにも入っているという。
楓も大学で陸上を続けており、今は目の前の大会が最優先らしい。
紬に近況を聞けば、
「特に何もないですねぇー」
いつもの調子で、そんな答えが返ってきた。
それが妙に紬らしく、テーブルに笑いが広がった。
絢奈の話も相変わらずだった。
大学では取れる単位を早いうちにできるだけ取り、三年次からは短期インターンシップを利用する。一か所につき二週間ほどの期間で、できるだけ多くの企業を自分の目で見て回るつもりらしい。
「相変わらず絢奈って感じだね」
凛が感心したように言うと、理央も頷いた。
「うん。普通そこまでやらないと思う」
「理央がそれ言う?」
「何で?」
「似たようなことしてる」
「全然違うよ」
「そうかな」
そして、話題は理央と凛にも回ってきた。
凛は塾講師のアルバイトをしていた。
最初は、単なるアルバイトのつもりだった。
けれど、人に教えることが思っていた以上に楽しかった。
分からなかった子が理解できるようになる。
問題を解けた瞬間、表情が変わる。
そんな姿を見るうちに、凛ははっきりとやりがいを感じるようになっていた。
「最近、先生もいいかなって思ってる」
そう口にした凛は、自分でも少し照れくさそうだった。
一方、理央にはアメリカの大学から声がかかっていた。
研究を続けるなら、魅力的な話だった。
環境も設備も申し分ない。
それでも、理央の答えはすでに決まっていた。
「今やってる研究の方が大事だから」
海外へ行くことよりも、今、目の前にある研究を完成させたい。
それが理央の答えだった。
食事会が終わり、店を出る。
暖房の効いた店内から外へ出た途端、冬の冷たい空気が二人を包んだ。
「寒っ」
理央が思わず肩をすくめる。
「中が暖かかったからじゃない?」
「そういう問題かな」
二人は駅へ向かって歩き始めた。
しばらくして、凛がふっと息を吐く。
「……それにしても驚いたね。咲希には」
理央もすぐに頷いた。
「うん」
高校にいた頃、咲希が今の生活を送っている姿を想像したことはなかった。
陸上をやめ、結婚し、子どもを育てている。
大学も休学している。
けれど、写真を見せていた咲希は楽しそうだった。
大変だと口にしながらも、その表情に後悔は見えなかった。
「今後どうするか、まだ決めてないって言ってたね」
凛が前を見ながら呟く。
「そうだね」
「咲希って、もっと先まで決めてそうな感じしなかった?」
「でも、子どもいたら予定通りにはいかないんじゃない?」
「それもそうね」
少し間が空いた。
凛は白い息を吐きながら、静かな声で続ける。
「でも、ああいうの見ると分かんないね」
「何が?」
「将来のこと」
理央が凛を見る。
「今こうしたいって思ってても、全然違うことしてるかもしれないんだなって」
理央は少しだけ考えた。
「それはそうじゃない?」
「理央は軽いなあ」
「だって、その時にやりたいことやればいいでしょ」
凛はその言葉に少し笑った。
「理央らしい」
ちょうど信号が青へ変わった。
二人は横断歩道を渡り、そのまま駅へ向かう。
「凛は本当に先生になるの?」
「まだ絶対ってわけじゃないけどね。でも、やってみたいなとは思ってる」
「向いてると思う」
「さっきも言ってたね」
「人に順番教えるの得意だし」
「それ、研究の話でしょ」
「同じじゃない?」
「全然違う」
否定しながらも、凛は少し嬉しそうだった。
今度は凛が理央を見る。
「理央は、本当にアメリカ行かないの?」
「行かない」
答えは早かった。
「もったいなくない?」
「何が?」
「普通、海外の大学から声かかったらもっと悩むでしょ」
「でも今の研究、まだ途中だし」
理央は前を向いたまま言った。
「途中でやめたくない」
「本当に研究好きだね」
「凛だって付き合ってるじゃん」
「私は理央が勝手に走るから止めてるだけ」
「止めてないよ」
「止めてるよ」
「でも結局、一緒にやってる」
その言葉に、凛は少し黙った。
やがて、仕方なさそうに笑う。
「まあね」
理央も笑った。
「じゃあ、卒業までよろしく」
「卒業まで?」
「研究」
「はいはい」
その時の二人には、それで十分だった。
誰がどこへ進むのか。
何を目指すのか。
少しずつ違う未来が見え始めていた。
それでも今はまだ、二人で同じ大学へ通い、同じ研究室で机を並べている。
理央が疑問を見つけ、凛が道筋を作る。
その形が変わることなど、二人とも考えていなかった。
数日後。
いつものように大学を出た二人は、並んで歩いていた。
話しているのは研究のことだった。
今日の結果が予想より少しずれたこと。
明日は条件を一つ変えてみること。
そのために、凛がまた手順を書き直さなければならないこと。
「じゃあ、明日は最初からこの条件で」
「うん」
「あと、理央。勝手に途中で増やさないでよ」
「分かってる」
「その返事、信用できない」
「失礼だな」
そんな、いつもと変わらない会話だった。
何度も繰り返してきた帰り道。
明日も同じように大学へ来て、研究室へ向かう。
二人とも、それを疑う理由などなかった。
やがて交差点に差しかかる。
二人が帰る方向は、ここから別だった。
「じゃあ、また明日」
凛がそう言った。
その直後だった。
甲高いクラクションが鳴り響いた。
タイヤが路面を擦る音。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ
凛が振り向く。
視界の端に、こちらへ向かってくる車が見えた。
そう思った時には、もう遅かった。
「凛!」
理央の声が聞こえた。
次の瞬間、凛は肩を強く押された。
身体が投げ出される。
地面へ叩きつけられ、腕と膝に激しい痛みが走った。
直後、鈍い衝突音が響いた。
世界から、一瞬だけ音が消えた。
何が起きたのか分からない。
頭が追いつかない。
凛は地面に手をつき、ゆっくりと顔を上げた。
少し離れた場所に、人が倒れている。
倒れていたのは理央の姿だった。
「……理央?」
返事はない。
「理央……?」
立ち上がろうとしたか、足に力が入らない。
凛はその場に膝をついた。
腕も膝も痛い。
そんなことは、どうでもよかった。
地面に手をつき、這うようにして理央へ近づいていく。
ついさっきまで隣を歩いていた。
明日の研究について話していた。
数日前には、卒業まで一緒に研究すると話したばかりだった。
「理央……起きて」
返事はなかった。
周囲では誰かが救急車を呼んでいる。
別の誰かが現場へ駆け寄ってくる。
何人もの声が飛び交っていた。
けれど凛には、そのほとんどが聞こえていなかった。
ただ、目の前に倒れている理央だけを見る。
「理央……」
震える手を伸ばす。
その手が届くより先に、凛の喉から声が漏れた。
「理央ーっ!」
凛の叫びが夜の路上に響いた。
ただ、理央が動くことはなかった。




