第9話 お綺麗なものじゃありません
リリエルは、いつ試合が終わったのかわからなかった。
「始め」という審判の声が響くと同時に、相手の騎士が踏み込んだのは見えた。
しかし次の瞬間には、ゼファーの木剣が、その男の喉元に添えられていた。
あら? とリリエルは瞬く。
「クラウゼ団長。今のは、カッセル卿の勝ち……ですわよね?」
「そうですな」
なるほど。
リリエルは手帳を開いて、一戦目の感想を書きこんだ。よく見えなかった。
尊敬するクライバー先生は、勝負は一瞬でつくことがある、と書いていた。目をしっかと開いていなければ、その瞬間を見逃してしまうのだとか。
きっと今のも、そういう類だったのだろう。
騎士たちが円になって見守る中、ゼファーは次の相手を待っていた。
気負いはないように見える。いつもの、兄のそばで護衛任務をしているときと同じだ。肩幅くらいに開いた足、力の抜けた肩。
別の騎士が進み出たときも、それは変わらなかった。
リリエルは、手帳を持つ手に力を入れた。
用意された観覧用の椅子に座っていたが、みっともなく見えない程度に身を乗り出す。
試合開始の合図が響いた。
すかさず、相手の騎士が飛び込んだ。
ゼファーがわずかに、視線を足元に落とす。それで——
「……あら?」
リリエルは首をかしげた。
いつの間にかゼファーの木剣が、相手の騎士の眉間の前で止まっていた。
おかしい。
リリエルは目をしっかと開いていたはずなのに。
斜め後ろに控えているアネットに目をやると、彼女は無言で首を横に振った。
念のため背後の絵師たちを見たが、彼らも一様に戸惑った様子だった。
「相変わらず、えげつねぇなあ」
バルトがぼやくように言った。
リリエルは、隣で立つ男を見上げた。彼は顎に手をやりながら、唇を歪めている。
「えげつない、とは?」
「騙すのが上手いんですよ。視線、肩、足運び、重心、剣の切っ先。カッセルの場合、その全部をあまりにも自然に、騙すように使うんです。熟練の騎士でも引っかかるくらいに」
——騙す。
リリエルは、ゼファーを見下ろした。
先ほど視線を足元に落としたのも、その一環だったのだろうか。
手帳の隅に、相手を騙す剣、と書いてみる。
リリエルは眉を寄せた。英雄譚の剣にしては、少し悪辣すぎないかしら。
そんなことを考えていると、三戦目開始の合図が聞こえてきた。
次の相手は、合図を受けてもすぐに動かなかった。呼吸を整えながら、じりじりと間合いを計っている。
最初の二人がすぐに倒されてしまったから、慎重になっているのだろうか。
しばらく、互いに動かない。
少なくとも、今すぐ終わることはなさそうだ。そう思って、リリエルはほんの少しだけ手帳へ視線を落とした。
するとバルトがつぶやいた。
「ああ、終わったな」
「えっ?」
バルトが言い終わるか終わらないかのタイミングで、乾いた高い音が鳴った。
見ると、ゼファーの体が深く沈んでいた。その木剣が、相手の男の手元を下から跳ね上げている。男の剣が手から離れ、弧を描きながら空を舞う。
男が空を見上げたときには、ゼファーの木剣が胸元に突きつけられていた。
遅れて、弾かれた木剣が地面に落ちる。
「……どうして、わかったのですか?」
少なくともリリエルの目には、相手の騎士は相当警戒しているように見えていた。
なのに、ほんの一瞬目を離しただけで、ゼファーが相手の間合いの中に入っていた。
「カッセルは目がいいんですよ」
バルトは、なぜか嬉しそうに言った。
「相手の呼吸を見て、反応できない瞬間を突く。強いやつらは多かれ少なかれできますがね、カッセルは判断の精度が異様に高い。普通ならわかっても躊躇するタイミングで、あいつは動ける。そこに騙す動きを混ぜられれば、大抵のやつはああなります」
リリエルは、手帳に目を落とした。
目が良い、と書いてから、再び眉を寄せる。
クライバー先生が書く『マクリントン戦記』の主人公マクリントンは、重厚な鋼の剣を両手で持ち、疾風のような速さで戦場を駆け、岩をも割るような剛力で敵を倒していく英雄だ。
今までリリエルが読んできた英雄たちは、誰もがそのような性質を持っていた。
ゼファー・カッセルは、確かに強いのだろう。
けれど、英雄かと言われると——。
「姫様、ご気分がすぐれませんか?」
バルトがこちらの様子をうかがってくる。
リリエルはすぐに眉間から皺を取って、笑顔を作った。
「何でもありませんわ。……カッセル卿の剣が、その、ずいぶん想像と違っていて驚いておりました」
「ああ……」
バルトが、思い当たったというふうに苦笑した。
「そうですね。九年前のダスターで英雄だと持ち上げられたもんで、よく勘違いされるんですが——」
四戦目が始まっていた。
今度はまた、相手の男がすぐにゼファーに突っ込んで、軽くいなされて試合が終わった。
「カッセルの剣は、そんなお綺麗なものじゃありませんよ。それだけじゃ、あの戦で生き残れなかったでしょうな」
リリエルは、求婚した日のことを思い出した。
——俺は英雄じゃない。
ゼファーが一度だけ見せた、冷たい拒絶。
「何があったのかしら……」
五戦目の相手を前にしているゼファーを見下ろして、リリエルは思わず呟いていた。
咄嗟に口元を押さえる。
バルトは何も言わなかった。
リリエルは、軽く息をついた。
なぜか、胸の内に霧がかかったような気持ちになった。
ゼファーは、リリエルの思い描いていた英雄ではないのかもしれない。
少なくとも、本人はその称号を嫌がっている。
それでも彼は、英雄と呼ばれるに足る強さを持ち、兄や騎士団の者たちから認められている。
リリエルの知るゼファー・カッセル。
兄と騎士団が知るゼファー・カッセル。
——彼はいったい、何者だろう。




