第6話 おまえの奢りで
リリエルを送り届け、騎士団の宿舎に戻ると、日が暮れかけていた。
部屋に入って剣帯を解き、机の上に置くと、ゼファーは寝台に座って深く息をついた。
もうすぐ夕飯の時間だが、食堂へ行く気になれない。
上着を脱いで、椅子の背に放り投げる。机と椅子、そして寝台を詰め込んだだけの狭い部屋。独身用の近衛騎士用宿舎はどこも同じようなつくりだ。
そのまま、寝台に上半身を倒した。硬めのマットの感触。この十年で慣れた。地面や石の床で寝るよりははるかにマシだ。
――野心がないのですね。
リリエルに言われたことが、ゼファーの胸の内をざらりと撫でる。
光の中で少し揺れる髪。黒いのに重くない。一本一本が細くて、空気をたくさん含んでいるから、動くたびにふわりと広がって、またゆっくり戻るのだろう。
リリエルが顔を動かすたびに、髪がその輪郭をやわらかくした。頬のあたりに一筋、落ちてくる。彼女はそれを滅多に払わない。気にしていないのか、気に入っているのか、それは分からなかった。
ただ、きらきらと生命力に満ちた菫色の瞳が、まっすぐゼファーに思いを届けてくる。
取材したい! と。
変である。
今まで会ったどの女よりも、一段どころか三段くらいおかしい。
たちが悪いのは、彼女がただ無邪気なだけの姫ではないところだ。
あの瞳に見つめられると、心の奥底まで暴かれてしまう気がする。
さすが、あの王太子の妹である。
可憐で無垢な顔をしながら、静かにこちらの逃げ道をつぶしてくる。
「……逃げたい」
ゼファーは天井を見上げたまま、長く息を吐いた。
「ゼファー、ちょっといいか!」
激しく部屋の扉が叩かれて、ゼファーは眉を寄せた。今、一番聞きたくない男の声だった。
居留守を決め込もう、と思ったところで、扉がさらに激しく叩かれた。
「いるのはわかってるんだよ! リリエル姫と仲良くデートして帰ってきたの、どれだけのやつが目撃したと思ってるんだ!」
最悪だ。実家に帰りたい。
ゼファーは速やかに起き上がった。放っておくと、リリエルとの外出が、ものの数分で宿舎中の酒の肴にされそうだ。
舌打ちをこらえながら、扉を開けた。
金髪を短く刈り上げた男がいた。立っているだけで戸口が狭く見える、騎士らしい体格の男である。
カイル・ライナーは、ゼファーの顔を見て、にっかりと歯をむき出しにして笑った。
「よおゼファー、今から飲みに行こうぜ! おまえの奢りで!」
「一人で行ってこい」
ゼファーは扉を閉めた。
すぐに、ドンドンドン! と扉が大きく揺らされた。蝶番のきしむ音がする。壊れたら、この男に修繕費を請求できるだろうか。
仕方なく、ゼファーはもう一度扉を開いた。
カイルは指をみっつ立てて、堂々と言った。
「わかった、じゃあ八三でいいや。八割おまえの奢り、オレは三割払う!」
「なんで俺が奢る話になっているんだ」
どう考えても計算が間違っているが、それには突っ込まない。時間の無駄なので。
「おまえこそ何言ってるんだ、ゼファー。オレがあの日、相手役をおまえに譲ったから、姫の婚約者になれたんだろう? つまり、オレのおかげってわけだ!」
厚い胸を、どん! と叩いて、カイルは顎を上げる。
ゼファーは半目になった。毎日、制服のボタンが弾け飛ぶ呪いにでもかかればいいのに。
「それにな、ゼファー。ちょっと気になることがあってよ」
「……気になること?」
カイルは、首を回して周囲に人影がないことを確かめた。
そして、急に部屋の中へ入り込んだかと思うと、ゼファーの肩に腕を回して顔をぐっと近づける。扉がばたんと閉まった。
「第四王女付きの侍女に、アネットって女がいるだろ。あの子がな、ちょっとおかしいんだよ」
暑苦しい男に顔を寄せられて、ゼファーは眉をひそめた。
しかし、内容が内容だ。振り払うのをやめた。
「何がおかしいって?」
「おう、実はな……」
カイルが声を潜める。その代わりに、腕に力が入った。どこか力を弱めると、別のどこかに力が入ってしまうらしい。馬鹿力だ。痛い。
ただ、相手は今日顔を合わせていた人物だ。耳に神経を集中する。
「――あの女、オレに惚れてるんじゃないかと思ってよ」
馬鹿だった。
ゼファーはカイルの足の甲を踵で踏みつけると、腕の中から抜け出した。
「いてぇ!」
カイルが、踏まれた方の足を一度上げる。口では痛がっているが、たいして効いてなさそうだった。脳筋め。
「王族付きの侍女になれるのは、伯爵家以上のご令嬢だぞ。貴族のお嬢様が、俺たちみたいな平民上がりの騎士に惚れるわけないだろ」
「おまえは姫に求婚されただろが」
「ああ、そうだったな……」
それを言われると何も返せない。
「それに、この間の舞踏会の日だって、開始時間の二時間も前に、あの子がオレを呼びにきたんだよ」
「……へー」
ゼファーは適当に相槌を打って、椅子の背に投げた上着を手に取った。
にわかに空腹を覚えた。この後は、食堂に行こう。
「めちゃくちゃ美味い菓子をたくさん出してくれてな。全部手作りだっていうんだ」
「あ、そう」
「淹れてくれた紅茶もうまくてさ。オレ、これは惚れられてるなって思ったんだよ」
上着に袖を通す。内ポケットから懐中時計を取り出すと、簡単にねじを巻いた。
「そしたら腹が痛くなってさ。なんとか舞踏会の終わりまではがんばろうと思ったんだが、彼女、オレの体が一番大事だって言ってくれて。ちょうどおまえが空いてるって聞いて、代わりを頼んだわけなんだが」
ゼファーは顔を上げた。
「その後も、彼女、ずっとオレの看病してくれてよ。腹痛に効くっていう食べ物とか飲み物まで、全部手作りで用意してくれたんだ。なあ、これってやっぱり、惚れられてるよな?」
腕組みをして、カイルはその時のことを思い出すように目を閉じていた。
ゼファーは長く息を吐きだした。
舞踏会当日の夜のことがよぎる。なるほど。さすが、あの王太子の妹である。
カイルは体よく利用されたわけだ。騎士のくせに。毎朝、革靴のひもが切れる呪いにでもかかればいいのに。
「――カイル、飲みに行こう」
ゼファーは、カイルの張った肩に手を置いた。
「おっ、飲みに行く気になったのか」
「飲みに行く理由ができた」
ゼファーは剣帯を取って腰に巻くと、部屋を出た。
カイルが大きな足音を響かせながら、後ろをついてきた。
「で、どこへいく? バーバラちゃんのとこか、セレンちゃんのとこか。シンシアちゃんのとこでもいいな」
全部、場末の酒場の歌姫の名前だ。
さっきまでアネットのことで勝手に勘違いしてのろけていたのに、切り替えの早い男である。
まあどこでもいい、とゼファーは歩き出した。
「カイル。浴びるほど飲んでもいいぞ。酔いつぶれても大丈夫だ。支払いは心配するな」
「本当か!? やっぱり持つべきものは友達だな!」
ゼファーはうなずいた。
――全部おまえが支払うんだけどな。




