第2話 お断りいたします
リリエル・アストリアは、物語を愛している。
兄姉とは年が離れていた。物心ついたときには、姉はみな嫁ぎ、父と兄は優しかったけれど忙しかった。
一人で過ごすリリエルを慰めたのは、本だった。子供にもわかるように書かれた英雄譚。
騎士が、悪いドラゴンから姫を守るお話。
英雄が、滅亡から世界を救うお話。
女神の導きを受けた王子が、まだ見ぬ世界を旅するお話。
リリエルは夢中になった。
図書館にある物語を読みつくしたとき、リリエルの胸にもうひとつの情熱が宿った。
「わたくしも、こんな物語を書いてみたい」
けれど、第四王女であるリリエルに許される選択肢は多くない。
成人を前に、毎日山のように縁談の釣書が届く。
わがままを言っていいのなら、一生独身のまま、好きな物語だけを書いていたい。
あるいは結婚しなければならないのなら、物語作家の妻になって、技術を盗みたい。
――そんなことが許されるはずもない。
リリエルを妻に望む男たちが求めるのは、美しい王女であり、従順な妻であり、家を守り、子を産み育てる花嫁だ。
物語を書く女などではないのだ。
だから、リリエルは探した。
自分から物語を奪わない男。
物語を書くことを許す男。
それでいて、父や兄に認められるだけの、信頼と実績がある男。
ゼファー・カッセルは、その条件を恐ろしいほど満たしていた。
兄が信頼する近衛騎士。王国で毎年開催される剣技大会を三連覇した男。一代で騎士爵から男爵に叙され、父の覚えもめでたい。二十五歳、独身。
そして何よりも。
九年前のダスター平原で、帝国軍を退けるきっかけを作った、生きる英雄。
それが、ゼファー・カッセルだった。
***
「いったいどういうことですか、姫」
王太子ルーファスの執務室に入ると、ゼファーは扉を固く閉めた。
応接用のソファに腰かけたリリエルは、彼の率直な言葉を受けて、首をかしげる。
「申し上げたとおりですが?」
「意味がわかりません」
ゼファーは、灰金の髪に手を入れてかき混ぜた。もう片方の手で、首元に結んだタイを緩めようとして、すぐ止める。
さすがにリリエルの前で、制服を着崩すのはためらわれたのか。
別にいいのに、とリリエルは思った。むしろ、公式の場以外で、彼がきちんとタイを結んでいる方が珍しい。
「まずは座ったらどうだ、ゼファー」
ルーファスが、扉脇のコートスタンドに上着をかけながら言った。わずかにタイを緩め、ベストのポケットから懐中時計を取り出して、時間を確認する。
今夜は王家主催の舞踏会である。休憩するふりをして抜け出してきたけれど、リリエルはともかく、兄は最後まで見届ける義務があった。あまり時間はかけていられない。
「いえ、私はここで結構です」
ゼファーは、扉の横の壁際に張り付いた。護衛騎士としては満点の立ち位置。
「ゼファー」
ルーファスはゼファーの顔を見た。それから、リリエルの向かいのソファに視線を向け、顎を上げる。
ゼファーは数秒だけ沈黙した。
それから、渋々とリリエルの向かいに腰を下ろした。騎士にあるまじき、のろのろとした動きだった。よほど嫌だったのだろう。
諦めてもらうしかない、とリリエルは思った。
ゼファーがため息混じりに、最後の抵抗をする。
「立ったままでもお話はできたと思いますが」
「逃げる気満々の顔だった」
「……気のせいです」
リリエルは、じっとゼファーの姿を観察した。
今までも顔を合わせることはあったが、彼は護衛騎士としてルーファスの脇にいるか、部屋では窓際や扉際に立って控えていることが多い。こうやって同席することは稀だった。
不承不承といった様子でソファに落ち着いた彼は、リリエルの顔を見ないようにしている。
不思議だわ、とリリエルは今までのことを思い返した。
夜会や舞踏会では時折、婚約者のいないリリエルの相手役を、近衛騎士が務めることがある。一時的であっても、王国の珠玉と名高いリリエルの隣に立ちたいと望む騎士は多いらしい。
なのに、ゼファーだけは一度も相手役を務めたことがない。
おかげでリリエルは、彼を相手役にするために、余計な根回しをしなければならなかった。
カッセル卿とは可もなく不可もない関係性を築いていたと思っていたけれど、もしかして、実はわたくしのことが嫌いだったのかしら。
その場合は、少し困る。もっとも、だとしてもリリエルにやめるという選択肢はないのだけれど。
「さて、リリ。言うべきことがあるだろう? 話を聞こうか」
リリエルの隣に、ルーファスが腰かける。足を組む動きに合わせて、ソファが沈んだ。
その表情は柔らかかったけれど、リリエルと似た菫色の瞳は、静かに凪いでいた。
リリエルは、舞踏会で見せたものとは違う甘えた笑顔を見せた。
「お兄様。わたくし、カッセル卿と結婚しますわ」
「しませんが!?」
向かいのゼファーが叫ぶ。
ルーファスは、ふむ、と顎に指を当てた。
「ゼファーをおまえの夫にしたい理由は?」
「物語を書き続けるためです」
「意味がわかりません……」
ゼファーが目を閉じて、指で眉間を押さえている。
「お兄様。去年のわたくしの誕生日に、お父様がおっしゃっていたでしょう? 結婚相手は、王族や高位貴族からでなくても構わないと」
うなずく兄に向けて、リリエルは細い指を立てていく。
「要するに、わたくしを旗印にしてクーデターを起こさないこと。わたくしを人質にして、王家に無理難題を押しつける心配がないこと。万一の場合でも、わたくしを守り抜けるだけの信頼と実績があること。この三点さえ満たしていれば、どなたでもよい、ということでしょう?」
そこでリリエルは、向かいのゼファーに手のひらを向けた。
「なら――ほら! カッセル卿、ぴったりではありませんか?」
「確かに、条件だけなら合致するな」
「殿下、同意しないでください! その条件なら、俺以外にもいるでしょう!?」
「それだけではありません。大事なのは、わたくしが物語を書き続けられるかどうかなのです」
「なんですか、その物語というのは……」
ゼファーの質問に、よくぞ聞いてくれました、とリリエルは胸を張った。
「実はわたくし、物語を書いているのです。最初は趣味だったのですが、試しに原稿を送ってみたら、出版社から声がかかりまして。もうすぐ出版されるのです」
「……はい? 原稿……、出版?」
「はい。本になるのです」
リリエルは、そっと兄の様子をうかがった。
学術書や戦術書ならまだしも、物語作家など、貴族社会では異端に近い。貴族の中でも、道楽者くらいしか手に取らないような読み物だ。第四王女がそのようなものを書いていることを、王太子である兄がどう思うか。これだけは賭けだった。
「なるほど」
ルーファスは、少しだけ目を伏せた。
怒ってはいないようだ。けれど、笑ってもいない。
「名義は?」
「もちろん偽名です」
「出版社は?」
「王都東区のノルド出版です」
「侍女のアネットは知っているね」
「はい。原稿はアネットに頼んで、届けてもらっています」
「父上は?」
「まだです」
兄は深く息を吐いた。
「リリ。叱るべき点は多い」
リリエルは、膝上の手に視線を落とした。
けれど、ルーファスが「だが」と言葉を続けたことで、すぐに気持ちは上向きになる。
「だが、おまえが本気で作家になりたいということはわかった」
リリエルは、賭けに勝った。握っていた手の力が抜ける。
「ありがとうお兄様、大好きよ。では早速ですけれど、式の日取りを決めましょう」
「話が飛躍しています!」
ゼファーが自らの膝を叩いて叫んだ。
「……姫が作家になりたいというのはわかりました。それで、どうして俺との結婚になるんです」
「カッセル卿が、わたくしに興味がなさそうで、独身だからです」
「なんて理由だ」
ゼファーは、思わずといった様子でつぶやいた。灰青の瞳が、どこか遠いところを見ている。
リリエルは、失礼な、と唇を少しだけ尖らせた。
「結婚相手によっては、書くことを禁じられるかもしれません。その点、カッセル卿は騎士爵家のご出身で、一代で男爵に叙された方です。わたくしの邪魔はしてこないと踏みました。恋や独占欲で縛りつけるなんてこともなさそうです。これが合格理由です」
「褒められている気がしません」
「褒めています」
それに、とリリエルは、真剣な目でゼファーの顔を見つめた。
「ダスター戦の英雄、ゼファー・カッセル」
初めて、ゼファーがリリエルと視線を合わせた。
くすんだ青い眼は、王国でも北の地方でよく見かけるものだった。凍りついた冬空のような色だ。
その瞳に、リリエルはどう映っているのだろう。少しでも、この結婚を前向きに考えてくれるといいのだけれど。
「あなたの妻になりたいのです。そうすれば、一石二鳥でしょう?」
「一石二鳥?」
「結婚問題が解決して、しかも生ける英雄を間近で取材できるのです。一石二鳥ではありませんか」
「――俺は英雄じゃない」
わずかに低くなった男の声に、数度またたく。よくわからないが、リリエルの言葉の何かが男の癇に障ったらしい、ということは理解できた。
ゼファーは細く長い息をつくと、姿勢を正して首を振った。
「お断りいたします。私は男爵です。王女殿下に釣り合う身分ではございません」
執務室が、しばし静かになった。
ルーファスが、懐中時計の蓋を開き、時間を確認する。それから、彼は組んでいた足を解いて、立ち上がった。そろそろ時間らしい。
「ゼファー」
「は」
「二ヶ月後の王国剣技大会に出ろ」
「……は?」
職務に戻ろうと、続いて立ち上がっていたゼファーは、動きを止める。
「……剣技大会?」
「優勝してこい。史上初の四度目の優勝だ。伯爵に陞爵する。それで身分差は問題ないだろう」
まあ、とリリエルは短く声を上げる。
ゼファーの表情が、愕然としたものに変わった。
「……辞退を」
「大勢の人間が、ホールでリリの手を取ったおまえを見ている。手遅れだよ」
コートスタンド脇の鏡でタイを整えながら、ルーファスは冷たく言う。
リリエルはソファに腰かけたまま、呆然と立ち尽くすゼファーを見上げた。
未来の夫に笑顔を向けながら、心の中で大きく両手を挙げた。
――婚約成立。万歳!




