第九話 別れの日
——それは、夏の、終わりの日だった。
水鏡の面に、ありありと、その光景が、結ばれていく。覗き込むかおりは、いつしか、自分がその場に、立っているかのような、錯覚に囚われた。
半世紀以上前、この湖が、まだ谷であったころ。その水と土が、見届けた景色が——鏡を通して、よみがえる。
嶽の村は、すでに、半分が、廃墟と化していた。
立ち退きの済んだ家々は、戸板を外され、がらんどうになっている。棚田には、もう、稲も植えられていない。間もなく、この谷は、水に沈む。村は、最期の時を、迎えようとしていた。
その、村の中心に。
天を衝くような、巨大な桂のご神木が、立っていた。
幾百年を生きてきたであろう、見上げるばかりの大木。その根方に、苔むした、小さな祠。
そして、その木の下に——仁科清一郎と、佐和子の、夫婦が、立っていた。
清一郎は、痩せた、まなざしの強い男だった。質素な作務衣を身につけ、背筋を、まっすぐに伸ばしている。佐和子は、その傍らで、白い小袖に身を包んでいた。河野老婆の言ったとおり、はっとするほど、美しい人だった。だが、その美しい顔は、深い、悲しみに、沈んでいた。
夫婦の足元に。
子供たちが、いた。
白い着物の、透き通った子供たちが、寄り添うように、身を寄せ合っている。男の子も、女の子も。数えれば——十人。
その姿は、夕暮れの光の中で、本当に、陽に溶けてしまいそうなほど、儚く、美しかった。
明くる日には、この木に斧が入る。村も、森も、谷も、何もかもが、水の底だ。
「……すまん」
清一郎が、ご神木を見上げて、絞り出すように、言った。
「すまん。……守って、やれんかった」
その一言に、何代も続いた社の家の、すべての無念が、込められていた。子供たちは、何も言わずに、清一郎を見上げた。その、黒く、澄んだ瞳に、責める色は、ひとつも、なかった。
「いいえ。あなたは、悪うない」
佐和子が、子供たちの前に、膝をついた。白い小袖が、土に汚れるのも、構わずに。
「悪いのは、わたしたちじゃ、ない。……でも、あなたたちを、ここに置いて、いくものですか。森と一緒に、消えさせてなんか、やるものですか」
佐和子は、ご神木に手を伸ばし、その、最後のひと枝を、そっと、手折った。みずみずしい、若葉をつけた、青い枝だった。胸に、宝物のように、抱きしめる。
「この子に、宿って。……どこか遠くに、あなたたちだけの森を、作ってあげる。誰にも、邪魔されない、静かなところを。だから——」
佐和子の頬を、涙が、伝った。
「だから、おいで。一緒に。お願い」
子供たちは、しばらく、顔を、見合わせていた。
やがて、いちばん年かさに見える、一人の少年が、進み出た。ほかの子らよりも、いっそう、気高い光を、その身にまとった、少年だった。
少年は、こくり、と、頷いた。
そして、佐和子の、差し出した手に、その、ひんやりと冷たい、小さな手を、重ねた。
すると、ほかの子供たちも、つぎつぎと、夫婦の周りに、集まってきた。まるで、雛が、親鳥に寄り添うように。
清一郎は、その光景を見て、ぐっと、唇を噛んだ。痩せた頬を、一筋の涙が、流れ落ちる。
「……ありがとう。ありがとうな」
清一郎は、子供たちを、両腕に、抱きしめた。
「もう、放さん。何があっても、もう、二度と」
その腕は、わずかに、震えていた。
夕日が、ご神木を、夫婦を、その足元に寄り添う子供たちを、茜色に、染めていた。
それは、ひとつの村の、終わりの光景でありながら——同時に、ひとつの、小さな、けれど、確かな希望の、旅立ちの光景でも、あった。
子供たちの姿が、夕日の中に、すうっと、薄れていく。手折られた、ご神木の枝へと——その、清らかな気配が、一つ、また一つと、吸い込まれるように、宿っていった。
夫婦は、十の魂の宿った、ご神木の枝を、宝物のように、胸に抱え。
夕焼けの、山道を、下っていく。
その背中を、誰もいなくなった村が、巨大なご神木が、静かに、見送っていた。
——そこで。
鏡の像は、途切れた。
水が、村を呑み込み、すべてが、青い闇の底に、沈んでいったからだ。
*
「……っ、は」
かおりが、大きく、息を吐いた。手の中の水鏡は、また、もとの曇った青銅に、戻っていた。
堤体の上、夕焼けの中で、彼女の、白い顔には、玉のような汗が、浮かんでいた。膝が、わずかに、震えている。よろめいた彼女の身体を、翔太が、とっさに、腕で支えた。
「おい、大丈夫か」
「……ええ。この水の、見たものが——少し、強すぎたもので」
かおりは、翔太の腕の中で、息を整えた。その瞳は、まだ、半世紀前の、夕焼けを、映しているようだった。
「視えました。仁科夫婦が、神様の子らを連れて、村を出る——その、別れの日の、すべてが」
かおりは、ぽつり、ぽつりと、今、見てきた光景を、翔太に語った。
ご神木の下の、夫婦と、十人の子供。手折られた、最後のひと枝。差し出された手に、重ねられた、冷たい小さな手。子供たちを抱きしめ、「必ず、守る」と誓った、清一郎の涙。
聞き終えて、翔太は、しばらく、青く暮れていく湖面を、見つめていた。
「……立派な、夫婦だな」
やがて、低く、呟いた。皮肉でも、軽口でもない、心からの言葉だった。
「自分の暮らしを、何もかも捨てて。人ならぬ子らを、生かすために。……俺には、できんよ。そんな、無償の愛なんて。会社が傾いたとき、俺は、いちばん最初に、自分の身の安全を、考えた男だ」
翔太の声に、かすかな、自嘲が、混じった。
すべてを失い、燃え尽きて、空っぽになった自分。何も守れず、何も背負えず、ただ、暇を持て余して、市長の椅子に座っただけの、自分。
その対極に——己のすべてを投げ打って、ちっぽけな命を守り抜こうとした、夫婦が、いた。
「市長」
かおりが、静かに言った。
「ですが——ここで、ひとつ、大きな謎が、残ります」
「謎?」
「ええ。仁科夫婦は、神様の子らを連れて、村を出た。新しい棲み処を求めて、あかい市の、胡桃沢へ、たどり着いた。そこまでは、分かりました。……ですが」
かおりは、暮れゆく湖面から、目を上げた。その瞳に、ふたたび、あの、鋭い光が、戻っていた。
「胡桃沢の祟り森から、立ちのぼっているのは——子らを守る、優しい結界の念だけ、ではありません。あそこには、もっと、別の。もっと、どす黒く、激しい、憎しみと、無念の念が、幾重にも、渦巻いている。……この、嶽の村の、清らかで、悲しい念とは、まるで、質の違うものが」
翔太の背筋が、ぞくりとした。
「子らを、慈しんで、守り抜いた、はずの夫婦。なのに、なぜ、あの森には——あれほど、おぞましい、呪いが、渦巻いているのか」
かおりの言葉は、夕闇の中に、不吉に、響いた。
「村を出た、あの美しい別れの日と。胡桃沢の、あの黒い瘴気の、あいだに。……何か、とてつもなく、恐ろしいことが、起きたのです。この水が、ついに見ることのなかった、あかい市での、長い年月の中で」
翔太は、ごくりと、唾を呑んだ。
別れの日の、あの、あたたかな光景。
そして、祟り森の、あの、ぞっとする冷気。
そのふたつは、あまりにも、かけ離れていた。まるで、別々の、物語のように。
「……答えは、あかい市に、あるってことか」
「ええ」
かおりは、頷いた。
「私たちは、入口を、間違えていたのかもしれません。謎は、長野には、なかった。仁科夫婦が、胡桃沢で、その後、何をしたのか。なぜ、子らを慈しんだ夫婦の森が、おぞましい呪いの森に、変わってしまったのか。……その答えは、あかい市の、年月の中に、眠っています」
二人は、ヘッドライトを灯し、夜の高速道路を、あかい市へと、引き返した。
長野の山々が、闇に沈んで、後ろへ、流れていく。
謎は、解けるどころか、いっそう、深まっていた。
美しい夫婦の物語の、その先に。
いったい、どんな、闇が、待っているのか。
翔太には、まだ、知る由も、なかった。




