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あかい市の市長、探偵になる ― 胡桃沢編 ―  作者: エリト


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9/20

第九話 別れの日

 ——それは、夏の、終わりの日だった。

 水鏡(みかがみ)の面に、ありありと、その光景が、結ばれていく。(のぞ)き込むかおりは、いつしか、自分がその場に、立っているかのような、錯覚(さっかく)(とら)われた。

 半世紀以上前、この湖が、まだ谷であったころ。その水と土が、見届けた景色が——鏡を通して、よみがえる。

 (たけ)の村は、すでに、半分が、廃墟(はいきょ)と化していた。

 立ち退()きの済んだ家々は、戸板(といた)を外され、がらんどうになっている。棚田(たなだ)には、もう、(いね)も植えられていない。()もなく、この谷は、水に沈む。村は、最期(さいご)の時を、迎えようとしていた。

 その、村の中心に。

 天を()くような、巨大な(かつら)のご神木が、立っていた。

 幾百年(いくひゃくねん)を生きてきたであろう、見上げるばかりの大木。その根方(ねがた)に、(こけ)むした、小さな(ほこら)

 そして、その木の下に——仁科清一郎(にしなせいいちろう)と、佐和子(さわこ)の、夫婦が、立っていた。

 清一郎は、()せた、まなざしの強い男だった。質素(そしつ)作務衣(さむえ)を身につけ、背筋を、まっすぐに伸ばしている。佐和子は、その(かたわ)らで、白い小袖(こそで)に身を包んでいた。河野(こうの)老婆の言ったとおり、はっとするほど、美しい人だった。だが、その美しい顔は、深い、悲しみに、沈んでいた。

 夫婦の足元に。

 子供たちが、いた。

 白い着物(きもの)の、透き通った子供たちが、寄り添うように、身を寄せ合っている。男の子も、女の子も。数えれば——十人。

 その姿は、夕暮れの光の中で、本当に、()に溶けてしまいそうなほど、(はかな)く、美しかった。


 明くる日には、この木に(おの)が入る。村も、森も、谷も、何もかもが、水の底だ。

「……すまん」

 清一郎が、ご神木を見上げて、絞り出すように、言った。

「すまん。……守って、やれんかった」

 その一言に、何代も続いた(やしろ)の家の、すべての無念が、込められていた。子供たちは、何も言わずに、清一郎を見上げた。その、黒く、澄んだ瞳に、責める色は、ひとつも、なかった。

「いいえ。あなたは、悪うない」

 佐和子が、子供たちの前に、(ひざ)をついた。白い小袖が、土に(よご)れるのも、構わずに。

「悪いのは、わたしたちじゃ、ない。……でも、あなたたちを、ここに置いて、いくものですか。森と一緒に、消えさせてなんか、やるものですか」

 佐和子は、ご神木に手を伸ばし、その、最後のひと(えだ)を、そっと、手折(たお)った。みずみずしい、若葉(わかば)をつけた、青い枝だった。胸に、宝物(たからもの)のように、抱きしめる。

「この子に、宿って。……どこか遠くに、あなたたちだけの森を、作ってあげる。誰にも、邪魔されない、静かなところを。だから——」

 佐和子の頬を、涙が、伝った。

「だから、おいで。一緒に。お願い」

 子供たちは、しばらく、顔を、見合わせていた。

 やがて、いちばん年かさに見える、一人の少年が、進み出た。ほかの子らよりも、いっそう、気高(けだか)い光を、その身にまとった、少年だった。

 少年は、こくり、と、(うなず)いた。

 そして、佐和子の、差し出した手に、その、ひんやりと冷たい、小さな手を、重ねた。

 すると、ほかの子供たちも、つぎつぎと、夫婦の周りに、集まってきた。まるで、(ひな)が、親鳥に寄り添うように。

 清一郎は、その光景を見て、ぐっと、唇を()んだ。痩せた頬を、一筋の涙が、流れ落ちる。

「……ありがとう。ありがとうな」

 清一郎は、子供たちを、両腕に、()きしめた。

「もう、(はな)さん。何があっても、もう、二度と」

 その腕は、わずかに、震えていた。

 夕日が、ご神木を、夫婦を、その足元に寄り添う子供たちを、茜色(あかねいろ)に、染めていた。

 それは、ひとつの村の、終わりの光景でありながら——同時に、ひとつの、小さな、けれど、確かな希望の、旅立ちの光景でも、あった。

 子供たちの姿が、夕日の中に、すうっと、薄れていく。手折られた、ご神木の枝へと——その、清らかな気配が、一つ、また一つと、吸い込まれるように、宿っていった。

 夫婦は、十の(たましい)の宿った、ご神木の枝を、宝物(たからもの)のように、胸に(かか)え。

 夕焼けの、山道を、下っていく。

 その背中を、誰もいなくなった村が、巨大なご神木が、静かに、見送っていた。

 ——そこで。

 鏡の(ぞう)は、途切れた。

 水が、村を()み込み、すべてが、青い(やみ)の底に、沈んでいったからだ。


 *


「……っ、は」

 かおりが、大きく、息を吐いた。手の中の水鏡は、また、もとの(くも)った青銅(せいどう)に、戻っていた。

 堤体(ていたい)の上、夕焼けの中で、彼女の、白い顔には、(たま)のような汗が、浮かんでいた。(ひざ)が、わずかに、震えている。よろめいた彼女の身体を、翔太が、とっさに、腕で支えた。

「おい、大丈夫か」

「……ええ。この水の、見たものが——少し、強すぎたもので」

 かおりは、翔太の腕の中で、息を整えた。その瞳は、まだ、半世紀前の、夕焼けを、映しているようだった。

()えました。仁科夫婦が、神様の子らを連れて、村を出る——その、別れの日の、すべてが」

 かおりは、ぽつり、ぽつりと、今、見てきた光景を、翔太に語った。

 ご神木の下の、夫婦と、十人の子供。手折られた、最後のひと枝。差し出された手に、重ねられた、冷たい小さな手。子供たちを抱きしめ、「必ず、守る」と誓った、清一郎の涙。

 聞き終えて、翔太は、しばらく、青く暮れていく湖面を、見つめていた。

「……立派な、夫婦だな」

 やがて、低く、(つぶや)いた。皮肉でも、軽口でもない、心からの言葉だった。

「自分の暮らしを、何もかも捨てて。人ならぬ子らを、生かすために。……俺には、できんよ。そんな、無償(むしょう)の愛なんて。会社が傾いたとき、俺は、いちばん最初に、自分の身の安全を、考えた男だ」

 翔太の声に、かすかな、自嘲(じちょう)が、混じった。

 すべてを失い、燃え尽きて、空っぽになった自分。何も守れず、何も背負えず、ただ、暇を持て余して、市長の椅子に座っただけの、自分。

 その対極(たいきょく)に——(おのれ)のすべてを投げ打って、ちっぽけな命を守り抜こうとした、夫婦が、いた。

「市長」

 かおりが、静かに言った。

「ですが——ここで、ひとつ、大きな謎が、残ります」

「謎?」

「ええ。仁科夫婦は、神様の子らを連れて、村を出た。新しい棲み処を求めて、あかい市の、胡桃沢へ、たどり着いた。そこまでは、分かりました。……ですが」

 かおりは、暮れゆく湖面から、目を上げた。その瞳に、ふたたび、あの、鋭い光が、戻っていた。

「胡桃沢の祟り森から、立ちのぼっているのは——子らを守る、優しい結界の念だけ、ではありません。あそこには、もっと、別の。もっと、どす黒く、激しい、(にく)しみと、無念の念が、幾重(いくえ)にも、渦巻(うずま)いている。……この、嶽の村の、清らかで、悲しい念とは、まるで、(しつ)の違うものが」

 翔太の背筋が、ぞくりとした。

「子らを、慈しんで、守り抜いた、はずの夫婦。なのに、なぜ、あの森には——あれほど、おぞましい、呪いが、渦巻いているのか」

 かおりの言葉は、夕闇(ゆうやみ)の中に、不吉(ふきつ)に、響いた。

「村を出た、あの美しい別れの日と。胡桃沢の、あの黒い瘴気(しょうき)の、あいだに。……何か、とてつもなく、恐ろしいことが、起きたのです。この水が、ついに見ることのなかった、あかい市での、長い年月の中で」

 翔太は、ごくりと、(つば)()んだ。

 別れの日の、あの、あたたかな光景。

 そして、祟り森の、あの、ぞっとする冷気(れいき)

 そのふたつは、あまりにも、かけ離れていた。まるで、別々の、物語のように。

「……答えは、あかい市に、あるってことか」

「ええ」

 かおりは、頷いた。

「私たちは、入口(いりぐち)を、間違えていたのかもしれません。謎は、長野には、なかった。仁科夫婦が、胡桃沢で、その後、何をしたのか。なぜ、子らを慈しんだ夫婦の森が、おぞましい呪いの森に、変わってしまったのか。……その答えは、あかい市の、年月の中に、眠っています」

 二人は、ヘッドライトを(とも)し、夜の高速道路を、あかい市へと、引き返した。

 長野の山々が、闇に沈んで、後ろへ、流れていく。

 謎は、解けるどころか、いっそう、深まっていた。

 美しい夫婦の物語の、その先に。

 いったい、どんな、闇が、待っているのか。

 翔太には、まだ、知る(よし)も、なかった。


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