第十話 焼け跡の記憶
長野から戻った翌日、二人は、ふたたび胡桃沢のふもとの集落へ向かった。
謎の在りかが、長野ではなく、このあかい市の半世紀の年月の中にある——そう分かった以上、調べ直すべきは、夫婦がこの地でどう暮らし、どう変わっていったかだった。
「仁科夫婦が、暮らした家は、もう残っていません」
車中で、かおりが、タブレットを操作しながら言った。
「市の古い記録にありました。半世紀ほど前——夫婦が人前から姿を消した、すぐあと。火事で全焼しています」
「火事?」
「ええ。出火の原因は不明。幸い、延焼はなかった。ですが、母屋は跡形もなく焼け落ちた。……以来、その土地は祟り森のそばということもあり、誰も手をつけぬまま。今は、ただの草地です」
「自分で火をつけたのかもな」
翔太が、ぽつりと言った。
「何もかも燃やして、消えちまいたかった。……まあ、当てずっぽうだけどな」
かおりは答えなかった。だが、その横顔が、翔太の言葉を否定してはいなかった。
二人は、その焼け跡に立った。
雑草が生い茂る、ただの空き地だった。半世紀の歳月が、焼け跡の生々しさを、すっかり覆い隠している。わずかに、黒く焦げた礎石が、草の間に顔を覗かせているだけだった。
その背後に、祟り森が黒々と覆いかぶさるように迫っている。
「……何も、残っちゃいないな」
翔太は、草地を、見渡した。
「ええ。ですが——念は、土地に残ります」
かおりは、礎石のひとつに、そっと手を触れた。
その白い顔が、すうっと青ざめていく。
「……ここに暮らしていた人々の想いが、土に染みついています。前半は——あたたかい。穏やかな、家族の団欒の気配。ですが、ある時期から、それが急に変わる」
「変わる?」
「哀しみと、焦りと……ひどく、ねじれた何かに。この土地は覚えています。幸せな家族が、少しずつ壊れていく——その過程を」
翔太は黙って、その焼け跡を見つめた。
幸せな家族の団欒。そして、ある時期からのねじれ。
その境目に何があったのか。
「手がかりは、この土地の念だけ、か。……心もとないな」
「いえ。もうひとり、生きた証人がいます」
かおりは顔を上げた。
「山田のご老人です。あの方は、この夫婦をいちばん近くで見てきた。……念が語らぬ部分を、あの方の記憶が補ってくれるかもしれません」
*
ふたたび訪ねた山田老人は、二人の顔を見ると、すべてを察したように深く頷いた。
「……また、来なさったか。よっぽど、仁科さんとこのことが気になるとみえる」
「ご老人」
翔太は、頭を下げた。
「不躾を承知でお訊きします。仁科夫婦の写真のようなものは残っていませんか」
山田老人は、しばらく黙っていた。
やがて、よろよろと立ち上がり、古い簞笥の奥から一枚の色褪せた写真を取り出してきた。
「……これしかねえわ」
老人が震える手で差し出したのは、仁科夫婦の写真だった。
縁側で寄り添う清一郎と佐和子。長野の水鏡で、かおりが視た、あの夫婦に間違いなかった。
「祭りの日にな。村の者で写真を撮ったことがあってよ。そんとき、たまたま写り込んどった一枚だわ。仁科さんとこは、めったに人前に出んかったから……夫婦の写真なんぞ、これっきりだわなあ」
写真の中の夫婦はぎこちなく、けれど、確かに微笑んでいた。
その傍らには誰もいない。
だが、佐和子の視線の先。何もない虚空を——彼女は、まるでそこに誰かがいるかのように、慈しむように見つめていた。
「……奥さんは、いつもこうだったよ」
山田老人が、ぽつりと、言った。
「何もないところを優しい目で見とった。あの見えん子らが、そこにおったんだろうなあ。……わしらには見えん、あの子らが」
翔太はその写真をじっと見つめた。
誰もいない虚空を、慈しむ夫婦。その姿は哀しいほど優しかった。
*
「ご老人。佐和子さんは病に倒れられたと聞きました」
かおりが静かに尋ねた。
山田老人の顔が曇った。
「ああ。……あれは、夫婦がこの胡桃沢に来て何年か経ったころだ。奥さんが、ぱったり姿を見せんようになってな。寝込んどるち、噂が流れた」
「何の病かご存じですか」
「はっきりとは知らん。けど——」
老人は声を落とした。
「旦那が、診療所の先生を呼びに走るのを何度も見たわ。顔を真っ青にして。……『戦の毒だ』ち、口走っとったのを聞いたことがある」
「戦の毒……?」
翔太が、聞き返した。
「ああ。当時は、よう言うたもんさ。血の病は戦争が身体に遺した毒のせいだち。……旦那は、それを信じとった。『また、戦争が奪っていく』ち。なんべんも、なんべんも、繰り返しとったわ。……鬼気迫る、ありさまでなあ」
翔太とかおりの視線が交わった。
戦の毒。戦争が、また奪っていく——。
「そのころからだな」
山田老人の声が震えた。
「旦那の様子がおかしくなっていったのは。夜中に森へ入っていく姿を見た者もおる。日に日に痩せ細って、目だけがぎらぎらと。……まるで、何かに取り憑かれたみてえに」
老人は深くため息をついた。
「わしは、子供ながらに思うたよ。あの優しかった夫婦に、いったい何が起きとるんかと。……今になってもわからん。わからんが——あれは尋常じゃなかった」
翔太は、黙ってその話を聞いていた。
妻の発病。戦の毒という思い込み。豹変する夫。夜ごとの森。
ばらばらの断片。だが、その奥に何か恐ろしい絵が、おぼろげに滲みはじめている気がした。
「市長」
かおりが、立ち上がった。
「この、佐和子という女性の病を調べましょう。彼女が、いつ何の病に倒れ、いつ亡くなったのか。……それが、夫婦の物語の転が始まる最初の一点であるような気がします」
翔太は頷いた。
山田老人から譲り受けた一枚の写真を、そっと上着の内ポケットにしまう。
誰もいない虚空を慈しむ夫婦の写真。
幸せのすぐ隣に、いつも影は寄り添っている。人がそれに気づくのは、たいてい何もかもが終わってからだ。




