第十一話 長すぎる病
佐和子の病を追う調査は難航した。
半世紀以上前の一個人の病歴など、たやすく残ってはいない。だが、市長の権限と、かおりの執拗な情報の整理は、わずかな糸口を手繰り寄せた。
当時、胡桃沢のふもとには小さな診療所があった。今はもう廃業している。だが、その診療所の初代院長の孫が、市内で別の医院を継いでいた。
二人は、その医院を訪ねた。
「祖父の古い診療記録ですか」
白衣の初老の医師は、怪訝そうな顔をした。市長みずからの来訪に戸惑っている。
「ええ。半世紀以上前のある患者について、どうしても調べねばならないことがあるのです。市の開発計画に関わることでして」
翔太が用意してきた口実を述べると、医師は、しぶしぶ倉庫から黴くさい古い記録の束を運び出してきた。
「祖父は、几帳面な男でしてね。診た患者のことは、こまかく書き残しておりました。……ですが、何しろ古いもので。お役に立てるかどうか」
かおりが、その記録の山に取りかかった。
死者から借りた超人的な情報処理能力。色褪せ、虫に食われた帳面の文字を、彼女は恐ろしい速さで読み解いていく。
やがて、その手がぴたりと止まった。
「……ありました」
かおりは一冊の古い帳面を開いて見せた。
かすれた万年筆の文字で、こう記されていた。
——仁科佐和子。胡桃沢。重度の貧血、皮下出血、止まらぬ高熱。血液の病なるべし。白血病と思われる。
「白血病……」
翔太の声が、低くなった。
当時、白血病は不治の病だった。治療法など、ほとんどなきに等しい。
「気の毒に。診断が下った時点で、もう手の施しようがなかったでしょうな」
横から覗き込んだ医師が痛ましげに言った。
「この時代の白血病です。それも、ここまで進んでいる。……正直、申し上げて保って数ヶ月。それが医学的な限界です」
「数ヶ月……」
翔太は、その帳面をじっと見つめた。
あの美しい佐和子。子らを慈しんだ優しい人。彼女は不治の病に倒れ、わずか数ヶ月の余命を宣告されていた——。
胸が締めつけられた。
仁科夫婦の物語に、これほどむごい影が差していたとは。
「市長。この診断が下された日付をご覧ください」
かおりが帳面の隅を指さした。
翔太は、その日付に目をやった。そして——記録の最後の頁へと、めくっていった。
几帳面な院長は、佐和子の容態を、その後もぽつぽつと書き継いでいた。往診の記録らしい。
「……おい。これは」
翔太の指が、止まった。
最初の診断の日付と最後の記録の日付。そのあいだが——あまりにも長い。
「……待って。数ヶ月の命って言いましたよね。なのに、この記録、最初の診断から最後の往診まで……二年以上、空いてる」
翔太の経営者としての勘が、ざらりとざわついた。数字の辻褄が合わない。
「二年以上、ですか」
医師も帳面を覗き込み眉をひそめた。
「それは……妙ですな。当時の白血病で、無治療で二年以上。あり得ない、とは言いませんが……きわめて稀なケースです。普通なら、とうに」
「ですよね」
翔太は、何かを掴みかけた。だが、それが何なのか、まだ形にならない。
ただ、ひどく嫌な感じが胸の底にわだかまった。
そのとき、かおりが、ふと最後の往診の記録の傍らに書かれた院長の走り書きを読み上げた。
「『仁科氏、妻の延命に執着甚だし。あらゆる手を尽くすと譲らず。常人ならざる気迫なり』……と」
「延命への執着……」
翔太は、その言葉を口の中で転がした。
愛する妻を、なんとしても生かそうとした夫。それは、美しい話だ。だが——なぜ医学的にあり得ないほど、生き永らえたのか。その答えは、この帳面にはなかった。
「……もう一人、話を聞きたい人間がいる」
翔太は帳面を閉じ立ち上がった。
「山田の爺さんだ。あの人なら当時の夫婦の様子をいちばん近くで見ていたはずだ」
*
ふたたび訪ねた山田老人は、翔太とかおりの顔を見ると、すべてを察したように深く頷いた。
「……長野まで、行ってきなさったか」
「ええ」
「そうかい。……仁科さんとこの、ほんとうの姿を、知ってしまいなさったか」
老人は、囲炉裏の火に薪をくべた。
「山田さん——佐和子さんが、病に倒れたころのことを、覚えていらっしゃいますか」
かおりが静かに尋ねると、山田老人は、ゆっくりと語り出した。
「ああ。あれは、夫婦が、この胡桃沢に来て何年か経ったころかなあ。……ぱったりと奥さんを見かけんようになってな」
老人の目が、遠くを見た。
「あのころから、だんだんおかしくなっていったんさ。仁科の旦那が、人が変わったように思いつめた顔をするようになって。夜になると森へ入っていく。痩せ細って目だけがぎらぎらと。……それとなあ」
老人は、声をひそめた。
「あの見えん子らの気配も——だんだん薄れていったんさ。前はあの家のそばを通ると、なんとなく賑やかな気配がしたもんだ。子供がおるなあち。それが、ひとつまたひとつと消えていくみてえに。家全体が、しんと静まりかえっていってなあ」
翔太と、かおりの視線が、交わった。
佐和子が病に倒れたころから。子らの気配が薄れていった——。
「ご老人。前に奥さんが『うちの子らは、よその子とは遊べない』と仰っていたと」
「ああ、言うたな」
「旦那さんは、どうでしたか。子らのことを」
山田老人は、しばらく考え込んだ。
「奥さんが寝込んでからは……旦那が、人を寄せつけんようになってなあ。『この土地に近づくな』ち。前は奥さんがすまなそうにするだけだったのに。旦那は、まるで何かを誰の目にも触れさせとうないち、いうふうでなあ」
老人は、ふうと息をついた。
「今、思や」
老人の声が湿った。
「あのころ、仁科の家では何か容易ならんことが起きとったんじゃなかろうか。わしら村の者にも見せられん何かが」
翔太は、黙って囲炉裏の火を見つめた。
妻の発病。夫の豹変。薄れていく子らの気配。夜ごとの森。引き延ばされた闘病。
ばらばらの断片。だが、その奥に、ひとつの恐ろしい絵がおぼろげに滲みはじめている気がした。
まだ、見えない。だが、確かにそこにある。
(……何だ。俺は何を見落としてる)
翔太の胸で嫌な予感だけが、黒く膨らんでいった。




