第八話 神様の子
麓の町で、二人は、嶽の村の生き残りを、探し当てた。
河野という、九十をいくつか越えた老婆だった。デイサービスの送迎から戻ったばかりだという小柄な老婆は、市長がはるばる訪ねてきたと聞いて、たいそう驚いたようだったが、嶽の村の話、と切り出すと、皺深い顔に、遠い光を浮かべた。
「嶽の村……ああ、あの、水に沈んだ村なあ」
河野老婆は、縁側に腰かけ、庭の新緑を眺めながら、ゆっくりと語り出した。
「わしゃ、あの村で、生まれ育ったんさ。十になる年に、ダムで、追い出された。もう、八十年も、昔の話だわ」
「お婆さん。仁科——仁科清一郎さんと、佐和子さんの、ご夫婦を、覚えていらっしゃいますか」
かおりが、静かに尋ねると、河野老婆の目が、かっと、見開かれた。
「仁科さんを……あんたら、仁科さんを、知っとるんか」
「いえ。お二人が、村を出たあと、どうなったのかを、追っているのです。お二人は、どんな方でしたか」
河野老婆は、しばらく、黙っていた。
やがて、絞り出すように、言った。
「……あの夫婦は、村の、宝だったんさ」
「宝?」
「仁科の家は、代々、お社の家でね。村の真ん中の、それは大きな桂のご神木と、その根方の祠を、ずうっと、守ってきた家だわ。清一郎さんは、その、跡継ぎでね。佐和子さんは、それはそれは、美しい、優しい奥さんだった」
老婆の声が、震えた。
「あのお社の神様はなあ、ただの、言い伝えの神様じゃ、なかったんよ」
「と、いいますと」
「……いる、んさ。本当に」
河野老婆は、声をひそめた。その目に、八十年の時を越えて、幼い日の畏れが、よみがえっていた。
「神様の、お使いがね。子供の姿を、しとった、ち、いうんさ。色が白えくて、透き通った、それはきれえな子らが。ご神木の森に、棲んどった、ち。けんど、村の者は、めったに、お目にかかれん。心の、ようよう清い者にだけ、ほんの、たまーに、姿を見せる、ち言うてね」
翔太と、かおりの視線が、交わった。
透き通った、子供。
胡桃沢で、山田老人が、ただ一度だけ垣根越しに見たという、あの子と——寸分、違わぬ。
「わしも、一度だけ、見たことが、あるんよ」
河野老婆は、夢みるように、目を細めた。
「ご神木の森で、迷子になってなあ。日が暮れて、心細うて、泣いとった。そしたら、木立の、向こうに——白い着物の、男の子が、ぽうっと、立っとってね。何も言わず、ただ、にっこり笑って、こっちへ、おいで、ち、いうふうに、森の出口の、ほうを、指したんさ。その子について、歩いていったら、いつのまにか、村の、はずれに、出とった。……ふり返ったら、もう、その子は、おらん。陽の光に、すうっと、溶けるみてえに、消えとった。あれは、人の子じゃ、なかった。神様の、子だわ」
老婆は、深く、息をついた。
「仁科の夫婦はなあ。その、神様の子らを、お社の家の務めとして、ずうっと、見守ってきた。森が荒れんように、子らが、人間に悪さされんように。……子のない夫婦でね。あの神様の子らを、まるで、我が子のように、慈しんで、おったわ」
我が子のように。
その言葉が、翔太の胸に、じんと、染みた。
*
「……それで、ダムの話に、なるんさ」
河野老婆の声が、再び、曇った。
「村が、水に沈む、ち決まってなあ。村の者は、みな、嘆いた。けど、いちばん、苦しんだのは、仁科の夫婦だったわ」
「神様の子らを、置いては、いけない……」
かおりが、呟いた。
「そうさ」
老婆は、頷いた。
「ご神木は、伐り倒される。森は、水に沈む。神様の子らの、棲み処が、なくなっちまう。あの子らは、森とともに、消えてしまう。……仁科の夫婦は、それだけは、どうしても、見過ごせんかった」
老婆の目に、涙が、滲んだ。
「だから、夫婦は——神様の子らを、連れて、村を、出たんさ」
「連れて……?」
「ご神木の、最後の、ひと枝をなあ。子らの、依り代として、大事に抱えてね。新しい、棲み処を、探して。神様の子らを、絶やさんように。——夫婦は、村を捨てて、どこへともなく、消えていった」
河野老婆は、涙を、皺の手で拭った。
「立派な、人らだったわ。自分らの、暮らしを、何もかも捨てて。先祖代々の土地も、世間の目も、ぜんぶ捨てて。ただ、神様の子らを、生かすために。……あんな、心の清い夫婦は、もう、おらん」
翔太は、言葉を失っていた。
ダムに沈む村から、神様の子らを連れて、逃げた夫婦。新しい棲み処を求めて、遠いあかい市の、胡桃沢へ。
山田老人の語った、子らを慈しむ優しい夫婦。その、美しい姿の、源が、今、はっきりと、見えた。
(……守って、いたんだ。やっぱり、あの夫婦は)
胸に、あたたかいものが、こみ上げてくる。
あの祟り森の結界は、人ならぬ子らを、人の世から、守り抜くために——夫婦が、命がけで、張ったものだったのだ。
そう、このときの翔太は、確信した。
*
河野老婆に、丁重に礼を述べ、二人は、再び、ダムの堤体へ戻った。
日が、傾きかけていた。青かった湖面が、夕日を受けて、燃えるような茜色に、染まっている。
「かおり。お前、さっきから、ずっと考え込んでるな」
翔太が、声をかけると、かおりは、湖面を見据えたまま、静かに言った。
「市長。少し、お待ちを。……天羽の家に、伝わるものを、使います」
かおりは、肩から提げた古い布包みを解き、中から、ひとつの鏡を取り出した。
手のひらほどの、円い青銅の鏡だった。表面は、長い年月で曇り、緑青を吹いている。だが、その縁に刻まれた文様は、見る者の目を、奇妙に引き込む、古えのものだった。
「なんだ、それは」
「天羽の家に、代々伝わる、神鏡です。水鏡、と呼んでおります」
かおりは、鏡を、両手で捧げ持った。
「口寄せの異能とは、別の力です。私の能力は、あくまで、死者の遺した技を、この身に降ろすもの。土地や、水に刻まれた、過ぎ去った景色までは、視ることができません。……ですが、この水鏡は、別です」
かおりは、鏡の面を、夕焼けの湖面に、向けた。
「この鏡は、水面に映る、今の景色の、その奥に——かつて、そこにあった、過ぎ去りし日の景色を、映し出します。天羽の祖が、土地の真を見極めるために、用いてきた神器です。この、湖の底に沈んだ、嶽の村の、最期の日を——この鏡を通して、視るのです」
「……土地の、ビデオテープを、巻き戻す、ってわけか」
翔太は、半信半疑で、その曇った鏡を、覗き込んだ。
「ただし、市長。ひとつ、お断りしておかねばなりません」
かおりの声が、わずかに、硬くなった。
「この水鏡で視られるのは、この水が、見届けた景色までです。村が、水に沈む、その最後の日まで。村が沈み、夫婦が去ったあとのことは、この水には、映っておりません」
「つまり、仁科夫婦が、村を出る、ところまで、か」
「ええ。夫婦が、あかい市で、その後、何をしたのか。胡桃沢で、何が起きたのか。それは、この水の見届けた景色には、含まれておりません。水鏡をもってしても、視ることは、叶わない」
かおりは、淡々と続けた。
「水鏡が映すのは、その水が、その目で見た景色だけ。この湖は、嶽の村の最期を見送って、生まれた。だから——映し出せるのは、その、別れの日まで、なのです」
翔太は、頷いた。
そのときは、その制約が、後にどれほど、重い意味を持つことになるか——まだ、知る由も、なかった。
「……やってくれ」
翔太は、低く言った。
かおりは、深く、息を吸い込んだ。
そして、湖面に水鏡をかざし、祈りの言葉を、紡ぎはじめた。
人の言葉のようでいて、どこか、水のせせらぎのような、不思議な響きの祝詞。
夕焼けに染まった湖面が、その声に応えるように、かすかに、波立った。
次の瞬間。
曇っていたはずの水鏡の面が、夕日を弾いて、ぎらりと、光った。
その鏡の中に——半世紀以上前の、嶽の村の、最後の日が、ゆっくりと、像を結びはじめる。
かおりの、ほっそりとした身体が、びくりと、震えた。




