第七話 水底の村
翌々日の朝、二人を乗せた公用車は、長野の山あいへと分け入っていた。
運転は、翔太がみずから買って出た。役所の運転手を連れていけば、行き先を詮索される。それに——ハンドルを握っていると、止まった時計のことも、人ならぬ子供のことも、いっとき忘れていられた。
窓の外を、山が、谷が、後ろへ流れていく。新緑の濃い、深い山だった。
「しかし、まあ」
長いトンネルを抜けたところで、翔太は、ぽつりと言った。
「市長が、公用車で県境を越えて、半世紀前に消えた夫婦の故郷へ、墓参り。……監査で説明を求められたら、なんと答えりゃいいんだ。『土地の精霊の声を聴くため』、とでも書くか」
「『歴史的・文化的価値を有する開発予定地の、由来調査』。出張伺いには、そう記載しておきました」
助手席のかおりが、前を向いたまま、淡々と答えた。
「嘘は、書いておりません。事実の、角度を変えただけです」
「……お前のそういうところ、嫌いじゃないよ」
翔太は、口の端を歪めて笑った。
皮肉のつもりだったが、かおりは、相変わらず、眉ひとつ動かさない。その手応えのなさが、翔太には、奇妙に心地よかった。
目指す村は、もう、地図には載っていない。
昭和二十年代の終わり、巨大なダムの建設によって、ひとつの谷が、まるごと湖の底に沈められた。村の名は、嶽の村、といった。
二人は、まず、ダムを管理する事務所を訪ねた。市長の肩書きと、開発予定地の由来調査という名目は、ここでも効いた。応対した年配の職員は、古い資料を、快く引っ張り出してくれた。
「嶽の村ですか。ええ、ええ、ダムの底に沈んだ村でしてね」
職員は、色褪せた一葉の写真を、机に置いた。
そこには、深い山に抱かれた、小さな集落が写っていた。棚田が斜面を段々に染め、茅葺きの屋根が、寄り添うように並んでいる。素朴で、美しい村だった。
「いい村だったそうですよ。水が、それは清らかでね。村の真ん中に、古い古い、ご神木の桂の大木があって。村の者は、みな、その木を、たいそう大事にしておったとか」
「ご神木……」
かおりの瞳が、わずかに動いた。
「ええ。なんでも、その桂の根方に、小さな祠があってね。村の守り神を、祀っておったそうです。山の神様、水の神様、とも。村の衆は、その神様の宿る泉や森を、決して荒らさなかった。おかげで、嶽の村は、飢饉のときも水に困らず、災いも少なかった、と」
翔太は、その話を聞きながら、背筋が、ぞくりとするのを感じた。
守り神。神木。荒らされぬ森。——胡桃沢の、祟り森と、どこか、響き合うものがある。
「その村が、ダムで沈められた、と」
「そうなんです」
職員の顔が、曇った。
「戦後の、電力不足の折でしてね。国策です。村の衆は、みな、立ち退きを迫られた。先祖代々の土地を、二束三文の補償金で手放させられて……それは、もめたそうですよ。最後まで、首を縦に振らんかった家も、あったとか」
「最後まで、抵抗した家?」
「ええ。記録に残っとります。なんでも——村の、神主の家系だったとか」
職員は、古い名簿の写しを、たどった。
「神主、というか、村の守り神を、代々祀ってきた、お社の家でしてね。その家の主が、最後まで、『ご神木を、神様を、水に沈めるわけにはいかん』と、立ち退きを拒んだ。……ですが、国の決めたことです。どうにもならん。結局、ダムの水は、容赦なく、村を呑み込んでいった」
翔太と、かおりの視線が、交わった。
「その、最後まで抵抗した、神主の家の——名は」
かおりが、静かに尋ねた。
職員は、名簿の、かすれた文字を、指でなぞった。
そして、読み上げた。
「ええと……仁科、とありますな。仁科、清一郎と、その妻、佐和子」
仁科。
翔太の心臓が、どくりと、跳ねた。
胡桃沢に流れ着いた、あの夫婦。その出どころが、今、はっきりと、像を結んだ。
彼らは、ただの流れ者ではなかった。
ダムに沈められた村で、代々、守り神を祀ってきた、神主の家系。村の神様を、最後まで守ろうとして、敗れた人々——。
*
ダム事務所を辞し、二人は、ダムの堤体の上に立った。
眼下に、深く、青い水を湛えた、巨大な人造湖が広がっている。穏やかな水面が、初夏の陽を、きらきらと照り返していた。
この、静かな水の、はるか底に。
かつて、美しい村があった。棚田があり、茅葺きの家々があり、清らかな泉があり、そして——村人が、命がけで守ろうとした、神様の宿る、桂の大木が、あった。
「……ここに、沈んでるのか」
翔太は、青い水面を見下ろして、呟いた。
いつもの軽口は、出てこなかった。あまりにも静かで、あまりにも深い水が、彼の饒舌を、奪っていた。
「市長」
隣に立つかおりの声が、いつになく、緊張を帯びていた。
「私には、視えます。この水の底から——強く、悲しい念が、立ちのぼっている。胡桃沢の、あの黒い瘴気と、同じ『におい』のする念が」
「同じ、におい?」
「ええ。間違いありません。胡桃沢の祟り森に巣食うものは、この、嶽の村と、確かに、繋がっている」
かおりは、青い水面を、じっと見据えた。その横顔は、いつもの能面ではなかった。何か、深いものに、耐えるような表情だった。
「水の神を祀る、神主の夫婦。ダムに沈められた、守り神の宿る森。そして、神様を守れなかった、村人たちの、無念……。市長。すべての糸が、この水の底から、伸びています」
翔太は、青く、静かな水面を、もう一度、見渡した。
半世紀以上、この水の底で、村は、いったい何を思ってきたのだろう。守れなかった神様は、沈められた森は、どんな無念を、抱えてきたのだろう。
(——人は忘れても、土地は忘れない)
かおりの言葉が、また、胸の中でこだました。
国は、村を沈めたことを、とうに忘れている。世間も、嶽の村など、誰も覚えていない。
だが、この水だけは、覚えている。
半世紀ものあいだ、たった一人で、ずっと。
「……かおり」
翔太は、低く言った。皮肉も、軽口も、もう、なかった。
「仁科夫婦が、何を抱えて、胡桃沢へ逃げたのか。だいぶ、見えてきた気がする。……だが、肝心の、あの『透き通った子供たち』が、何者なのかが、まだ分からん」
「ええ」
かおりは、頷いた。
「その答えを知る者が、まだ、生きているかもしれません」
「生きている?」
「立ち退きで、村を離れた人々の、その後を、ダムの職員が、教えてくれました。多くは散り散りになりましたが——数家族が、麓の町に、移り住んでいる。当時を知る古老が、まだ、一人か二人、存命のはずです」
かおりは、堤体の向こう、麓の町を見下ろした。
「会いに、参りましょう。嶽の村が、最後の日に、何を見たのか。仁科夫婦が、あの子らを連れて、どうやって村を出たのか。——その、最後の記憶を、聴くために」
翔太は、頷いた。
青い湖の底に沈んだ、ひとつの村の、最後の物語。
それを、解き明かす旅は、まだ、終わっていなかった。




