第六話 食い違う証言
山田老人の証言は、翔太の胸に、深く刺さった。
常人には見えず、心の澄んだ者にだけ、稀に姿を見せたという、子供たち。それを、人の世から守るように囲っていた、仁科夫婦。だが、それが事実だとしても、なぜ子供たちは消え、なぜ森は祟りはじめたのか。肝心の答えは、いまだ、霧の向こうに沈んだままだった。
「証言は、ひとつでは足りません」
市長室に戻った翔太に、かおりは言った。
「ひとりの記憶は、必ず、その人の思いに、歪められています。山田のご老人は、子供のころに見た、美しい思い出として、あの夫婦を覚えている。ですが、別の角度から見れば、まったく違う姿が、浮かび上がるかもしれません。……できるだけ多くの人の、できるだけ多くの記憶を、突き合わせるのです」
翔太は、その言葉に、起業家としての血が、わずかに騒ぐのを感じた。
ひとつのデータだけを信じてはならない。複数の情報源を突き合わせ、矛盾を洗い出し、その奥にある真実を炙り出す。それは、彼が事業の世界で、嫌というほど叩き込まれた、鉄則だった。
「……いいだろう。とことん、聞いて回ろうじゃないか」
*
数日かけて、二人は、胡桃沢周辺の、わずかに残る古老たちを、根気よく訪ねて回った。
多くは、相変わらず口が重かった。だが、市長が直々に、しかも、頭を下げて熱心に通ううちに、ぽつり、ぽつりと、当時の断片を漏らす者が、現れはじめた。
そして、その証言は——奇妙なことに、てんでに食い違っていた。
ある、九十過ぎの元・郵便配達夫は、こう語った。
「仁科さんとこかい。ああ、覚えとるよ。……気味の悪い家だったいなあ」
老人は、苦々しげに眉をひそめた。
「子供が、おる、ち、噂だったろう。あれが、わしは、どうにも薄気味悪くてなあ。郵便を届けに行くとよ、家ん中から、こう、視線を、感じるんさ。何人もの、子供に、じいーっと、見られとるみてえな。なのに、障子を開けても、誰も、おらん。声ひとつ、せん。……ぞうっと、したわい。あの家にゃあ、何か、おる、ち、配達夫仲間でも、もっぱらの、噂だったわ」
山田老人の語った、陽に溶けるような美しい子供たちとは、まるで印象が違った。
また、別の、農家の老婆は、声をひそめて、こう言った。
「あたしゃ、見たんさ。一度だけ、ね」
「何を、ですか」
「夜中にね。仁科さんとこの旦那が、ひとりで、あの森のほうへ、入っていくのを。提灯も、持たんとね」
老婆は、ぶるりと、身を震わせた。
「その腕に、何か、白えもんを、大事そうに、抱えとった。布に、くるんだ……あたしにゃあ、子供くらいの、大きさに、見えたわ。けんど、暗うて、よう、わからん。旦那の顔だけが、提灯もないのに、こう、青白く、浮かんで見えてなあ。鬼みてえな、思いつめた顔で。……あたしゃ、怖なくなって、家に、逃げ帰ったんさ」
老婆は、声を、落とした。
「ずうっと、引っかかっとってね。あの旦那は、夜な夜な、森に、何を、運んどったんか。あの白えもんは、なんだったんか……」
森に、何かを、運んでいた。
その、不穏な証言に、翔太は、思わず眉をひそめた。
山田老人の語る、見えない子らを慈しむ優しい夫婦。元配達夫の語る、薄気味悪い気配の家。そして、この老婆の語る、夜ごと森に白いものを運ぶ、思いつめた夫。
同じ仁科夫婦のことなのに、語る者によって、その姿は、まるで、別人のように食い違っていた。
「……まいったな。三人に聞いて、三通りの仁科夫婦が出てきた」
市長室で、翔太は、ソファに頭を預けた。
「見えない子を慈しむ聖人か。薄気味悪い家の不審者か。それとも、夜な夜な森に白いものを運ぶ、怪しい男か。……ユーザーレビューが星五つと星一つで真っ二つ、みたいな話だな。これじゃ、どれを信じればいいんだか」
「ええ。ですが、市長」
かおりは、いつもの無表情のまま、しかし、どこか思案げに言った。
「人の証言が食い違うとき、その全部が嘘、ということは、めったにありません。むしろ——その全部が、それぞれに、本当なのです」
「全部が、本当ねえ」
翔太は、頭の後ろで手を組んだ。
「星五つも星一つも、どっちもサクラじゃなく本心だとしたら……同じ夫婦が、人によって、まるで違う顔を見せてた、ってことか」
「ご明察です。ひとつの真実が、見る角度によって、まったく違って見える。それだけのこと。山田のご老人が見た優しさも、配達夫が感じた不気味さも、老婆が見た、夜の森の影も。……そのすべてを、矛盾なく説明できる、たったひとつの真実が、必ず、どこかにあるはずです」
かおりの言葉は、奇妙なほど、翔太の経営者としての勘に、しっくりと馴染んだ。
ばらばらに見えるデータの、すべてを貫く、ただひとつの解。それを見つけ出すことこそが、難局を解く、唯一の鍵だ。
「……で、その『たったひとつ』に、どうやって、たどり着くんだ」
「証言を集めるだけでは、もう、行き詰まります。次は、夫婦の『出どころ』を、洗うのです」
かおりは、一枚の、古い書類の写しを、机に置いた。
「仁科夫婦が、よそから流れてきた、と山田のご老人は言いました。では、その『よそ』とは、どこか。登記簿の記録を、もう一度、丹念に洗い直しました。すると、夫婦が、あかい市に移り住む前の、本籍地らしきものが、かろうじて、読み取れたのです」
翔太は、その書類を、覗き込んだ。
かすれた文字で、こう記されていた。
——長野県、水内郡。
「長野……」
「ええ。今は、市町村合併で、地名も変わっています。ですが、この旧・水内郡のあたりを調べると——ひとつ、気になることが、分かりました」
かおりの声が、低くなった。
「昭和二十年代の、終わりごろ。この地域に、大きなダムが、建設されています。ダム建設のために、ひとつの村が、まるごと、湖の底に、沈められました」
「……ダムに、沈んだ村」
「仁科夫婦が、あかい市に移り住んだ時期と、その村が、水に沈んだ時期は——ぴたりと、重なります」
翔太の脳裏に、ひとつの像が、おぼろげに、結びはじめた。
故郷の村を、ダムに沈められた夫婦。彼らは、何かを抱えて、その村から、逃げてきたのではないか。透き通った、十人の子供たちと、ともに——。
「市長」
かおりは、まっすぐに、翔太を見た。
「長野へ、参りましょう。仁科夫婦が、何を抱えて、あの胡桃沢へ流れ着いたのか。その答えは、湖の底に沈んだ、彼らの故郷に、眠っています」
翔太は、しばらく、その書類を見つめていた。
長野の、水底の村。
燃え尽きていたはずの胸の奥が、今や、はっきりと、熱を帯びはじめていた。これは、もう、ただの暇つぶしでも、オカルトの検証でもない。
ひとつの、忘れられた家族の、悲しい謎を、解き明かす旅だ。
「……行くか」
翔太は、顔を上げた。その目に、かつて、新しい事業に挑んでいたころの、あの、ひりつくような光が、戻っていた。
「市長就任早々、視察と称して長野で墓ほじり、か。マスコミに嗅ぎつけられたら、いい見出しになる。……公務の調整は、お前に任せる。もっともらしい理由を、でっち上げといてくれ。そういう作文は、得意だろう」
「かしこまりました」
かおりは、深く頭を下げた。
その伏せた顔に、ほんのわずか、安堵に似た色が、よぎったのを、翔太は気づかなかった。
天羽の家が、何代にもわたって、解けずにいた呪い。その糸口に、ようやく、手がかかろうとしている。
二人を乗せた車は、翌々日、東へ向かう高速道路を、長野へと走り出した。
窓の外を、初夏の濃い緑が、後ろへ、後ろへと、流れていく。
——人は忘れても、土地は忘れない。
かおりの、いつかの言葉が、翔太の胸の中で、静かに、こだましていた。湖の底に沈められた村は、半世紀ものあいだ、いったい何を、覚えつづけてきたのだろうか。




