第五話 土地の記憶
胡桃沢から市役所へ戻る車中、翔太は、ずっと黙り込んでいた。
止まったままの腕時計を、何度も振ってみる。だが、針はぴくりとも動かない。山を下りて市街地に入ったとたん、スマートフォンの電波が、何事もなかったように戻った。腕時計だけが、あの森に立ち入った時刻を指したまま、息絶えている。
(……電池切れ、か。いや、昨日替えたばかりだ)
翔太は、それ以上考えるのをやめた。考えれば考えるほど、論理の地面が、足元から崩れていくような心地がした。
「市長」
助手席のかおりが、前を向いたまま言った。
「調べる、と仰いました。その言葉に、二言はありませんね」
「……二言はないさ」
翔太は、止まった時計から目を上げた。
「俺は、自分の目で見たものまで疑うほど、酔狂じゃない。電池を替えたばかりの時計が止まって、まっさらな地面で重機がひっくり返る。それを『偶然です』で報告書を締めるようなら、俺は経営者として、とっくに会社を潰してた。……ああ、調べるとも。何が地面の下で拗ねてるのか、洗いざらいな。市長の権限ってやつが、初めて役に立ちそうだ」
「結構です」
かおりの声に、わずかな満足が滲んだ気がした。
「では、まず、土地の来歴を洗いましょう。あの森が、いつから祟り森と呼ばれ、何があったのか。古い記録と、古い人の記憶。そのふたつから、たぐり寄せていくのです」
*
翌日から、翔太とかおりの、奇妙な「調査」が始まった。
表向きの名目は、データセンター開発計画の、地元住民への丁寧な説明と、土地の歴史的・文化的価値の調査。市長みずから足を運ぶというのだから、職員たちは戸惑いながらも、誰も逆らえない。
まず二人は、市の図書館と、郷土資料館にこもった。
あかい市の古い地誌、戦前の地図、土地登記の記録。膨大な紙の山を、かおりは恐ろしい速さで読み解いていった。死者から借りた能力は、政治の機微だけでなく、こうした地道な情報の整理にも、いかんなく発揮された。
「分かったことを、整理します」
資料館の薄暗い一室で、かおりは、淡々と語り出した。
「胡桃沢の祟り森が、文献に現れるのは、戦後すぐ、昭和二十年代の後半からです。それ以前の地図には、あの一帯は、ただの雑木林としか記されていない。祟りの言い伝えも、ありません」
「戦後から、か。意外と新しいな」
「ええ。土地の登記を見ると、昭和二十年代の終わりに、あの森を含む一帯を、ある人物が買い取っています」
かおりは、古い登記簿の写しを、机に滑らせた。
そこには、達筆な毛筆で、こう記されていた。
——仁科。
「仁科、という姓の夫婦が、よそから移り住んできて、あの森のそばに、家を建てて暮らしていた記録があります。ですが、その後の記録が、ぷっつりと途絶えている。いつ亡くなったのか、子はいたのか、いなかったのか。戸籍をたどっても、はっきりしない。まるで、誰かが、意図的に記録を消したように」
「仁科夫婦……」
翔太は、その姓を、口の中で転がした。
「その夫婦が、祟りと関係している、ということか」
「断定はできません。ですが、祟りの言い伝えが生まれた時期と、夫婦が移り住んだ時期は、ほぼ重なります。何かが、ある」
かおりは、登記簿の「仁科」の文字を、じっと見つめた。
「この夫婦のことを、覚えている人が、まだ生きているかもしれません。昭和二十年代の終わりとなれば、当時を知る者は、もう九十に近い。……急がねば、土地の記憶は、人とともに、消えていきます」
*
二人は、胡桃沢のふもとの集落で、当時を知る老人を、地道に探して回った。
だが、これが、難航した。
祟り森の話を切り出したとたん、誰もが顔を曇らせ、口をつぐむのだ。あんな場所のことは、口にするものではない。触らぬ神に祟りなし。年寄りたちは、判で押したように、そう言って首を振り、戸を閉ざした。
「……参ったな」
幾つめかの家の前で、翔太は頭を掻いた。
「市長が直々に来たってのに、けんもほろろだ。よっぽど、触れたくないらしい」
「恐れているのです」
かおりは、閉ざされた戸を見つめて言った。
「半世紀以上、語ることすら禁忌とされてきた。その恐れは、もはや、理屈ではありません。骨の髄まで、染みついている。……ですが」
かおりは、ふと、ある一軒の、古いしもた屋に目をとめた。
「あの家を、訪ねてみましょう。あそこのご老人だけは、先ほどから、私たちのことを、気にして見ています。話したがっている人の、目です」
その家には、山田という、九十歳になる老人が、一人で暮らしていた。
背中はすっかり曲がり、顔は深い皺に覆われていたが、その目には、まだ澄んだ光が宿っていた。山田老人は、市長が訪ねてきたことに、ひどく驚いたようすだったが、やがて、二人を、囲炉裏端へ招き入れた。
「……胡桃沢の、仁科さんとこの話を、聞きてえと」
茶を淹れながら、山田老人は、皺だらけの顔を、少しだけ歪めた。
「もう、誰も覚えちゃおらんと思うとった。みんな、忘れたふりをして、死んでいったでなあ」
「ご老人は、覚えていらっしゃるのですね。仁科夫婦のことを」
かおりが、静かに尋ねた。
山田老人は、しばらく、囲炉裏の火を、じっと見つめていた。
炎が、皺だらけの横顔を、赤く照らしている。その顔には、遠い昔を懐かしむような、それでいて、何かを恐れるような、複雑な色が浮かんでいた。
「……わしが、まだ、八つか九つの、子供のころだいね」
やがて、山田老人は、ぽつり、ぽつりと、語り出した。
「仁科さんとこの夫婦は、よそから流れてきた、おとなしい人らでなあ。あの祟り森のすぐそばに、ぽつんと家を建ててよ。誰とも、ほとんど付き合わんかった。けど、悪い人らじゃ、なかったんさ。むしろ——」
老人の声が、ふと、優しくなった。
「あの夫婦にゃあ、子供が、おる、ち、もっぱらの、噂でなあ」
老人の声が、ふと、優しくなった。
「子供?」
翔太が、思わず聞き返した。
「ああ。けんど、誰も、はっきりとは、見とらんのよ。家ん中に、何人も、おるらしい、ち。声も、せん。姿も、めったに、見えん。学校にも、来やせんし、祭りにも、出てこん。……ただ、噂だけが、あってなあ」
老人は、湯呑みを、両手で包んだ。
「わしは、一度だけ、見たことが、あるんさ。子供の、ころにな」
「見た?」
「ああ。仁科さんとこの、垣根の隙間から、ふと、覗いたときだ。庭に、白え着物の子が、ひとり、立っとってなあ」
山田老人は、目を細めた。その瞳に、遠い夏の日の光景が、よみがえっているようだった。
「色が白えくて、なんつうか——透き通っとった。陽ぃ浴びると、すうっと、溶けてしまいそうな。あんなにきれえな子は、後にも先にも、見たことがねえわ。……瞬きした、つぎの、瞬間にゃあ。もう、おらんかった。夢でも、見たんかと、思うた」
翔太と、かおりの視線が、わずかに交わった。
透き通った、子供。
かおりの瞳の奥が、すっと、鋭くなった。
「ご老人。ほかの村の子は、その子らを、見ていないのですか」
「ああ。わしが、見たち言うても、誰も、信じやせんかった。仁科さんとこにゃあ、子供なんぞ、おらん、ち。けんど——わしには、確かに、見えたんさ」
老人は、遠い目を、した。
「あとで、ばあさまに、言われたわ。『お前は、昔から、妙に、目が、ええ子だった』ち。心の、澄んだ子供にだけ、ときどき、ああいうものが、見えるんだ、ち。……今思や、なんとも、不思議な、話だわなあ」
「奥さんは、なんと?」
「ああ、奥さんはなあ。そりゃあ、別嬪さんでよ。わしが、垣根から覗いとったのを、見つけてな。……寂しそうに、笑って、こう、言うたんさ」
老人は、声を、和らげた。
「『うちの子らは、よその子とは、遊べないの。ごめんなさいね』と。……まるで、ほんとうに、そこに、見えん子らが、おるみたいに、なあ」
囲炉裏の火が、ぱちりと、爆ぜた。
「……あれは、なんだったんかなあ」
山田老人は、深く、ため息をついた。
翔太は、その話を聞きながら、背筋に、ひやりとしたものを感じた。
常人には、見えない子供。心の澄んだ者にだけ、稀に、姿を見せる。仁科夫婦が、その子らを、家の奥に、隠すように囲っていた——。
(……まるで、何かを、守るように、か)
「ご老人」
かおりが、静かに尋ねた。
「その、子供たちの噂は、その後、どうなったのですか」
山田老人は、長いあいだ、答えなかった。
囲炉裏の火を見つめる目に、深い、悲しみの色が、滲んでいく。
「……消えた、ち、いう、噂だわ」
やがて、絞り出すように、老人は言った。
「ある年の、夏の終わりだいね。仁科さんとこにゃあ、もう、誰も、おらん気配に、なってなあ。あの、見えん子らの、気配も、ふっつりと。仁科さんとこの夫婦も、めっきり、人前に出んようになってよ……」
老人の声が、震えた。
「そのころからだ。あの森が、『祟り森』ち、呼ばれるようになったのは。あそこに近づくと、ろくなことが起きん、ち。子供心に、わしは、思うたわ。——あの、一度だけ見た、きれえな子は。あの森に、呑まれちまったんじゃ、なかろうか、ち」
その言葉を最後に、山田老人は、固く口を閉ざした。
もう、これ以上は話せない。話したくない。そういう、頑なな沈黙だった。
*
山田老人の家を辞し、外に出ると、いつのまにか、日が傾いていた。
集落の屋根の向こうに、胡桃沢の森が、黒い影となって、うずくまっている。
「……見える者にだけ、見える子供、か」
翔太は、その黒い森影を見上げて、呟いた。
「人目を避け、噂だけが流れて、ある夏、その気配ごと、ふっつり消えた。で、そのとたん、森が祟りはじめる。……筋書きとしちゃ、B級ホラーもいいとこだな。でも、笑い飛ばせないのが、業腹だ」
「市長」
かおりは、森を見据えたまま、静かに言った。
「天羽の家に伝わる言葉に、こういうものがあります。——『この世には、人の数には、入らぬ者がいる』」
「人の数に、入らぬ者?」
「山や森や、川や淵に、古くから棲まう、人ならぬものたち。土地そのものの、いのちの化身。それを、土地の精、あるいは、精霊と呼ぶ者もいます」
かおりの横顔は、夕日を浴びて、半分が朱く、半分が影に沈んでいた。
「常人には、見えず。心の澄んだ者にだけ、稀に、姿を見せる。……山田のご老人が、垣根の隙間から見た、あの子は。人の子では、なかったのかもしれません」
翔太は、息を呑んだ。
馬鹿げている、と切り捨てたかった。だが、あの森で自分の身に起きたことを思えば、その言葉を、笑い飛ばすことが、どうしてもできなかった。
「……つまり何か。あの仁科って夫婦は、その『精霊』とやらを、十人も自宅で飼ってた、と。世が世なら、市の天然記念物ものだな」
軽口を叩きながらも、翔太の声は、わずかに掠れていた。
「まだ、分かりません」
かおりは、首を振った。
「ですが、もし、そうだとしたら。あの結界は——人ならぬ子らを、人の世から守るために、張られたものなのかもしれません」
守るために。
その言葉は、翔太の胸に、奇妙なあたたかさと、同時に、得体の知れぬ不安を、残した。
夕暮れの風が、森の梢を、さわさわと鳴らしている。
それは、何かを語りかけているようでもあり、何かを、必死で隠しているようでも、あった。




