第四話 祟る森
胡桃沢の開発計画は、もともと、大野前市長の置き土産だった。
翌朝、翔太は市長室の机に積み上がった分厚い資料を、かおりとともに検めた。
あかい市の北のはずれ、市街地から車で三十分ほど山あいへ分け入ったあたりに、その土地はあった。かつては雑木林と田畑が広がっていたが、過疎で人が去り、今では一帯が市の所有する遊休地になっている。
そこへ、首都圏の大手IT企業を誘致し、巨大なデータセンターを建設する。涼しい気候と、安価で広大な土地。地震の少ない地盤。条件は申し分なく、前市長が誘致企業との間で、すでに大筋の合意を取りつけていた。総事業費は、市の負担分だけで、ざっと五百億円。あかい市にとっては、市政始まって以来の、巨大プロジェクトである。
「ふん、悪くない。むしろ、よく出来てる」
資料に目を通しながら、翔太は経営者の顔で呟いた。
「涼しくて、地盤が固くて、土地はタダ同然。雇用も税収も生まれる。あの賄賂爺さんも、私腹を肥やす片手間に、たまにはまともな仕事をしてたわけだ。……死人に鞭打つのも趣味じゃないが、これだけは褒めてやってもいい」
「ええ。計画そのものは、合理的です」
かおりは、資料の一枚、造成工事の予定地を示す航空写真を、じっと見つめていた。
「問題は、その土地に、何が眠っているか、です」
航空写真の中央には、こんもりと緑の濃い一帯が写っている。周囲が伐り拓かれた遊休地であるのに、そこだけが、まるで意志を持つかのように、深い森として残されていた。
「この森が、地元で『胡桃沢の祟り森』と呼ばれている場所です」
かおりの声が、わずかに低くなった。
「古くから、この森には、立ち入ってはならぬという言い伝えがあります。木を伐れば祟られる。土を掘れば、災いが起きる。だから、戦後の開発の波が周囲を呑み込んでも、この森にだけは、誰も手をつけなかった。前市長の計画書でも、ここだけは、最後まで造成範囲に含めるかどうかで、もめていた形跡があります」
「やけに詳しいな。観光ガイドでも作れそうだ。……お前、この森のこと、前から知ってたのか」
翔太が、ふと、写真から目を上げた。
「ええ」
かおりは、隠す素振りもなく、あっさりと頷いた。
「天羽の家が、ここを見張ってまいりました。この胡桃沢が、ただならぬ土地であることは、私が物心つく前から、知っております。曽祖父の遺した覚書にも、この森の名は、はっきりと記されている。——天羽の宿願のひとつ、と」
「宿願、だと」
「この街には、人の手では祓えぬまま、放っておかれた呪いが、いくつもあります。胡桃沢の祟り森は、その中でも、もっとも大きく、もっとも根の深いもののひとつ。天羽の家は、それらを浄めることを、悲願としてまいりました。ですが——」
かおりは、写真の濃い緑を、指でなぞった。
「民間の巫女の身では、市の所有するこの土地に、立ち入ることすら叶わなかった。手をつけたくとも、つけられぬまま、何十年も、ただ見張ることしか、できなかったのです。……それが、今になって、ようやく動かせる」
「だから、俺に近づいたのか」
「ご明察です」
かおりは、悪びれもせず、まっすぐに翔太を見た。
「市長という、この土地に踏み込む大義名分を持つ者。それが、私には必要だった。データセンターの計画が動き出した今こそ、千載一遇の好機です。この森から立ちのぼる、濃い、黒い澱を——私はもう、何年も前から、視つづけてまいりました」
「……つまり俺は、市長になった瞬間から、お前の計画書の『必要な備品』欄に、しっかり載ってたわけだ」
翔太は、呆れたように天井を仰いだ。だが、その口調に、不快の色はなかった。むしろ、これほど堂々と人を利用しにかかる人間を、彼は嫌いではなかった。腹の探り合いをする議員どもより、よほど気持ちがいい。
その翌週、開発計画は、思いがけぬ形で動き出した。
誘致企業との契約を急ぐため、造成工事の地質調査が、前倒しで始まったのである。前市長が残した手はずに従い、業者が重機を入れ、祟り森の一部に、調査用のボーリング(掘削)を行うことになった。
そして——その初日に、事故が起きた。
「市長! 大変です、胡桃沢の現場で——!」
血相を変えた職員が、市長室に駆け込んできたのは、昼前のことだった。
報告を聞くうちに、翔太の顔から、しだいに表情が抜け落ちていった。
重機が、横転した。
平坦な、なんの障害物もない地面で、掘削機が、まるで巨大な見えない手に薙ぎ払われたかのように、横倒しになったというのだ。幸い、オペレーターは軽傷で済んだが、本人は青ざめて「何かに弾き飛ばされた」と震えるばかりで、要領を得ない。
それだけではなかった。
現場にいた作業員全員の腕時計と、重機の電子時計が、ことごとく止まっていた。スマートフォンも、その一帯では、申し合わせたように圏外になり、写真の一枚も撮れなかった。
「事故の原因は、調査中です。ですが、作業員たちが、ひどく怖えておりまして……『あの森には、何かいる』と。誰一人、現場に戻ろうとしません」
報告する職員の声も、震えていた。
翔太は、しばらく無言で、その報告を聞いていた。
論理で説明のつく事故だ、と頭の半分は言っていた。地盤のゆるみ、機械の整備不良、電磁波の異常。いくらでも理屈はつけられる。
だが、もう半分が、ざわついていた。
平坦な地面での横転。一帯の時計の停止。圏外。……それらが、すべて偶然、同じ日の、同じ森で、重なるものだろうか。
「市長」
職員が下がったあと、隣室から現れたかおりが、静かに言った。その顔は、いつもより、いっそう青白く見えた。
「申し上げたとおりになりました。土が掘られ、眠っていたものが、揺り起こされた。天羽の家が恐れていたのは、まさにこれです。……あの森は、自分の領域を侵す者を、拒んでいる」
「……偶然だろう」
翔太は、自分でも信じていない言葉を、口にした。
「重機の故障と、時計の電池切れと、たまたまの圏外。それが、重なっただけだ」
「では、市長。ご自分の目で、確かめにいらっしゃいますか」
かおりは、まっすぐに翔太を見た。挑むような、それでいて、どこか哀しげな目だった。
「百の理屈より、ひとつの実物です。あの森に立てば、あなたにも、分かる。論理では、説明のつかぬものが、この世には在るのだと」
*
翌日、翔太は公務の合間を縫って、かおりとともに、胡桃沢へ向かった。
黒塗りの公用車が、市街地を抜け、曲がりくねった山道を登っていく。窓の外の景色は、住宅地から田畑へ、田畑から雑木林へと、しだいに人の気配を失っていった。
やがて車は、開けた造成予定地に出た。重機が点々と放置され、横転した掘削機が、痛々しく横倒しのままだ。作業員の姿は、一人もない。
その奥に、それは在った。
胡桃沢の、祟り森。
周囲が無残に伐り拓かれた赤土の中に、そこだけが、ぽっかりと、緑の島のように取り残されている。背の高い木々が、互いに枝を絡め合い、内側を覗かせまいとするかのように、こんもりと茂っていた。
車を降りた瞬間、翔太は、奇妙な感覚に襲われた。
よく晴れた、初夏の昼下がりだった。なのに、その森に近づくにつれ、肌にまとわりつく空気が、しんと冷たくなっていく。蝉の声も、鳥の声もしない。風が、木々の梢を揺らすだけの、不自然なほどの静寂だった。
「……なんだ、ここは」
翔太は、無意識に声をひそめていた。
背筋に、ぞくりと、悪寒が走る。理屈ではない。生き物としての本能が、これ以上、近づくなと、警鐘を鳴らしていた。
ふと、腕時計に目をやると、針が、止まっていた。スマートフォンを取り出せば、案の定、圏外の表示。
「……電波もなし、時計も死亡。圏外保証つきの観光地ってわけか」
軽口を叩いてみたが、声が、わずかに上ずっていた。喉が、からからに渇いている。
その隣で、天羽かおりは、森を見上げて、立ち尽くしていた。
いつもの能面のような無表情が、わずかに、歪んでいた。それは、彼女が初めて見せる、何かに耐えるような、苦痛の色だった。だが、それは、未知のものに驚いている顔ではなかった。長く遠くから見張ってきたものに、ついに間近で対峙した者の、覚悟と、痛ましさの混じった表情だった。
「……これほどとは」
かおりは、かすれた声で呟いた。
「遠くから視ているのと、こうしてそばに立つのとでは、まるで違う。市長。この森の地中から、黒い瘴気が、渦を巻いて立ちのぼっている。天羽の家が、何代にもわたって視つづけてきたものは、これです。……ですが、こうして間近にしてみて、はっきりと分かりました。これは、ただの土地の念ではない。誰かが、強い意志をもって、ここに何かを、封じ込めている」
「封じ込めてる、ねえ」
翔太は、腕をさすった。初夏だというのに、鳥肌が立っている。
「うちの業界じゃ、そういうのは、たいてい都合の悪い数字を隠してる会社の話なんだがな。……まあいい。お前の言う『瘴気』とやらは、俺には見えん。だが、この寒気と、死んだ時計までは、否定のしようがない。それは認めるよ」
「ええ。呪いというより、結界に近い。何かを守るために——あるいは、何かを、決して外に出さぬために。誰かが、命がけで、ここに楔を打ち込んだのです」
かおりは、森の奥の、見えない一点を見据えた。
「天羽の覚書には、ただ『触れてはならぬ、深き呪い』とだけ記されていました。なぜ呪われているのか、誰が封じたのか、そこまでは、曽祖父にも視えなかったのでしょう。……その正体を、ようやく、この手で確かめられる」
「その楔が、地質調査で土を掘られ、緩みはじめている。だから、森が荒れ、災いが起きはじめた。……このまま開発を強行すれば、間違いなく、もっと大きな災いが起きます。死人が、出るかもしれません」
翔太は、ごくりと唾を呑んだ。
信じたくはなかった。だが、今、この森の前に立つ自分の身体が、止まった時計が、圏外のスマートフォンが、そして、平坦な地面で横転した重機が、すべて、かおりの言葉を裏づけている。
「……死人が出る、か」
翔太は、横倒しになった掘削機を、横目で見た。
「就任早々、工事現場で死人。記者会見で『祟りでした』とでも説明しろってか。それこそ、政治生命のほうが先に死ぬな」
冗談めかしてはいたが、その目は、笑っていなかった。
論理だけで生きてきた男が、論理の通じぬものを前にして、それでもなお、皮肉で己を支えようとしている。翔太にとって、軽口は、恐怖を呑み下すための、最後の砦だった。
「で、どうしろと。さっそくお祓いでもするか」
「調べるのです」
かおりは、静かに、しかし強く言った。
「この森に、誰が、何を、なぜ封じたのか。その正体を突き止め、正しく弔い、解き放ってやらねば、この土地は、永遠に安らがない。……五百億円の開発を進めるにせよ、やめるにせよ、まずは、ここに眠るものの『声』を、聴いてやることから始めねばなりません」
翔太は、横転した重機を、そして、緑の島のような祟り森を、もう一度、見渡した。
燃え尽きて、空っぽだったはずの胸の奥に、いつのまにか、これまで感じたことのない、ある衝動が芽生えていた。
知りたい。
この森が、何を抱えて、こんなにも、長いあいだ、たった一人で、泣いているのかを。
「……まあ、いいだろう」
翔太は、低く言って、口の端を歪めた。
「どうせ俺の任期は、暇を持て余すために始めたようなもんだ。五百億の箱を建てる前に、地主の正体くらい、挨拶に行っても罰は当たらん。……土の下のお客様が、何をそんなにご立腹なのか、聞いてやろうじゃないか」
それは、佐藤翔太という男が、燃え尽きた虚無から、ほんの少しだけ、こちら側へ戻ってきた——その、最初の一歩だった。
空を見上げれば、初夏の陽は、何事もないように、明るく照っている。だが、その光は、祟り森の梢に遮られ、地面までは、決して届いていなかった。




