第三話 はじめての仕事
市長というものは、思っていた以上に、人と会わねばならない職業だった。
就任から二週間、翔太は来る日も来る日も、応接室で頭を下げつづけた。商工会議所の会頭、農協の組合長、医師会の代表、町内会の連合会長——あかい市という小さな世界を、それぞれの縄張りで仕切ってきた顔役たちが、新市長の品定めにと、入れ替わり立ち替わりやってくる。
彼らの腹は、おおかた同じだった。逮捕された大野前市長との間で取り交わしてきた、暗黙の約束や利権が、この若造に引き継がれるのかどうか。それを探りに来ているのだ。
翔太は、そのすべてを、柔らかな笑みでいなした。
いや、正確には、隣室で控えるかおりの差配のとおりに、いなしていた。
「次にお越しになる、緑川建設の緑川社長は、前市長の時代に、市庁舎の補修工事を随意契約で受けていました。今日は、来年度の道路改修の話を、それとなく持ち出してくるはずです。確約は、絶対になさらないように。『議会と相談のうえ、公正な入札で』とだけ、繰り返してください」
応接室へ向かう廊下で、かおりはタブレットも見ずに、すらすらと耳打ちした。
はたして、緑川という脂ぎった初老の男は、世間話を装いながら、巧妙に来年度の予算へと話を滑らせてきた。翔太は、かおりの言葉どおり、人当たりのいい笑顔を崩さぬまま、「公正な入札で」の一点張りで押し通した。緑川は、最後まで笑顔だったが、帰り際の握手の力が、わずかに強かった。失望と、警戒の握手だった。
「……ふう」
客が辞した応接室で、翔太はソファの背に沈み込んだ。
「粘る、粘る。あの脂ぎった狸、世間話を三十分も続けて、結局ぜんぶ来年度予算の話に着地させやがった。営業力だけは、たいしたもんだ。うちで雇いたいくらいだよ」
「緑川社長は、前市長への政治献金の見返りに、十年で総額八億円ほどの公共工事を受注しています。その甘い蜜を、そう簡単には手放せないでしょう」
いつのまにか背後に立っていたかおりが、抑揚のない声で言った。
「ですが、市長。あなたは正しく振る舞われました。確約を与えず、かといって敵にも回さず、判断を先延ばしにした。あれでよいのです」
「先延ばし、か。商売なら、煮え切らん経営者の典型で、株主に吊るし上げられるやつだな。それが政治じゃ正解とは、笑える」
「政治とは、そういうものです。白黒をはっきりつけたがるのは、商売の世界の癖です。ここでは、灰色のまま、相手を泳がせておくことに、意味がある」
「灰色の沼で、溺れんように立ち泳ぎ、ね。……まあ、新しいスキルが身につくと思っときゃ、腹も立たんか」
翔太は、苦々(にがにが)しげに、しかしどこか面白がるように、鼻を鳴らした。
ITの世界では、勝つか負けるか、伸びるか潰れるか、答えはいつも明快だった。だが、この街の政は、はっきりしない灰色の沼の中で、誰もが足を取られぬよう、慎重に泥を踏んでいくような営みらしい。
(性に合わんな)
そう思いつつ、翔太は、灰色の泳ぎ方を、確実に覚えはじめていた。
*
最初の本格的な戦は、就任からひと月後の、市議会だった。
あかい市議会は、定数二十二。逮捕された大野前市長を担いできた旧与党の議員たちが、いまだ半数近くを占めている。彼らにとって、無所属でぽっと出の若造市長は、いずれ自分たちの言いなりにできる、御しやすい神輿のはずだった。
その筆頭が、議会のドン、長谷川副議長である。
白髪を几帳面に撫でつけ、地味だが上等な背広を着た、七十がらみの男だ。物腰は柔らかいが、その細い目の奥には、長年の権謀術数で研がれた、ぞっとするほど冷たい光がある。
最初の所信表明演説の場で、翔太がDX化による行政の効率化を打ち出すと、長谷川は穏やかな顔のまま、鋭い質問を浴びせてきた。
「市長の掲げる、その電子化とやら。聞こえはよろしいが、機械の操作に不慣れな、年寄りはどうなりますかな。役所の窓口に来れば、これまでは職員が親身に話を聞いてくれた。それを、冷たい画面ひとつで済ませようというのは、弱い者を切り捨てる、血の通わぬ政治ではないのですか」
もっともらしい、市民の味方を装った質問だった。傍聴席の年配者たちが、うんうんと頷く。
だが、翔太には、答えが用意されていた。前の晩、かおりが叩き込んでくれた答えだ。
「副議長のご懸念、まことにごもっともです」
翔太は、深々と頭を下げてから、よく通る声で続けた。
「ですから私は、窓口をなくすとは、一言も申しておりません。スマートフォンに不慣れな方のために、市内の全公民館に、職員が操作を手伝う『デジタル相談窓口』を新設いたします。むしろ、これまで足腰の悪さから役所まで来られなかったお年寄りこそ、近所の公民館で手続きが済むようになる。私の進める電子化は、弱い者を切り捨てるのではなく、これまで切り捨てられてきた方々に、手を差し伸べるためのものです」
議場が、わずかにどよめいた。
長谷川の細い目が、すっと細くなった。若造が、と侮っていた相手に、正面から切り返されたのだ。
「……ほう。それは、結構なことですな」
長谷川は、表向きは穏やかに引き下がった。だが、翔太は、その視線の温度が、明らかに下がったのを感じ取った。御しやすい神輿ではない。厄介な若造だ。そう値踏みし直す、冷たい目だった。
議会を終え、市長室に戻ると、翔太はネクタイを緩めて、ソファに深く沈み込んだ。
「……肩が凝った。腹に一物ある爺さん相手に、ニコニコ顔で腹の探り合い。会社の株主総会のほうが、まだ可愛げがあったね。あいつら、少なくとも数字で殴り合ってくれたから」
「お見事でした、市長」
かおりが、いつもの無表情のまま、ねぎらいともつかぬ言葉をかけた。
「長谷川副議長は、これであなたを、本格的に警戒しはじめます。御しやすい傀儡ではなく、自分の権力を脅かす者として。近いうちに、何らかの揺さぶりを仕掛けてくるでしょう」
「揺さぶり、か。就任ひと月で、もう敵を作ったわけだ。我ながら、敵を作る才能にだけは、恵まれてるな」
「ですが、それでよいのです」
かおりは、窓辺に立ち、暮れなずむあかい市の街並みを見下ろした。
「あなたが、ただの神輿に収まってしまえば、私の目的も、果たせなくなる。あなたには、自分自身の力で市政を動かせる、本物の権力を、握っていただかなくては」
「……ああ、その『目的』だ」
翔太は、ソファから、かおりの細い背中を見やった。
持ちつ持たれつ、と彼女は言った。土地に巣食う呪いを祓う、と。だが、その肝心の中身を、かおりはまだ、何ひとつ明かしていない。
「いいかげん、種明かしをしてもらおうか。お前の言う『呪い』とやらの正体は何だ。俺の権力を、いったい何に使う気だ。……まさか本気で、お祓い代を市の予算から出せ、なんて言い出すんじゃないだろうな。監査で一発アウトだぞ」
かおりは、しばらく黙って、窓の外を見ていた。
やがて、振り返らぬまま、静かに口を開いた。
「市長。あなたは、霊魂というものを、信じますか」
「これっぽっちも」
即答だった。
「俺はデータと論理しか信じない。お前の千里眼だって、どこかに種も仕掛けもあると、いまだに半分は疑ってる。……まあ、その種が高性能なら、それで構わんがね」
「結構です」
かおりは、ようやく振り返った。その顔は、夕日を背にして、半分が影に沈んでいた。
「信じていただく必要はありません。ただ——近いうちに、信じる信じないでは済まされぬものを、あなたは、その目で見ることになる」
その声には、いつもの冷たい無機質さとは違う、何か、ぞっとするような確信がこもっていた。
「このあかい市には、人の手では、どうにもならぬものが、いくつも眠っています。土地が、覚えているのです。そこで流された血や、果たされなかった願いや、晴らされなかった無念を。人は忘れても、土地は忘れない。そういう場所が、この街には、確かに在る」
翔太は、思わず黙り込んだ。
馬鹿げた話だ、と切り捨てようとした。だが、かおりの瞳の底にある、揺るぎない何かが、その言葉を喉の奥で引っかからせた。
「……そのうちのひとつが、近々、動きます」
かおりは、静かにそう告げた。
「市の北のはずれ、胡桃沢という土地。そこで、市の事業として、ある大きな計画が進もうとしている。あの土地に、人の手が入る。……そうなれば、長く眠っていたものが、目を覚ます」
胡桃沢。
翔太の記憶の片隅に、その地名は、ぼんやりと引っかかっていた。確か、就任早々に決裁の書類が回ってきた、巨大な開発計画があったはずだ。
「あの、五百億のデータセンターの予定地か」
「ええ」
かおりは、深く頷いた。
「あそこに、あなたと私で、行かねばなりません。市長という、立ち入る大義名分を持つ者として。……そして、私の能力をもって、土地が覚えているものの正体を、見極めるために」
翔太は、椅子の背に身を預け、低く唸った。
オカルトなど、信じてはいない。だが、退屈で死にそうだったこの市長の椅子に、初めて、得体の知れぬ何かが、引っかかってきた。
暇つぶし、と言うには、いささか不穏な何かが。
「……まあいい」
翔太は、口の端を、わずかに吊り上げた。それは、燃え尽きていたはずの男の顔に、久しぶりに浮かんだ、好奇心の色だった。
「五百億の投資先を、市長みずから視察に行く。名目としちゃ、上等だ。……お前のオカルトが本物か、ただの手の込んだ手品か。この目で、確かめさせてもらおうじゃないか」




