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あかい市の市長、探偵になる ― 胡桃沢編 ―  作者: エリト


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第十八話 鎮守の森

胡桃沢の呪いが解けて、あっという間に数日が過ぎた。

森の空気は見違えるように変わっていた。あれほど人を冷たく拒んでいた不気味な静寂は嘘のように消え去り、今では枝先で鳥がさえずり、明るい木漏れ日が地面の草花までしっかりと届くようになった。あかい市の人々もその変化を感じ取り、口々に「祟り森の祟りがついに解けたらしい」と不思議そうに囁き合った。


だが、翔太の机の上には、ひとつだけどうしても片付かない大きな問題が残っていた。


「市長。ひとつ、申し上げなければならないことがあります」

ある晴れた朝、市長室でスケジュールを確認していたかおりが、静かに切り出した。

「あの胡桃沢の土地には、鎮守(ちんじゅ)の儀式が要ります」


「鎮守?」

「ええ。呪いは確かに解けました。ですが、それで完全に終わりというわけではないのです。あの地で犠牲になった子らを悼み、せっかく安らいだ御霊たちをふたたび現世に惑わせぬよう。……小さな(ほこら)を建て、土地をきちんと自然の理へお還しする。それをしなければ、胡桃沢は本当の意味で安らがないのです」


「……祠か」

翔太は椅子に深くもたれかかり、窓の外の晴れ渡った空を見上げた。


その脳裏で、総額五百億円の巨大なデータセンター計画が嫌な音を立てて軋んだ。

最先端のサーバーが並ぶ、巨大なコンクリートの無機質な建造物。それを、あの命が巡る森を切り拓いて建てる。


翔太の頭に真っ先に浮かんだのは——あの哀しい男、仁科清一郎のことだった。

故郷の村をダムの底に奪われた。妻を戦争の毒に奪われたと信じ込んだ。子らを自らの狂った手で失った。奪われて、奪われて、すべてを失った男が最後にすがった、たったひとつの場所。それが、あの胡桃沢の森だったのだ。

その森を削り取り、今度は自分が——五百億の利益のためにコンクリートの箱を建てて。またあの男から、最後の拠り所まで奪い取るというのか。


「……無理だな」

翔太はぽつりと、本音を漏らした。

「あそこにでかい箱を建てるのは。……あの森は、何もかも奪われ続けたあの男の、最後の場所だ。死んで安らいだ後にまでその場所を奪うってのは、いくらなんでも寝覚めが悪すぎる」


五百億の計画の白紙撤回。それは実質的に、彼が経営者として敗北を宣言するのに等しい。乗り気になっている誘致企業との違約金交渉。議会への頭を下げての謝罪と説明。あの長谷川副議長たちからの容赦ない追及。想像するだけで胃のあたりが痛くなる。

だが、不思議と胸の奥は全く痛まなかった。


「あの森をコンクリートで塗り固めるなんて。……今さら、できやしない。あれだけの魂の叫びを見ちまったあとで、知らん顔なんてな」


「市長……」


「ただ、困ったな」

翔太はがしがしと頭を掻いた。

「データセンターの誘致は、過疎に悩むあかい市の長年の悲願だからな。莫大な雇用も、税収もかかってる。それをただ感情論で白紙に戻すわけにはいかない。代わりの目玉政策なんて、俺の手元にはないし。……市長として、いったい何を市民に出せばいいんだか」


答えはすぐには出なかった。

その夜、翔太は一人で市長室に残り、腕を組んで考え込んでいた。


机の上には、森の美しい写真が広げられている。

声も立てず、ただ静かに空を見上げていたという十人の子供たち。長野から夫婦の言葉を信じてついてきて——救われたはずの場所で、救われずに散っていった小さないのち。


(……俺も、同じだったな)

翔太はふと、過去の自分を重ね合わせた。

若くしてすべてを手にし、そして一瞬ですべてを失った。居場所をなくして、この見知らぬ街に逃げるように流れ着いた。そのまま静かに消えてもおかしくなかった。だが、運良く消えなかった。仁科のように狂気に呑まれ、壊れることもなかった。


(なら、せめて——生き残った俺にできることは何だ)


その、瞬間だった。

とうの昔に燃え尽き、灰になったはずの起業家としての脳の奥で。

まったくふたつの異質なものが、激しく火花を散らして結びついた。

論理と非論理。最先端のテクノロジーと、古い祈り。経営者としての冷徹な計算と、巫女がもたらした魂の真実。


(……そもそも、あの森を切り拓く必要が、どこにあったんだ?)


「……森には、一切手をつけなきゃいいんだ」

翔太は弾かれたように椅子から立ち上がった。


「あの祟り森は、まるごと保全する。木一本、草一本も伐らない。巨大なサーバー群は、森から離れた目立たない隣の谷あいに、低層の棟をひとつだけ造る。地形に合わせて地面に埋めるみたいに建てれば、景観も自然の生態系も崩れない……!」


翔太の目に、かつてのシリコンバレーを渡り歩いた起業家の、ぎらついた鋭い光が完全に戻っていた。だが、それは以前の虚しい闘争心とは違った。もっと温かく、確かな未来に向かう創造の光だった。


翌朝。

翔太は出勤してきたかおりの前に、一枚の大きな構想図をばさりと広げた。興奮のあまり徹夜で一気に描き上げたものだった。


「この計画の肝は二つ」

翔太は目を輝かせて言った。

「ひとつ。祟り森には絶対に手をつけない。サーバーの棟は森を完全に避けて、隣の使われていない谷の窪地に集約する。豊かな森林をそっくりそのまま残したまま運用する。……それだけで、『原生林を一切伐採しない、究極のエコ・データセンター』っていう、世界に通用する看板になる」


翔太は構想図の、青く塗られた川の部分を力強く指した。

「ふたつ。サーバーの冷却には、近くの川の冷たい水を引いて使う水冷方式を採用する。そして、そこから出る排熱は絶対に捨てず、近くの農業ハウスに回すんだ。そうすれば、雪の降る冬でも温かいハウス栽培ができる。……電気を無駄に垂れ流すただの箱じゃない。森と、川と、畑と、人間の営みがぐるりと循環する。そういう、生きたデータセンターだ」


かおりは驚いたように、しばらくその詳細な構想図をじっと見つめていた。

「……そして、市長」

やがて、彼女はゆっくりと顔を上げた。

「あの森には——小さな祠をひとつ。それを私の儀式で清めさせてください」


「祠を、ひとつ」


「ええ。鎮守の祠として。犠牲になった子らを悼み、土地の御霊を鎮めるための。……ただし」

かおりはわずかに寂しげに目を伏せた。

「そこに(まつ)る精霊は、もういません。あの子らはいのちを絞り尽くされ、すべて犠牲になり、そして安らかに奥山へ還りました。ですから、これは——(から)の依り(しろ)なのです」


「空の、依り代」

「ええ。失われた過去のものは、どうやっても戻りません。それはもう、絶対に取り返しがつかない。……ですが」

かおりの澄んだ瞳に、かすかな希望の光が宿った。


「いつか。この保全された森が、数十年、数百年かけて本当の豊かさを取り戻したとき。新しいいのちが——新しい森の精霊が、再びこの地に宿れるように。その日のための、空の住み処を。あらかじめ用意して、待っておくのです」


翔太はその静かな言葉を、黙ってじっと聞いていた。

取り返しのつかない失ったものを悼み。けれど、まだ見ぬ未来を決して諦めない。

犠牲になった子らへの悲しい鎮魂と。いつか来るかもしれない新しいいのちへの、前向きな祈りを。たったひとつの小さな祠に込める。


「……ああ。それでいいと、俺も思う」

翔太は深く、納得したように頷いた。

「失くしたものは戻らない。でも——新しく迎える支度くらいは、俺たちにもしてやれる。それが、生き残った側のせめてもの仕事だよ」


かおりは、翔太のまっすぐな目を見た。

その能面のような美しい顔に、ほんのわずか——嬉しそうな微笑みに似た何かがよぎった。


「市長。あなたは本当に、変わられましたね」

「……それ、言うの二回目だぞ。柄にもなくて照れるから、いい加減やめてくれ」


翔太はぶっきらぼうに言って、徹夜で描いた構想図をくるくると丸めた。

その横顔には、もう心の隙間を埋める虚無も、暇つぶしの退屈も微塵もなかった。

そこにあったのは——彼自身が久しく忘れていた。ゼロから何かを創り出すことの、純粋で圧倒的な高揚感だった。


「……さて、クソ忙しくなるぞ」

翔太はネクタイを締め直し、不敵に笑った。

「五百億の従来計画を根底からひっくり返して、文句を言う誘致企業を口説き落として、頭の固い議会を完全に黙らせる。……久々に、俺の本業の出番だ」


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