第十七話 赦しではなく
かおりの透き通るような祈りが、夜明け前の森に静かに響く。
それはもはや、神に捧げる古い祝詞ではなかった。傷ついた子を優しく寝かしつける子守唄のような、限りなく温かく、そして底抜けに哀しい調べだった。
「——還れなかった、幼き御霊たちよ」
かおりは地の底で泣き叫ぶ十の悲鳴に、慈しむように語りかけた。
「あなたたちは……決して守られていたのではありませんでした。あなたたちの清らかないのちは、別のいのちを永らえさせるためだけに、一方的に使われた。長野の美しい森を追われ、ここまで無理に連れてこられて。ここなら安らげると信じた、その暗い土の底で」
ぽろぽろと涙を流しながら、かおりは言葉を紡ぎ続ける。
「それでも。森の奥で声を立てることもなく、ただ静かに空を見上げていたあなたたちの優しさは。あの悲しい別れの日に、冷たい手を差し出して彼を信じたあなたたちの純粋な信頼は……間違いなく本物でした。誰のどんな罪によっても、何ひとつ汚れてなどいない」
地の底で暴れていた悲鳴が——その言葉に触れ、わずかに和らいだ。
いたい、くるしい、とただ機械のように繰り返していた声が。半世紀の時を経て、初めて誰かにその痛みを理解し、聴いてもらえたかのように。
「今度こそ、あなたたちをお還しします。もう誰の贄でもない。誰の身勝手な道具でもない。……あなたたち自身の、本当の安らぎへ。長野のあの清らかな森へ。あなたたちの帰るべき奥山へ」
子らの悲痛な悲鳴が、ひとつ、またひとつと——安堵のすすり泣きに変わり、やがて安心しきった安らかな寝息のように静まっていく。
次に、かおりは重く淀んだ夫婦の念へと向き直った。
「——重い病に伏せった、佐和子よ」
かおりの声が、同情に湿った。
「あなたは本当に何も知らされないまま、ただ無理に生かされた。真実に気づいたときには、もう何も止められなかった。あなたの細いいのちを繋いだものが、いったい何であったか。……あなたもまた、一方的に何もかもを奪われた哀れなひとり。子らを我が子のように慈しんだあなたが、いちばん残酷に真実から遠ざけられていた」
佐和子の念が、泣き崩れるように哀しげに揺れた。
「あなたを責める者は、ここには誰もいません。どうか、安らかに」
そして——最後にいちばん難しく、重い祈りが残った。
かおりは言葉に詰まり、唇を噛んだ。
仁科清一郎。愛する妻のために十のいのちを非情に奪った男。だが、それゆえにすべてを失い、世界を呪いながら死んでいった哀しい男。
彼を赦すことも、一方的に断罪することも——神の使いである彼女には、どうしても紡げなかった。
「……市長」
かおりが祈りの姿勢を保ちながら、かすれた声で言った。
「あなたの言葉を。……同じくすべてを失い、虚無を知る者としての、あなたの言葉を彼に」
翔太はかおりの後ろで、静かに冷たい土の上に膝をついた。
地の底に深く眠る見知らぬ夫婦と、その手にかけられた幼い魂たちに向かって、ゆっくりと口を開く。
「……あんたの狂おしい気持ちは、痛いほどわかる気がするんだ」
翔太の声は、飾り気のない、ひどくぎこちないものだった。
「故郷も家族も全部奪われて。何もかもがどうでもよくなる、あの真っ暗な感じ。……俺も、一度全部失った口だ。自分が立ち上げた会社も、信じていた仲間も、生きる意味も。俺は金でその虚無から逃げた。あかい市の市長なんていうのも、ただの暇つぶしだった。そうやって逃げて、逃げて、逃げつづけた」
翔太は地面を——その内側に未だ渦巻く清一郎の気配を、鋭く見据えた。
「あんたは逃げなかった。愛する人のために、自分のいちばん大事なものを賭けた。……でも、その美談の下に。あんたが身勝手に消したいのちが、ちゃんとそこにある。十人。長野からあんたの言葉を信じて、ここまでついてきたあの子らだ」
翔太はひとつ、深く息をついた。
「ただ逃げただけの俺に、あんたを偉そうに責める資格はない。同じ虚無を知ってるから。……でも、あんたの罪を許す資格もない。俺が失くしたのは自分のものだけだ。でもあんたは、他人のいのちを奪ったんだから」
翔太は静かに、しかし断固として続けた。
「だから、絶対に赦しはしない。あんたの絶望を理解だけ、する。……その上で、最後に頼みがある」
翔太の声が、わずかに和らいだ。
「もう、連れていってやってくれ。奥さんも。あんたが消した子供たちも。全部その腕に抱えて。一人で背負った気になって、闇の中に逃げるな。半世紀も重い罪を抱え込んで……もう、十分に苦しんだだろう。今度こそ、みんなと一緒に安らかに眠ってくれ」
その、瞬間だった。
地の底の深い闇から——押し殺したような、男の号泣のすすり泣きが聞こえた。
半世紀以上、憎しみと自己欺瞞の分厚い殻に閉じこもっていた一人の男の魂が。
翔太の不器用な言葉を受け、ようやく自らが奪ったものの重さを——真正面から引き受けたのだ。
現実から逃げることを、やめた。
大地が、静かに震えた。
木々を覆っていたどす黒い瘴気が、外側も内側も、すべて一気にほどけていく。
戦災死者の無念も。犠牲になった子らの悲鳴も。真実を知った妻の哀しみも。そして、夫の深すぎる罪と絶望も。
そのすべてが夜明けの最初の光の中に立ちのぼり、ゆっくりと朝露のように溶けていった。
東の空が、白々と明けていく。
半世紀以上も固く閉ざされ、暗闇の中で泣きつづけていた呪われた森が——ようやく、その長く苦しい嗚咽を終えた。
森に、本当の朝が来た。
どこか遠くで、小鳥がちゅんちゅんと鳴いた。
この森では半世紀ぶりに響く、生き物の声だった。
それに呼応するように、蝉が鳴きはじめた。
爽やかな朝の風が梢を揺らし、心地よい葉擦れの音がさらさらと森全体を満たしていく。
それは——死の気配など微塵もない、生きた自然の森の音だった。
翔太とかおりは、しばらくの間、光に包まれたその朝の森の中で無言で立ち尽くしていた。
かおりの白い頬には、まだうっすらと涙の跡が残っていた。だがその表情は——長年背負ってきた憑き物が落ちたように、どこまでも穏やかだった。
「……終わった、のかな」
翔太が眩しそうに目を細めて呟いた。
「ええ」
かおりは静かに頷いた。
「すべての声が、ようやく安らぎました。……夫婦も、子らも、戦災の御霊も。半世紀の時を越えて、ここから完全に解き放たれたのです」
翔太は朝日に黄金色に照らされた、桂のご神木を見上げた。
その巨大な老木は、もう人を寄せ付けない禍々しさをまとってはいなかった。ただ静かに、生命力にあふれた朝の光を浴びて堂々と佇んでいた。
「……お前、さっき祈りながらちょっと泣いてただろ」
翔太は緊張が解けたように、ふっと笑った。ここ数日見たことのない、心からの穏やかな笑みだった。
「珍しいこともあるもんだ。血も涙もない、からくり人形が」
「……見間違いです。朝露が落ちただけです」
かおりはぷいと顔を背けた。だが、その白い耳の先がわずかに赤く染まっていた。
翔太は声を上げて小さく笑った。
朝の森に、二人の穏やかな声が心地よく響いた。
悲しみと呪縛に満ちた長い長い夜が——ようやく、完全に明けたのだった。




