第十六話 鎮魂
本格的な鎮魂の支度には、数日を要した。
かおりは天羽の家に代々伝わる古い作法に従って厳重に身を清め、神事に必要な供物を静かに整えた。翔太はその間、市長の強権を使い、胡桃沢一帯への立ち入りを無期限で禁じた。地質調査は全面ストップ。五百億の開発計画そのものが完全に宙に浮いた形となったが、今の翔太には、そんな巨額の事業よりはるかに優先すべき使命があった。
そして、ついにその日が来た。
夜明け前の、空がいちばん暗く沈む刻限。
翔太とかおりは、ふたたび胡桃沢の祟り森へ深く足を踏み入れた。
森は、これまででいちばん荒れ狂っていた。
たび重なる侵入。重機によって地中を掘り返されたこと。森は半世紀の静かな眠りを破られ、激しくおののき、怒り、狂ったように泣いていた。風もないのに太い木々が不気味に軋み、唸り声を上げる。地の底から、無数の声にならぬ怨嗟の声がどろどろと湧き上がってくるようだった。
「市長。私のそばを絶対に離れないでください」
かおりが緊迫した声で低く言った。その両手には、青銅の古い水鏡が握られている。
「これから結界を根本から解きます。三重に複雑に絡んだ念を、すべてほどく。……生半可なことではありません。私の身に万が一何が起きても——あなたは決して逃げず、最後まで見届けてください」
「……おい。何が起きてもってのは、随分と穏やかじゃないな」
翔太は努めて軽口を叩こうとした。だが、その声は隠しきれず震えていた。
かおりは答えなかった。ただ、あの巨大な桂のご神木の根方、夫婦の遺体が折り重なるように眠るその真上に歩み寄り、静かに膝をついた。
そして青銅の水鏡を両手で高く捧げ持ち、ゆっくりと目を閉じた。
かおりの祝詞が始まった。
低く澄んだ、それでいてどこか途方もなく哀しい調べが夜の森に響き渡る。
森がその声に応えるように、ざわざわと激しくざわめいた。
まず、いちばん外側を覆っていた念——戦災死者たちの怨念が、少しずつほどけはじめた。
かおりの周りの空気が、熱を帯びた陽炎のようにぐにゃりと歪む。翔太の耳の奥に、半世紀前の忌まわしい空襲の轟音や、炎から逃げ惑う人々の悲鳴が、生々しい幻のように聞こえた気がした。
「——理不尽に命を奪われた、尊き御霊たちよ」
かおりが、天空に向かって優しく語りかける。
「あなたたちの深い無念は、戦がもたらしたもの。この森に無理やり繋ぎ止められるいわれは、どこにもない。……ひとりの男の身勝手な絶望に利用されただけです。もう、この暗い場所に留まる必要はありません。どうか——本来あるべき安らぎの地へ、お還りください」
森の上空で、重く淀んでいた何かがふっとほどけ、薄れ、天へとまっすぐに立ちのぼっていく。
数百の戦災死者の怨念。それが半世紀ぶりに呪縛を解かれ、ゆっくりと白み始めた空の彼方へ、安らかに消えていった。
外側の分厚い層が消えた。
その下から——どろりとした夫婦の哀しみの念が剥き出しになって現れる。
「市長。ここからです」
かおりの青白い額に、玉のような汗がびっしりと浮かんだ。
彼女は夫婦の念のさらに奥深く——あの内側に隠された、幼い悲鳴へと極限まで意識を向けた。
その瞬間。
森全体が、引き裂かれるように絶叫した。
地の底からどす黒い瘴気が間欠泉のように噴き上がり、同時に——あの幼く清らかな、けれど無惨に引き裂かれたような無数の悲鳴が、物理的な音圧となって森じゅうに響き渡った。
「……っ、これは」
翔太はあまりの痛切さに、思わず両耳を塞いでうずくまった。
声が聞こえる。はっきりと、脳に直接響くように。
幼い、無垢な子供たちの声。
——いたい。
——くるしい。
——どうして。
——とうさま。かあさま。どうして、こんなこと。
翔太の全身の産毛が総毛立った。
理不尽に犠牲にされた十の子らの。命の最後の一滴まで絞り尽くされた、その絶望の最期の叫び。それが半世紀ものあいだ、暗い地の底で誰にも届くことなく、消えずに渦巻きつづけていたのだ。
「かおり! 大丈夫か!」
翔太が叫んだが、かおりは応えなかった。
いや、圧倒的な力に押されて応えられなかったのだ。
彼女はその十の鋭い悲鳴を——逃げることなく、己の身ひとつで真正面から受け止めていた。神の使いとして感情を殺し、常に空の器であることを己に課してきたその細い身に。子らの想像を絶する苦痛と、信じていた者に裏切られた底なしの哀しみのすべてを。
かおりの白い頬が——苦痛に耐えかねたようにわずかに歪んだ。
からくり人形のように徹底して無表情だったあの娘の目元が、かすかに濡れていた。
「……ひどい。こんなに小さな、無垢ないのちを」
かおりの声が、激しく震えた。声を殺し、必死に湧き上がる己の感情を抑え込みながら。
翔太は、初めて見るかおりの人間らしいその表情に息を呑んだ。
だが、恐れを振り払い、すぐに彼女の傍らに歩み寄って膝をついた。
「かおり。しっかりしろ。お前がその悲しみに呑まれたら、いったい誰がこの子らを弔うんだ」
力強いその声に、かおりの涙で潤んだ瞳がわずかに焦点を結び、光を取り戻した。
「……市長」
「俺も聴く。逃げずに一緒に聴く。だから祈りを続けてくれ。この子らを——今度こそ、還してやろう」
翔太は、小刻みに震えるかおりの華奢な肩に、しっかりと両手を置いた。
その不器用な温もりに触れ、かおりは深く震える息を吸い込んだ。
そして——三層目のいちばん深い闇に向かって、祈りを始めた。
暗闇の中で犠牲にされた子らへの。
その半世紀の間、誰にも聴かれることのなかった孤独な悲鳴への、世界で初めての応答を。




