第十五話 愛という名の罪
翌日、翔太は重い扉を閉ざした市長室に、終日こもっていた。
予定されていた公務はすべて、かおりが適当な理由をつけて先送りにした。今の翔太に、市政の細々とした日常の仕事をこなせるような精神状態ではなかったのだ。
彼はあの色褪せた家族写真を机の真ん中に置き、ただじっと見つめつづけていた。
「……わからない」
乾いた唇から、ぽつりと翔太は言った。
「わからないですよ。なんで、そこまでした。十の無垢ないのちを犠牲にして。それでも妻は——結局、死んだ。あまりにも割に合わなすぎる」
「ええ」
かおりは静かに、だがはっきりと答えた。
「診療所の記録は、二年と数ヶ月で完全に途絶えています。十の子らをすべて使い尽くしても——佐和子の命は助からなかった。白血病という病は、容赦がありません。一時の延命はできても、決して根治はできなかったのです」
「じゃあ、あの人は」
翔太の声が、地の底を這うように低くなった。
「十の子らを犠牲にして、その手を血で染めて。それでも最愛の妻も失った。……結局、何も残らなかったってことか」
「そうです」
かおりは窓辺に立ち、分厚いガラス越しにあかい市の街並みを見下ろした。
「想像してみてください、市長。長野で故郷の村を追われ、神の子らだけを最後の希望にしてこの地へ逃げてきた。そしてようやく、ささやかだけれど確かな平穏を築いた。それなのに——自分の命より大切な妻が、不治の病に倒れた」
かおりの声は淡々としていたが、その奥には深い哀れみが滲んでいた。
「目の前で、愛する妻がじわじわと死んでいく。そして手の届くところに、その死をわずかでも遠ざける手段がある。森の子らの、純粋ないのち。……あなたなら、どうしますか」
翔太は答えられなかった。
かつて自分の会社が傾いたとき、自分は真っ先に自分の身の安全と利益を考え、逃げ出した。そんな利己的な自分に——愛する者のために狂い、子らを犠牲にした男を一方的に責める資格があるのだろうか。
「最初は、ほんの出来心だったのかもしれません」
かおりは窓の外を見たまま続けた。
「一体だけ。ほんの数ヶ月だけ、妻との永遠の別れを先延ばしにできるなら、と。……ですが、一度でもその禁断の力に手を染めてしまえば。残された妻の命が再び尽きかけるのを見れば。また、もう一体。あと、もう一体、と」
「……地獄の坂道だな」
「ええ。狂気に呑まれ、気づいたときには十の子らはすべて消えていた。そして、あれほど罪を重ねたにもかかわらず、妻は死んだ。……仁科清一郎の手には、最後に何が残ったと思いますか」
翔太は痛みに耐えるように目を閉じた。
冷たくなった愛する妻の亡骸。
自らの手で無惨に殺めた、十の子らの亡骸。
そして、永遠に取り返しのつかない重い罪の意識。
「……壊れますよ、それは」
翔太は低く、吐き捨てるように言った。
「誰だって壊れる。まともな神経で生きていけるわけがない」
「ええ。彼はとうに壊れていました。妻の病を戦争のせいだと思い込んだあたりから、じわじわと。……そしてその極限まで壊れた心のまま子らに手をかけ、そして、ついに妻も失った」
かおりはゆっくりと振り返った。
「最後に彼の血塗られた手に残ったのは。妻の亡骸と、自ら手にかけた十の子らの亡骸と。そして、この胡桃沢の森だけでした」
「森、だけ……」
「ええ。故郷の村は、巨大なダムに奪われた。妻は、戦争(と彼が固く信じたもの)に奪われた。子らは、自らの愚かな手で失った。……もう彼に残されたものは、この世に何もなかった。たったひとつ、このちっぽけな森を除いては」
かおりの声が、静まり返った部屋に響いた。
「妻と子らが眠るこの森。それだけは——もう絶対に誰にも奪わせない。国にも、世間にも、冷酷な開発にも。何ものにも二度と踏み込ませない。……その狂気じみた一心で。壊れた心のありったけの力で、彼は強固な結界を張ったのです」
「だから、関係のない戦災の念まで呼び寄せて」
「ええ。同じく理不尽にすべてを奪われた者たちの行き場のない念を、無理やり束ねて。……すべては守るための結界でした。ただし、生きている子らを守るのではなく。子らと妻の亡骸が眠る、この最後の自分の場所を。これ以上、何も奪われないために」
かおりは哀しげに目を伏せた。
「完全な狂気の産物です。だからこそ——あれほどまでに強く、おぞましい結界になった。半世紀もの間、どんな力を持った者にも解けぬほどに」
市長室に、息苦しいほどの長い沈黙が落ちた。
翔太は机の上の家族写真をもう一度見つめた。
幸せそうに笑う夫婦。その傍らで寄り添う、儚げな子供たち。
「……許せはしない」
やがて、翔太は奥歯を噛みしめながら低く言った。
「子らを犠牲にしたことは。十の罪のないいのちを、自分の勝手な都合で奪ったことは。どんな同情すべき事情があろうと、それは絶対に間違っている」
「ええ」
「でも」
翔太は少し口ごもった。
「でも、あの人をただ憎む気には……どうしてもなれない。なんでだろうな」
翔太は写真の中の、清一郎の不器用な笑顔を見つめた。
「故郷を奪われて。妻を奪われると思い込んで。最後の希望にすがって、その希望ごと自分で握り潰して。それでも結局、何も守れなかった。……その底知れない絶望は、なんとなく痛いほどわかる気がする。俺も、理由は違えど、全部失った口だから」
翔太の声は淡々としていた。だがその奥には、確かな同情と共感が滲んでいた。
「俺は逃げただけだ。金で心の虚無を埋めて、市長なんて暇つぶしで自分を誤魔化して。……でもあの人は逃げなかった。愛する人のためにいちばん大事なものを賭けて、そして全部失くした。ただ逃げただけの俺に、あの人を一方的に責める資格なんて、あるかよ」
「市長……」
「加害者だよ。間違いなく。でも同時に——救いようがないくらい哀しい、被害者でもある」
翔太は写真をそっと机の端に置いた。
「人間って、こんなに簡単に加害者にも被害者にもなれるんだな。……たったひとつの、不器用な愛のために」
かおりはその翔太の横顔を、じっと静かに見ていた。
いつもの冷たい能面のような表情が、ほんのわずかに——人間らしく和らいでいた。
「市長。ひとつ申し上げてもよろしいですか」
「なんだ」
「あなたは、本当に変わられました」
かおりは静かな声で言った。
「私がこの市長室で初めてお会いしたとき。あなたは中身のない空の器でした。何も信じず、何にも心を動かさない。……ですが今のあなたは、見ず知らずの半世紀前の人間の苦しみに、こんなにも深く心を寄せている」
翔太はばつが悪そうに肩をすくめた。
「……柄にもないのは、自分でもわかってるよ」
「いいえ。それが人としてまっとうな姿です」
かおりはわずかに目を伏せた。
「私は——神事に仕える者として感情を殺すことで、自らの力を保ってきました。ですからあなたのそのまっすぐさが……少し、羨ましい」
それは、このからくり人形のような無機質な娘が初めて口から漏らした、血の通った本音のようだった。
二人のあいだに、奇妙にあたたかな沈黙が流れた。
やがて翔太は顔を上げ、机の上の写真を内ポケットに大切にしまった。
「……決めた」
「市長?」
「弔おう。あの呪われた森を」
翔太の目に、新しい強い光が宿っていた。かつての虚無でも、無責任な好奇心でもない。市長としての、そして一人の人間としての確かな覚悟の光だった。
「狂った夫婦も。犠牲になった子らも。無理やり巻き込まれた戦災の人たちも。……全部まとめて、俺が弔う。誰かをただ憎んだり、善悪で裁いたりするだけじゃ、あの森はいつまでも安らがない。違うか」
「……ええ」
かおりは深く、同意するように頷いた。
「それができるのは——あなただけかもしれません。加害者の絶望も、被害者の無念も。その両方に深く心を寄せられる、あなただけが」
翔太は窓の外の、あかい市の街並みを広く見渡した。
半世紀以上、たった一人で暗闇の中で泣きつづけてきた森。
その長く苦しい嗚咽を——今こそ終わらせるときが来たのだ。
「……鎮魂の支度をしてくれ」
翔太は静かに、だが力強く言った。
「あの森のすべての声に。——今度こそ、ちゃんと応えてやろう」




