第十四話 数えてはいけない数
その夜、窓の外にとっぷりと日が暮れてもなお、翔太は一人、静まり返った市長室に残っていた。
明日、ふたたび胡桃沢のいちばん奥へ入る。その前に、これまで集めたすべての断片を、もう一度頭の中で整理し、並べ直しておきたかったのだ。
それは彼が長年培ってきた経営者としての癖だった。重大な決断を下す前には必ずすべてのデータを机の上に広げ、あらゆる角度から矛盾を洗う。
翔太はキャスター付きのホワイトボードを、手元へと引き寄せた。
そこに、これまでの調査で得た事実を書き出していく。
仁科夫婦。長野の嶽の村。神の子ら十人。ダムからの過酷な逃避行。胡桃沢でのつかの間の平穏。妻・佐和子の発病。そこから豹変する夫。薄れる子らの影。戦災死者の怨念。心中。そして——内側の、悲鳴。
書き出した言葉の間に矢印を引き、線で結んでいく。
経営の現場で何万回と繰り返してきた、慣れ親しんだ作業だった。ばらばらの数字や事象の中から、たったひとつの隠された真実を炙り出す。
だが——どうしても繋がらない一点が、そこにはあった。
(妻の白血病……二年以上の延命)
翔太は机の上の、診療所の記録の写しをじっと見つめた。
保って数ヶ月。当時の医師ははっきりとそう告げた。それなのに、佐和子はそこから二年以上も生き永らえた。当時の医学の水準を考えれば、絶対にあり得ないことだ。
(何かが、彼女を生かしていた。……何かが)
マーカーを握る手が、ふいに止まった。
ふと、視界の端で別の記録に目が留まる。山田老人の証言を書き留めた、走り書きのメモだ。
——妻が病に倒れたころから、子供たちの影が薄くなった。透き通るように。陽に溶けそうに。前にも増して、はかなく。
翔太の心臓が、どくり、と嫌な音を立てて鳴った。
妻が病に倒れたころから。
子供たちの影が、薄くなった。
(……待て)
さらに別のメモを引き抜く。河野老婆の重々しい証言。
——神の子らは土地のいのちの化身。森の生命力そのもの。
翔太の頭の中で、これまでまったくばらばらだった点と点が——音もなく、一本の太く黒い線で繋がりはじめた。
(生命力。……いのちの、化身)
翔太はホワイトボードの前に、言葉を失って立ち尽くした。
全身からすーっと血の気が引いていくのがわかる。指先が急激に冷たくなった。
(まさか)
手が小刻みに震え出した。
翔太はもう一度、すがるような思いで診療所の記録を掴んだ。最初の絶望的な診断の日付。そして、最後の往診の日付。そのあいだの期間——二年と数ヶ月。
次に、別の紙を乱暴に引き寄せる。山田老人が語った、子供の数だ。
——十人。十人いた。
翔太は震える指を折りながら、頭の中で恐ろしい計算を始めた。
もし。
もし、あの神の子らが——森の生命力そのものであるなら。
その純粋ないのちを、ひとつ、またひとつと使えば。
不治の病に冒された妻を、その分だけ——この世に生き永らえさせることができるとしたら。
(……一体で、数ヶ月。十体、いれば)
二年と、数ヶ月。
医師が「あり得ない」と断言したその延命の長さが——犠牲にされた子らの数と。
あまりにも残酷なほど、ぴたりと一致した。
「……っ」
翔太の口から、無意識のうちに呻きが漏れた。
ホワイトボードに向かい、震える手で一本の太い矢印を引く。
「神の子ら」から、「妻・佐和子」へ。
その矢印の真ん中に書き添えた、たった一文字。
——「贄」。
「……そういうことか」
翔太は膝の力が抜け、背後の椅子にどうっと崩れ落ちた。
しばらくの間、声が出なかった。
仁科清一郎は——神の子らを、自然の理に従って奥山へ還してなどいなかったのだ。
愛する妻を、一日でも長く生かすために。
ダムの底に沈む村から、自らの命がけで救い出したはずの、あの透き通った無垢な子らを。
一体、また一体と——そのいのちを強制的に吸い上げ、妻の延命の道具に使ったのだ。
山田老人が見た「薄れていく子らの影」は、神秘的な現象でも、はかなさでもなかった。
命を根こそぎ吸い取られ、苦しみながら消えかけていく——その残酷な姿だったのだ。
夫が「子らに近づくな」と異常なまでに人目を避けたのは。
その血も凍るようなおぞましい所業を——絶対に誰にも見られたくなかったからだ。
地中から響いてきた、あの内側の悲鳴。
幼く、清らかで、引き裂かれたような声——あれは。
信じていた夫に命を絞り尽くされた、子らの底知れぬ無念だったのだ。
「……マジかよ」
翔太はホワイトボードに書かれた文字を見つめたまま、呆然と立ち尽くした。
長野で、水鏡を通して視たあの悲しい別れの日。子らを強く抱きしめ、「もう放さん」と涙ながらに誓った清一郎の姿。
あれを見て、なんて立派で愛情深い夫婦だろうと思った。自分のことのように心を動かされた。
その、同じ男が——。
「……俺たちが同情してたのは。加害者のほうだったってことか」
翔太は乾いた唇から、低く呟いた。
その時、重苦しい空気を破るように、市長室の扉が静かに開いた。
かおりだった。夜遅くまで一人で残る翔太を案じて、引き返してきたのだろう。
彼女は部屋に入るなり、ホワイトボードのあの一文字を見て——翔太がどこまで辿り着いたのか、すべてを悟ったようだった。
いつもの冷たい能面のような表情が、わずかに苦痛に歪んだ。
「……気づかれましたか」
かおりの声も、ひどく掠れていた。
「私も、地中の内側の悲鳴に触れたとき、薄々はその可能性に……ですが、認めたくなかった。あの別れの日の美しい物語が……こんなおぞましい結末だったなんて」
「なあ、かおり」
翔太は振り返り、すがるような目で彼女を見た。
「俺の読み筋、間違ってるって言ってくれ。……救い出した子らの命を、妻の延命に使ったなんて」
かおりはしばらくの間、深い沈黙を保っていた。
やがて、静かに、しかしはっきりと首を横に振った。
「……間違っていません」
その冷徹な一言が、市長室の重い静寂の中にどさりと落ちた。
「あの内側の悲鳴は——間違いなく神の子らのものです。十、ありました。十の、消えかけたいのちの残り火。それが、夫婦の哀しみの内側に、幾重にも折り重なって渦巻いていた。……夫は、子らを妻の贄にしたのです」
翔太は再び椅子に深く腰を下ろした。
窓の外はもう完全に夜の闇に包まれている。あかい市のささやかな街の灯りが、遠くで無機質に瞬いている。
胸のいちばん奥底に、冷たくて重い石が沈んだような心地がした。涙すら出なかった。ただ、深く、途方もなくやりきれなかった。
「……守ってたわけじゃ、なかったのか」
翔太は自分に言い聞かせるように低く言った。
「いえ」
かおりがゆっくりと首を振った。
「半分は、間違いなく守っていたのだと思います。少なくとも長野にいた頃は、子らを心から慈しんでいた。あの水鏡で視た別れの日の感情に、嘘はありません。……ですが、この地で何かが致命的に壊れた。妻の重い病とともに」
「妻の、病……」
翔太は机に広げた診療所の記録を、虚ろな目で見つめた。
山田老人から譲り受けた、あの古い写真がその隣にあった。
カメラに向かってぎこちなく微笑む清一郎。何もない虚空を、ただ優しく見つめる佐和子。
このたった一枚の色褪せた写真の、いったいどこに——あんな凄惨な結末が隠れていたというのか。
人は誰かを、自分の命以上に本当に愛するとき。
その狂おしい愛のために、別の尊い何かを平然と踏みにじることができてしまう。
愛という感情は、いつだって美しく語られる。
だが、純粋で美しいものほど、ときにいちばん残酷な顔を隠し持っているのだ。




