第十三話 外側の声
地中から夫婦の遺体と、そこに絡みつく二重の念を確かめたあの日から。
翔太は疲労が溜まっているにもかかわらず、深い眠りにつけない夜を過ごすようになっていた。
静寂の中で目を閉じると、暗い瞼の裏にあの土に塗れた白い二体の骨が、鮮明な映像として浮かび上がってくる。寄り添い、互いをかばい抱き合うように地の底で果てた夫婦。そして、それを取り巻く外側の重たい哀しみと——内側の、ひどく幼く、純粋ゆえに恐ろしい清らかな悲鳴。
(——あの内側の念は、いったい何だ)
いくら考えても答えの出ぬ問いが、泥濘のように頭の中でぐるぐると回りつづける。
「市長。まずは外側の念から手繰りましょう」
どんよりとした曇り空が広がるある朝、静まり返った市長室で、かおりが静かなトーンで言った。
「二重の念は、外側から慎重にほどいていくのが筋です。内側のものはあまりに力が強く、複雑に絡み合っている。いきなり核心に触れれば——私たちも危ない」
「外側の念ってのは、あの夫婦の哀しみだったな」
「ええ。ですがあの夫婦の念の中に——もうひとつ、異質なものが混じっているのが分かりました。夫婦のものでも、子らのものでもない。もっと別の、見知らぬ大勢の人間の気配です」
「大勢の人間?」
かおりはゆっくりと頷いた。
「強い恨みと、どこにもぶつけられない無念。それもひとりやふたりではありません。何十、何百という人の断末魔のような……焦げたような、戦のにおいがします」
「戦……戦争か」
翔太は思いがけない言葉に眉をひそめた。
「ええ。仁科清一郎はあの森に強固な結界を張るとき——どこからか戦で死んだ大勢の者たちの怨念を呼び寄せ、無理やり束ねて結界の力に使った。そうとしか考えられません」
「死者の怨念を結界の燃料にしたってことか。……とんでもなく物騒な話だな」
翔太はため息まじりに皮肉を言いかけて、すぐに口をつぐんだ。軽口で流せるような生易しい話ではなかった。
*
戦災の痕跡。
その不可解な手がかりは、意外なところから見つかった。
かおりが市の図書館や役所の古い記録を洗い直すと——あかい市には戦時中、大きな軍需工場があったことがわかった。そして終戦間際の大規模な空襲で、その工場と周辺の住民あわせて数百名が火の海に飲まれ、命を落としていた。
その犠牲者を弔う慰霊碑が、市の外れにある古びた寺の片隅に、誰の目にも触れないようにひっそりと建っていた。
苔生した石段を登り、二人はその寺を訪ねた。
境内に漂う線香の匂いが、過去の重みを感じさせる。応対した腰の曲がった老いた住職は、慰霊碑のいわれをよく覚えていた。
「ええ、ええ。本当に痛ましい空襲でしてな。逃げ惑う人々の上に容赦なく焼夷弾が降り注いで……黒焦げになって、身元の分からぬ仏さんも大勢おられた。この碑は、そういう行き場のない方々を慰めるために建てられたのです」
住職は古びた石碑に線香を手向けながら、目を細めて語った。
「……ただひとつ、この碑には不思議なことがございましてな」
「不思議なこと?」
「昔——もう半世紀も前のことですが。この碑から御霊が根こそぎ抜き取られたような、ひどく薄気味の悪い晩があったのです」
住職の声が、周囲の空気を冷やすように低くなった。
「先代の住職が、震える筆跡で日誌に書き残しております。ある夜、真冬でもないのに、寺じゅうの空気がぞうっと凍てつくように冷えてな。慌てて慰霊碑の前で読経しても、しても、まるで虚空に向かって声を投げているようで手応えがない。慰めるべき御霊がごっそりと、どこか遠くへ連れ去られてしまったかのようだった、と」
翔太とかおりの視線が、無言のまま交わった。
半世紀前。御霊が根こそぎ連れ去られた夜——。
「その晩の日付は」
かおりが核心を突くように鋭く尋ねた。
住職が奥から古い寺の日誌を繰って答えたその日付は——仁科佐和子が診療所の記録からぷつりと消える少し前。つまり、病に伏していた彼女が息を引き取ったと思しき時期と、ぴたりと重なっていた。
「……仁科清一郎が、やったのか」
翔太は低く唸るように呟いた。
「妻の命が危なかったころだ。あの男は、この慰霊碑から戦で死んだ者たちの念を根こそぎ奪い去った。そしてその膨大なエネルギーを、胡桃沢の森に注ぎ込んだんだ」
「ええ。おそらくは」
かおりが重々しく頷いた。
「神主の家系である仁科には、良くも悪くも御霊を扱う力があった。本来は怒りを鎮め、魂を慰めるための神聖な力。それを彼は——まったくの逆さまに使ったのです」
「でも、なんで戦争で死んだ人らの念なんだ」
翔太は納得がいかないように眉をひそめた。
「力が必要だったにせよ、ほかにも古い念くらいあっただろ。なんでわざわざ空襲の犠牲者を狙ったんだ」
かおりはしばらくの間、文字の薄れた慰霊碑を静かに見つめていた。
「……つながりだと思います。追い詰められた仁科の心の中での」
「つながり?」
「市長。佐和子の病——あの白血病です。当時、ああいう原因不明の血の病は、しばしば戦の毒のせいだと信じられていました。戦争という行為そのものが人の身体に遺した、目に見えぬ毒。それが何年も経ってから潜伏期を終え、突然人を蝕むのだと」
翔太ははっとして息を呑んだ。
「仁科は思い込んだのです」
かおりの声が、静まり返った境内に響いた。
「妻の病もまた——戦争という巨大な暴力に奪われたのだ、と。故郷の村は国策のダムに沈められ奪われた。そして今度は、自分の命より大切な最愛の妻まで、戦争の毒に奪われようとしている。……国に、戦に、自分は理不尽に何もかもを奪われつづけているのだ、と」
「……同じだと思ったのか。この慰霊碑の下で眠る犠牲者と、無力な自分が」
「ええ。戦にすべてを奪われた者同士。だから彼はその念に呼びかけた。深く共鳴したのです。……同じ痛みと絶望を知る者として」
翔太は慰霊碑をゆっくりと見上げた。
戦争によって理不尽に命を奪われた数百の人々。その行き場のない無念に、自分の真っ暗な絶望を重ね合わせた一人の男——。
「……壊れてたんだな。あの男は」
翔太の声はもう、狂気じみた行いを責める色を失っていた。ただそこにあるのは、深くやりきれない悲哀だった。
「故郷を奪われ、妻を奪われると思い込み。じわじわと頭の中が、国や戦争への恨みでいっぱいになって……もう、まともな精神状態じゃいられなくなってたんだ」
「そしてその極限まで壊れた心が——」
かおりは悲しげに目を伏せた。
翔太は言葉を失い、しばらく黙っていた。
外側の念はほどけた。戦災死者の怨念。それは、夫が同じ犠牲者として呼び寄せ、すがりついた悲しい防壁だった。
だが、その内側。
夫婦の哀しみのさらに奥深く、幾重にも折り重なるように隠された、あの悲鳴の正体。
そこにこそ、このおぞましい物語の本当の核心がある。
「……次は内側か」
翔太は覚悟を決めるようにぽつりと言った。
「あのいちばん奥で泣いている悲鳴を聴く。それがどんなにしんどくて、残酷なものでも」
「ええ」
かおりの顔がわずかに曇り、緊張が走った。
「ですが市長。内側の念に触れるには——もう一度、あの森のいちばん暗くて深いところへ入らねばなりません。そして今度は夫婦の念というフィルター越しではなく、その奥のいちばん強い悲鳴に直接触れることになる」
かおりは翔太の目をまっすぐに見た。
「覚悟を、なさってください。……視えてしまえば、もう絶対に後戻りはできません。あなたが今信じている、哀しくも美しい夫婦の物語が——根本から音を立てて崩れ去るかもしれない」
翔太はその忠告の言葉の本当の意味を、まだ半分も理解していなかった。
だが胸の奥底で、得体の知れない黒い予感だけが確実に、そして急速に膨らんでいた。
いつか見た、不自然なまでに幸せそうな家族写真。
あの日向のような笑顔の裏側にべったりと貼りついた、底なしの影の本当の深さを——彼はまだ、何も知らない。




