第六話 公爵の本当の仕事
第六話 公爵の本当の仕事
マルセイユ公爵家の執務室の昼前。
「……よし、終わったな」
アーノルドは最後の書類に印を押し、深く息を吐いた。
机の上は、驚くほど綺麗だった。
あの山のような書類は、綺麗に仕分けられていた。
未処理の籠は、あと6個あるが、今日の自分の仕事は終わったのである。
「では、鍛錬所に行ってみるか」
椅子から立ち上がり、軽く肩を回す。
久しぶりに剣が振れる。そう思った瞬間だった。
「アーノルド様」
ぴたり、と動きが止まる。
背後から、静かな声が聞こえる。
「……な、なんだ?」
ゆっくり振り返ると、そこにはにこやかに微笑むアウルルがいた。
だが、目は笑っていない。
「仕事は、まだ終わっていませんわ?」
「……は?」
一瞬、意味が分からなかった。
「いや、終わっただろう。君の言った籠の中の仕事は終えたぞ」
「はい、お疲れ様です。事務仕事は完了しましたわ」
笑顔のままアウルルは頷く。
「……え、まさか、終わりではないのか?」
「はい」
アウルルは一歩前に出た。
「公爵家当主様のお仕事は、事務だけではありませんわ」
「……」
「人を動かし、組織を整え、未来への予測を立てて動く。それが本来の役目ですわ」
もっともな言葉だった。
公爵家の一日の仕事が、たった数枚の書類だけで終わるわけがない。
「今、終えた仕事は、その一部に過ぎませんわ」
「まだ、仕事があるのか……?」
「はい。ここからが本番ですわ」
仕事が終わったと喜んでいただけに、
アーノルドは、しゅんとして肩を落とした。
「……鍛錬の時間が……」
ぽつりと漏れた本音。
それを聞いたアウルルは、一瞬だけ困ったような表情を浮かべた。
「……少し、可哀そうですわね」
「だろう?」
「そうですね。うーん」
アウルルは、ふと考え込むように頬に右手を添えながら、言葉を続けた。
「では、わたくしが、仕事の一部を引き受けますわ」
「……本当か?」
「はい。経理関係を」
「経理?」
聞き慣れない言葉に、アーノルドは首を傾げた。
「お金の流れの管理ですわ。公爵家の血液のようなものです」
「なるほど……」
「まずは現状確認からです」
アウルルは、すぐに執事を呼んだ。
「セバス、少しよろしいかしら?」
「はい、奥様」
現れた老執事は、相変わらず隙のない所作で頭を下げる。
「会計は、どなたが担当していますの?」
「私でございます」
「……あなたが?」
アウルルは目を見開いた。
「はい。帳簿の管理、収支の確認、支払い、すべて私が」
「……」
数秒、沈黙。
そして――
「セバスの仕事が多すぎますわ」
アウルルは気の毒そうにセバスを見てから、アーノルドに視線を移した。
「セバスがブラック状態ですわ」
「ブラック?」
アーノルドが思わず聞き返す。
「一人に任せる量ではありませんわ」
アウルルは、セバスから帳面を受け取り、ぱらぱらとめくった。
その手が、途中で止まる。
「……やはり」
「どうした?」
「これ以上、セバスの仕事を増やすことはできません」
「……そうなのか」
「ですので」
ぱたん、と帳面を閉じた。
「経理専門の人材を育てましょう」
「育てる?」
「はい」
アウルルはくるりと振り返る。
「人を集めます」
◇
その日の午後。
屋敷の広間には、使用人たちが集められていた。
何事だろうと、不安や期待の眼差しの中、ざわざわとした空気が広がる。
その集団の前に、アウルルとアーノルドが立っていた。
「皆さま、本日はお集まりいただきありがとうございます」
静かに、しかしよく通る声が広間に響く。
「これから、公爵家の経理を改革します」
その一言で、空気が変わった。
「商売に詳しい方、帳簿に触れたことのある方はいませんか?」
しばしの沈黙の後。
「……あの」
手が上がった。
茶髪の20歳の青年。
「侍従のチゴダイでございます。実家が商家でして……」
チゴダイに釣られるように、緑髪の18歳の少女が一歩前に出た。
「侍女のクリームです。家は小さな店を……」
アウルルは、満足そうに頷いた。
「では、お二人にお願いしますわ」
「「はい!」」
声が仲良く重なる。
「これから、公爵家は新しい会計方法を導入します」
そして、これが公爵家の大きな変革の一つになろうとしていた。
神の国の経理。
「複式簿記を使いますわ」
その聞きなれぬ言葉に、場がざわついた。
「……アーノルド様、よろしいですか?」
確認の視線が向けられる。
アーノルドは腕を組み、少し考えながら答える。
「……正直に言おう」
ぽつりと口を開く。
「数字は苦手だ」
正直すぎる言葉だった。
「だが」
アーノルドはアウルルを優しい目で見る。
「アウルルがやることなら、大丈夫だ」
「……」
「俺は、お前を信じる」
一瞬、空気が止まった。
アウルルの頬が、ほんのり赤く染まる。
「……アーノルド様」
「なんだ?」
「そんなに簡単に、人を信じてはいけません」
「簡単じゃない」
即答だった。
「お前だから、信じるんだ」
「……っ」
アウルルは言葉に詰まる。
そして、恥ずかしげに視線を逸らして呟いた。
「……初夜もまだのくせに」
「何か言ったか?」
「いいえ、何も」
こほん、と咳払い。
「では、分担ですわ」
いつもの調子に戻る。
「アーノルド様は鍛錬へ」
「いいのか?」
「はい。その代わり」
ちらりと振り返る。
「こちらは、わたくしにお任せください」
「アウルル、頼んだ」
アーノルドは嬉しそうな笑みを浮かべた。
◇
その後。
アーノルドは久しぶりに鍛錬場へと足を運んだ。
護衛騎士たちが一斉に姿勢を正す。
「公爵様!」
「軽くでいい。付き合え」
訓練用の剣を手に取る。
振るう。
風を切る音が、心地いい。
身体が喜んでいるのが分かる。
「はっ!」
打ち込み、受け、返す。
汗が流れる。
思考が研ぎ澄まされる。
(……やはり、これだな)
アーノルドにとって、剣は生き方そのものだった。
◇
そして、昼食を楽しむ。
アウルル、妹とヘルナンデスを交え、四人で囲む。
穏やかな時間が流れていた。
「仕事も順調で平和だな」
珍しく、何もない時間。
椅子に座り、ぼんやりと外を眺める。
そのとき――
「アーノルド様!」
侍従が慌ただしい足音で飛び込んできた。
「どうした?」
「王城より、使者が!」
「……王城?」
嫌な予感がした。
「第一王子エリオット殿下よりの伝言でございます!」
その名に、空気が引き締まる。
「内容は?」
「急ぎ、お話ししたいことがある、と」
「……」
「お忍びで、来てほしいとのことです」
食堂に沈黙が広がる。
お忍びでの訪問とは、ただならぬ気配を感じる。
「……分かった」
ゆっくりと立ち上がる。
「すぐに支度をする」
そして、アーノルドの心の中に一抹の不安がよぎった。
(……何が起きたのだ?)
実は王城では、アーノルドたちにとって、大事な出来事が起きていたのだった。




