第三十一話 エリオットの揺れる想いと新たな一歩
第三十一話 エリオットの揺れる想いと新たな一歩
翌朝。
柔らかな朝日が差し込む応接室で、アウルルは静かに紅茶を口にしていた。
そこへ、ノックの音。
「どうぞ」
入ってきたのは、マリーナと――フローだった。
昨日の夜の出来事が嘘のように、フローの表情は落ち着いている。
だが、その奥にある揺らぎを、アウルルは見逃さなかった。
「おはようございます、アウルル様」
「おはようございます」
優雅に挨拶を返す。
マリーナが、少し寂しそうに笑った。
「本日は、お話があって参りましたの」
「ええ、なんとなく察しはついておりますわ」
アウルルはカップを置き、二人をまっすぐ見つめる。
フローが一歩前に出た。
「……もうすぐ夏休みが、終わります」
名残惜しそうな声だった。
「本日中に、プロイセ帝国へ帰国いたします」
その言葉に、部屋の空気がわずかに重くなる。
「そう……ですか」
アウルルはゆっくりと頷いた。
「短い間でしたが、とても楽しい時間でしたわ」
「……わたしもです」
フローは微笑む。
だがその笑みは、どこか痛々しいほどに儚かった。
◇
その日の昼。
公爵邸の正門前には、出立のための馬車が用意されていた。
使用人たちが整列し、静かに見送る準備をしている。
その中に――エリオットの姿もあった。
だが、彼はフローを見ていない。
視線は、わずかに逸らされている。
フローもまた、同じだった。
二人は互いを見ようとしない。
それでも――
「……お気をつけて」
エリオットが言う。
「ありがとうございます」
フローが応える。
ただ、それだけのやり取り。
本来なら、もっと言葉があったはずなのに。
もっと伝えたいことが、あったはずなのに。
――何も言えない。
沈黙が、すべてを物語っていた。
「……それでは」
フローは軽く一礼すると、馬車へと乗り込む。
最後まで、振り返らなかった。
馬車がゆっくりと動き出す。
その瞬間――
エリオットの手が、わずかに動いた。
だが、伸ばされることはなかった。
遠ざかっていく馬車。
やがて、それは完全に視界から消える。
残されたのは、静寂と――
取り残された想いだけだった。
◇
その日の昼下がり。
執務室は、悲惨な状態だった。
エリオットは椅子に座ったまま、項垂れていたのだ。
「……終わったな」
ぼそりと呟く。
アーノルドが腕を組みながらうなずく。
「まあ、見事に振られたな」
「……言うな」
力のない声で返す。
そこへ、アウルルがそっと口を開く。
「殿下」
「……なんだ?」
「少し、気分転換にお話をしてもよろしいでしょうか?」
「今はそんな気分じゃ――」
「公共事業のお話ですわ」
その一言で、エリオットの眉がわずかに動いた。
「……続けろ」
アウルルは微笑む。
「王都からこのマルセイユ公爵領まで――疎水を整備するのはいかがでしょう?」
「疎水?」
「ええ。運河のようなものですわ」
ゆったりと説明を始める。
「物資の輸送が格段に効率化されます。特に食糧は安定供給が可能になりますし、人の往来も活発になりますわ」
「……ふむ」
「さらに、プロイセ帝国との距離も実質的に縮まりますわ」
エリオットの視線が、わずかに上がる。
「移動時間の短縮は、そのまま外交の強化に繋がりますわ」
「……なるほどな」
「加えて――灌漑事業としても活用できますわ」
「農地を増やせる、か」
「ええ。新たな穀倉地帯の形成も夢ではありませんわ」
アーノルドが口を挟む。
「で、予算はどうする」
「国が五割、公爵領が三割、そして――」
アウルルは優雅に微笑んだ。
「アウルド商会が二割を負担いたしますわ」
「……商会が?」
「はい。その代わり、管理運営は我々にお任せください」
アーノルドが低く唸る。
「悪くねえ話だな」
「でしょう?」
だが――
エリオットはまだうつむいたままだった。
「……プロイセ帝国に近くても」
ぽつりと呟く。
「フローがいなければ、意味がないのでは……」
その声に、アウルルは少しだけ表情を変えた。
「殿下」
「……なんだ」
「フローラ様は――殿下のことをお好きだと思いますわ」
その一言で、空気が変わる。
「……は? なぜそう思うのだ」
エリオットが顔を上げる。
「その根拠を教えてくれ」
アウルルは静かに告げる。
「フロー様としては結婚できない。ですが――皇女としてなら、結婚できるのでは?」
「……!」
「だからこそ、変装を解いたのですわ」
エリオットの瞳が揺れる。
「もし想いがなければ……そのまま断っていたはずですわ」
「……」
「皇女としての自分で、殿下に求婚してほしい――そういう意味ではないかと? わたくしは思いましたわ」
エリオットは考え事をするかのようにじっとアウルルを見つめ、沈黙する。
そして――
「……そうなのか、そうだったのか」
エリオットは両手を握りしめながら、呟いた。
アーノルドがニヤリと笑う。
「ようやく気づいたか」
「……お前、知っていたな?」
「アウルルに教えてもらったよ」
「そういうことは早く言えよ!」
「自分で気づくもんだろ、そういうのは」
アーノルドは呆れたように肩をすくめる。
エリオットは、ゆっくりと立ち上がった。
「……落ち込んでいる場合ではないな」
「その通りですわ」
アウルルが頷く。
「やるべきことは、明確ですわ」
「……ああ、わかった」
エリオットの瞳に、再び光が戻る。
「王都へ戻る」
「それで?」
「父上に直談判する」
一歩踏み出す。
「この疎水事業――そして鉱山開発」
「ほう」
「それを国益として提示し、その上で――」
一瞬、言葉を区切る。
「プロイセ帝国との同盟強化のためにも、フローラ皇女と結婚したいと伝える」
アーノルドが笑った。
「ようやく、計算高いエリオットらしくなってきたじゃねえか」
「……まったくだな」
「これで腹黒王子復活だな」
軽口を叩き合う。
だが、その空気はもう重くない。
アウルルは満足げに微笑んだ。
「きっと、上手くいきますわ」
「……ああ」
エリオットは頷く。
「今度こそ――」
その瞳は、まっすぐ前を見据えていた。
◇
数日後。
エリオットはマルセイユ公爵邸を後にし、王都へと戻った。
夏は終わりを迎えようとしていた。
そして――
彼の中で、新たな季節が始まろうとしていた。




