閑話四 プロイセ帝国 婚約破棄された蒼き皇女フローラ
閑話4 プロイセ帝国 婚約破棄された蒼き皇女フローラ
フランセ王国の北にあるプロイセ帝国。
さらにその北方の大国ピロシキ帝国とプロイセ帝国の国境は、かねてより緊張状態にあった。
小競り合いは日常茶飯事。
だが、それでも辛うじて保たれていた均衡が、ある一通の書簡によって崩れかけていた。
「……ふざけるな」
激しく爆発するような怒りの声が玉座の間に響く。
プロイセ帝国皇帝、ビスクル=プロイセは、手にした羊皮紙を握り潰さんばかりの勢いで睨みつけていた。
「婚約破棄、だと……?」
それは正式な通告だった。
ピロシキ帝国皇子スターランより、第五皇女フローラとの婚約を破棄するという、一方的な宣言。
理由は簡潔にして、無礼極まりない。
――「情勢不安のため、婚約を維持する価値なし」。
「我が娘を、政略の駒としか見ておらぬということか……!」
玉座の間に控える重臣たちは、誰一人として口を開かなかった。
下手に言葉を挟めば、その怒りの矛先が自分に向くことを理解しているからだ。
だが――。
「……父上」
静かな声が、その空気を切り裂いた。
振り返った先にいたのは、当の本人。
青い髪に、紫の瞳を持つ少女――フローラ第五皇女、十八歳。
「フローラ……」
ビスクルの表情に、一瞬だけ父の顔が浮かぶ。
だがすぐにそれは、帝としての厳しさに塗り替えられた。
「このような無礼、許せるものではない。ピロシキ帝国には即刻――」
「お待ちください」
フローラは、静かに頭を下げた。
「今は……戦うべき時ではありません」
その言葉に、周囲の空気が揺れる。
「何を言う。これは我が国の威信に関わる問題だ」
「ですが、北で戦を起こせば、南が動きます」
フローラの瞳は、真っ直ぐだった。
「フランセ王国で叔母様が……」
その名に、場の空気がさらに重くなる。
ちょうどその頃――フランセ王国では、王妃マリーネットとフリーランドが、国王毒殺未遂の罪で投獄されていた。
そして、その処遇を巡る苦情が、プロイセ帝国にも届いている。
まさに、対応を間違えれば、戦争に発展する難しい情勢であった。
「今、我が国は南北で火種を抱えております」
フローラは続ける。
「ここで北と戦えば、南への備えが難しくなります。
……ですから、マリーネット叔母様の件も、控えめな対応しか取れないでしょう」
ビスクルは黙り込んだ。
それが正論であることを、理解してしまったからだ。
「……だからといって、黙って引き下がれというのか」
「いいえ」
フローラはゆっくりと顔を上げた。
「今は、耐える時です」
その言葉は、皇女としてではなく――一人の為政者としての響きを持っていた。
結果として。
プロイセ帝国は、ピロシキ帝国への即時報復を見送り、南のフランセ王国への対応も最小限に留める方針を取った。
マリーネット元王女の帰国のみが、辛うじて実現した成果だった。
だが――。
それは、婚約破棄されたフローラ自身の心を守るものではなかった。
婚約破棄というあまりにも重い現実の前に、フローラの心は暗い気持ちに満ちていた。
来春に学院を卒業して、ピロシキ帝国に輿入れする予定が白紙になったのだ。
この年で次に縁談を探すとなれば……、正直、難しいだろう。
過失のある皇女として、次の条件は後妻、側室になりそうだ。
難しい条件下での婚姻を考えると、フローラの心は暗くなるのだった。
一層のこと、身分を問わず、自分を必要として愛してくれる人に出会えたら……。
そんな物語のようなことを想像して、ありえない現実に悩むのだった。
◇
「……はあ」
初夏の風が心地よい、ルール学院の中庭。
噴水のそばのベンチで、フローラは小さくため息をついた。
周囲には笑い声。
だが、それはどこか遠い世界のもののように感じられる。
「フローラ様」
柔らかな声がかかる。
振り向けば、そこにいたのは紫色の髪のフライブル侯爵令嬢――学院での数少ない親友の一人だった。
「……元気がありませんわね」
「……そんなことは」
「ありますわ」
きっぱりと言い切られ、フローラは苦笑した。
「婚約破棄など、気にする価値もない相手ですのに」
「……そう、思えれば楽なのだけれど」
視線を落とす。
「国のためとはいえ……やはり、悔しいものね」
その本音に、フライブル令嬢は一瞬だけ表情を和らげた。
「では、気分を変えましょう」
「え?」
「夏休みは、わたくしの領地にいらっしゃいません?」
さらりと言ってのける。
「国境沿いで、少し騒がしいですが……空気は良いですし、何より、余計な視線がありませんわ」
フローラは目を瞬かせた。
「……よろしいの?」
「もちろんですわ。わたくしたち親友でしょう?」
にっこりと笑うその姿に――
フローラの胸の奥に、少しだけ温かいものが灯った。
「……ありがとう」
◇
数日後。
フローラは、フライブル侯爵領へと向かう馬車の中にいた。
窓の外には、広がる草原と遠くの山並み。
帝都とは違う、穏やかな風景。
「……綺麗」
思わず、そんな言葉が漏れる。
国境に近いとは思えないほど、静かで――
どこか、心をほどいてくれる場所だった。
そして。
一ヶ月後――。
「パーティー、ですか?」
「ええ」
フライブル令嬢は楽しげに頷いた。
「隣国、フランセ王国のマルセイユ公爵領で開催されるものですわ。
アーノルド公爵主催の、なかなか大きな催しですの」
フローラは少しだけ目を見開く。
「フランセ王国に……?」
「ええ。もちろん、正式な訪問ですわ」
くすり、と笑う。
「……ですので、フローラ様もご一緒にいかが?」
「わ、わたしが……?」
「ご安心を」
フライブル令嬢は、懐から小さな魔道具を取り出した。
「変装用の魔道具ですわ。これがあれば、誰にも正体は分かりません」
フローラは、それを見つめ――
そして、ふっと笑った。
「……面白そうね」
こうして。
プロイセ帝国第五皇女フローラは――
身分を隠し、一人の少女として、隣国のパーティーへと向かうことになった。
それが、新たな運命の幕開けになるとも知らずに。




