第二話 アウルルの謎の行動、筋肉は尊い
第二話 筋肉は尊い
それから数日後。
マルセイユ公爵家の執務室には、紙をめくる音だけが静かに響いていた。
「……多いな」
アーノルドは、机に積み上がった書類の山を見て、愚痴るように呟いた。
「当然ですよ、公爵様ですから」
向かいに座る青年が、さらりと返す。
青い髪に緑色の瞳、整った顔立ち、軽やかな物腰。そして、筋肉質の身体。
ヘルナンデス=ランス、二十二歳。
伯爵家三男にして、かつて騎士団でアーノルドと肩を並べた戦友である。
「領地の立て直しをどうするか? 財源不足をどうするのか? 魔物討伐への対処……」
「言うな。頭が痛くなる」
思わず額を押さえるアーノルド。
つい半年前まで、彼は戦場で剣を振るう騎士だった。
それが今では、公爵として領地経営に追われている。
正直、公爵家は兄が継ぐ予定だった。そう割り切って、剣術の腕を磨いていた。
それが叔父の策略によって父と兄が他界し、突然、自分が跡を継ぐことになった。
書類仕事などまったく自分には向かないのである。
それでもアーノルドは、愚痴りながらもなんとか業務をこなしていた。
「助かる。お前がいなければ、確実に破綻しているところだった」
「そういえば、騎士団時代は、アーノルド様は魔獣討伐が優秀でしたからね。
書類は僕がやれば済んでいましたね」
ヘルナンデスは懐かしむように軽く笑った。
実際、その通りだった。
彼は数字にも書類にも強く、アーノルドの弱点を見事に補っている。
そして何より――信頼できる。
公爵家が一度奪われたあの時も。
周囲が距離を置く中で、最後まで寄り添ってくれたのが彼だった。
「……借りが多いな」
「今さらですよ」
そう言って、さらりと書類に目を戻す。
そのときだった。
――コンコン。
「失礼いたしますわ」
扉が開き、柔らかな声が室内に響いた。
現れたのは、悪役令嬢と噂の美しい銀髪の少女。
アウルル=リール侯爵令嬢にして、今は、アーノルドの新妻となったアウルル=マルセイユ。
「お仕事の合間に、休憩はいかがでしょうか?」
後ろには侍女たちの姿が見える。
手際よくテーブルが整えられ、執務室に紅茶の香りが広がる。
「……ああ、ありがとう」
形式的に礼を述べるアーノルド。
だが、その直後。
背筋がぞっとした。そう違和感に気づく。
(……まただ)
アウルルは、動かずじっとしている。
いや――
その場からは動いてはいないが、違う。
視線が動いているのだ。
彼女は、じっと二人を観察するように見比べている。
アーノルドを舐めるように見つめ、
そして、次にはヘルナンデスを。
交互に。
じっくりと。
まるで、品定めでもするかのように。
(……なんだ、この空気は)
妙な沈黙が流れる。
さすがのヘルナンデスも、わずかに困ったような笑みを浮かべた。
「奥様、お気遣いありがとうございます」
「いえいえ」
にこり、と微笑むアウルル。
だがその笑みが――
妙に不気味である。何かぞわっとするような視線なのだ。
何かを想像しているような、気味が悪い圧があった。
「……何か言いたいことがあるのか?」
耐えきれず、アーノルドが口を開く。
すると。
アウルルは、ゆっくりと頬に手を当て――
うっとりとした表情になった。
「筋肉のぶつかり合いは尊いですわ」
「……は?」
一瞬、思考が止まる。
「鍛えられた肉体同士のぶつかり合い……」
語り始めた。
「特にお二人のように、実戦を経験された騎士の身体は――まさにご褒美ですわ。
それだけでご飯三杯はいけそうです」
「……ヘルナンデス」
「ええ、意味がわかりませんね」
顔を寄せて、小声で確認し合う二人。
だが、アウルルは嬉しそうに話が止まらない。
「赤と青の対比も素晴らしいですわ……視覚的にも完成されています」
「ヘルナンデス、色の話になったぞ」
「なぜか? 背筋がぞっとするのですが……」
「奇遇だな。俺もだ……」
もはや何を言っているのか分からない。
アーノルドはとりあえず紅茶を口に運ぶ。
落ち着こうとした、そのとき。
ふと気づく。
(……ぞぞぞとする)
視線が。
やけに熱い。
再びアウルルを見ると――
トロンと下目遣いで恍惚な表情を浮かべて、二人を観察していた。
恐ろしいことを想像しながら、
何かよからぬことを考えているような予感がした。
(……なんだこれは)
背筋がぞぞぞぞとする。
戦場でも感じたことのない、不気味さ。
「……筋肉同士の激しいぶつかり合いは、尊いですわ」
ぽつり、と呟くアウルル。
満足げに小さく頷く。
「では、ごゆっくり」
それだけ言って、優雅に一礼。
そして――そのまま侍女たちと共に去っていった。
扉が閉まる。
二人だけになった執務室に沈黙が広がる。
しばらく呆然とした後。
「……アーノルド様」
「ああ」
「奥様は何をなさっているのでしょうか」
「俺が聞きたい」
アーノルドの心に不気味な感じだけが残った。
◇
――だが。
それで終わりではなかった。
翌日。
「失礼いたしますわ」
来た。
そして。
「筋肉のぶつかり合いは尊いです」
恍惚の表情を浮かべながら、アーノルドたちの背筋をぞっとさせられた後、帰っていく。
翌々日も。
「本日はご主人様が下になるのが、素晴らしいですわ」
わけのわからないことを言って、帰った。
さらにその次の日。
「本日はご主人様が攻める方で、素敵ですわ」
にやりと笑みを浮かべて帰って行く。
「……」
「……」
完全に日課になっていた。
しかもまったくコメントの意味がわからない。
彼女は一体、何をしに来ているのか?
「……僕たち、ぞっとする感じに観察されていませんか」
「間違いなくされているな」
アーノルドは断言した。
あの絡み取るような視線。
あの満足げな恍惚した表情。
どう考えても、ただの挨拶ではない。
「しかも、妙にわけがわからない言葉を発しています」
「筋肉はわかるが、上とか下とか、攻めとか受けとか……」
「なんなのでしょうかね」
背筋をぞっとさせながら、沈黙が広がる。
そして。
「……なんか怖いな」
「ええ、正直、ぞっとします」
二人同時にため息をついた。
だが――。
(それだけじゃない)
アーノルドは、内心で考える。
あの探るような視線。
あの何かを想像するような恍惚とした満足した表情。
どこかで見たことがある。
そう――
(あれは獲物を観察する者の目だ)
我々は彼女に見られている。
敵を見る目ではない。
そして、信仰の対象でもない。
もっと別の。
何かを楽しもうとするような、そう、狂った研究者のような眼差し。
(……何を考えているのだ)
アウルル=リール。いや、今はアウルル=マルセイユか……。
冤罪ですべてを失いどん底から名誉を回復した元悪役令嬢。
だが今の彼女は――
そのどれとも違う。
断罪される前と後では、噂とまったく別人なのである。
驚くほどの変貌ぶりに、まったく彼女が理解できない。
だが確実に。
(何かを企んでいる)
そう思わずにはいられなかった。
そしてその予感は――
数日後、現実となる。
それも。
最悪の形で。
――アーノルドの常識を、完全に破壊する形で。
このときの彼は、まだ知らなかった。
自分がこれから巻き込まれるのが――
戦場よりも厄介で、
政治よりも読めず。
そして何より、
逃げ場のない――
男なら不名誉な、ぞっとするような騒動であることを。




