第一話 お前を愛することはない。白い結婚と悪役令嬢
第一話 白い結婚と悪役令嬢
フランセ王国の春は、昼こそ柔らかな陽光に包まれるものの、夜になるとまだ冬の名残を感じさせる冷気が漂う。王都の中心、名門マルセイユ公爵家の屋敷もまた、その静寂と冷気に包まれていた。
その一室――重厚な扉で隔てられた寝室にて。
新たに当主となったばかりの青年、アーノルド=マルセイユは、静かに息を吐いた。
年は二十二。燃えるような赤髪と赤い瞳を持ち、騎士団で鍛え上げられた身体は、礼服の下でも隠しきれぬ逞しさを備えている。
だがその表情には、戦場で見せる鋭さではなく、どこか困惑と諦めが入り混じっていた。
彼の視線の先にいるのは、一人の女性。
長く流れる銀髪。月光を思わせる淡い輝き。
透き通るような蒼い瞳。
そして、整いすぎた顔立ちに浮かぶ、どこか妖しげな微笑み。
アウルル=リール侯爵令嬢にして、かつて悪役令嬢と呼ばれた少女である。
十八歳という若さで、彼女はすでに社交界の頂点と奈落の両方を経験していた。
本来ならば第二王子フリーランドに嫁ぐはずだった高貴な女性。しかし彼女は突如として「悪役令嬢」と断じられ、婚約破棄。
社交界からも追放され、すべてを失った黒歴史を持つ女性だった。
だが、物語はそこで終わらない。
第一王子エリオットの介入により、彼女にかけられていた数々の罪は冤罪であることが証明される。
逆に第二王子フリーランドの不正と愚行が暴かれ、彼は廃嫡という末路を辿った。
結果として、アウルル=リール侯爵令嬢は名誉を回復した。
しかし――。
(問題は、その後だ)
アーノルドは内心でため息をつく。
王族とアウルルの婚約は白紙に戻った。
だが、彼女の名誉のために、王家は責任を取らなければならなかった。
王家としては、ふさわしい再婚先を用意する必要があった。
そして、白羽の矢が立ったのが、アーノルド=マルセイユ公爵だった。
つい数日前、王城の執務室でのことを思い出す。
『貸した恩は、ここで返してもらえるかな』
にやりと笑ったのは、第一王子エリオット。
金髪に蒼い瞳、そしてどこか人を食ったような笑みを浮かべる男だ。
学院時代の同級生でもあり、同時に恩人でもある。
半年前。
アーノルドは、当時公爵だった父とその後継者になる兄を一度に失った。
叔父の策略によって、公爵位が奪われたのだ。
絶望的な状況だった。
だが、それを覆したのが優秀な第一王子のエリオットである。
一緒に証拠を集め、叔父の不正を暴き、公爵位をアーノルドのもとへ取り戻してくれたのだ。
その恩は、あまりにも重い。
だからこそ、断れなかった。
(……だがなぜ俺が、よりにもよって彼女と)
目の前のアウルルを見る。
彼女がフリーランドを深く愛していたことは、社交界では有名な話だった。
嫉妬深く、彼に近づく女性を容赦なく排除する。
そんな噂さえあった。
その彼女が、今は自分の妻としてここにいる。
どう考えても、歪な状況だ。
しかも悪いタイミングで、この時期、アーノルドは領地の立て直しで手一杯だった。
結婚生活に割く余裕など、どこにもなかったのだ。
だから。
「……言っておく」
沈黙を破り、アーノルドは口を開いた。
言葉は慎重に選ぶ。
だが、曖昧さは許されない。
「お前を愛することはない」
冷たく、はっきりとした拒絶。
優しさなど不要だと思った。
中途半端な情けは、かえって相手を傷つける。
それにこれは政略結婚だ。
三年間、関係を持たない白い結婚を続ければ、彼女は自由になれる。
それが、せめてもの配慮のつもりだった。
だが……。
「ええ、存じています」
あまりにもあっさりと、アウルルは微笑んだ。
「……は?」
間の抜けた声が漏れる。
予想していた反応ではなかったからだ。
怒って暴れるか、泣き出すか、あるいは皮肉の一つでも返してくるか……そう思っていたのに。
彼女はただ、穏やかに微笑んでいる。
「アーノルド様には、わたくし以外に大切な方がいらっしゃるのでしょう?」
「そんな人間はいない」
即座に否定する。
事実だ。
騎士団にいた頃は任務に追われ、恋愛どころではなかった。
花街に足を運ぶことはあっても、特定の相手はいない。
だが……。
アウルルは、くすりと笑った。
「ふふ……隠さなくてもよろしいのですよ?」
「隠すも何も……」
「禁断の愛、ですものね」
その一言で、空気が凍りついた。
ぞくり、と背筋を何かが走る。
「……何を言っている?」
思わず声が低くなる。
だがアウルルは、まるで楽しんでいるかのように微笑みを深めた。
「ご安心ください。わたくし、すべて察しておりますので」
その瞳は、まるで何もかもを見透かしているかのようだった。
(……何もない)
そう思う。
実際に何もない。
だが……なぜか、否定しきれない妙な圧があった。
言葉にすれば、何か取り返しのつかないことになるような、そんな不気味さ。
やがてアウルルは、すっと一歩下がる。
「では、わたくしはこれで」
優雅に一礼し、そのまま踵を返す。
何事もなかったかのように。
扉が静かに閉じられ、部屋には再び静寂が戻った。
一人残されたアーノルドは、しばらく動けなかった。
(……なんだ、今のは)
理解が追いつかない。
ただ一つ確かなのは……。
この結婚は、普通では終わらない。
そんな予感だけが、胸の奥に重く残っていた。




