第7話-②
出発の準備はそれほど多くなかった。
集落の者達から食料と水を補充させてもらい、テアが知り合いに二、三言挨拶をしていった後、出発した。集落から街道に戻る道筋は夜にも通った道。だが朝の光の中ではまるで別の世界のように見えた。
広場の端でミラが立っていた。
一人でこちらを見ていた。昨夜の血の染みは見えない。別の服に着替えたようだがその服はミラには小さいように見える。おそらくは弟のおさがりだった。
俺はミラの方へゆっくりと歩いていった。
「ミラ」
「お兄ちゃん、もう行くの?」
「ああ。長くいすぎてもここの厄介になるからな」
「私たち、お兄ちゃんを厄介って思ってないよ」
「そう言ってくれると嬉しいよ。ありがとう」
俺は微笑んだ時、少女はこちらを見上げていた。
目の奥に残った虚ろはまだ消えていない。だが、昨夜よりは少しだけ生気が戻っている気がした。夜、眠れたのかはわからない。ただ、子供というのはときどき大人が思うよりしぶといものだ。
「また、ここに来てくれる?」
「今は分からない。でもまたいつか必ず寄るさ」
「うん。覚えててね」
「ああ。また来るのを楽しみに待っとくんだぞ」
そう言いながら俺はミラの頭を撫でた。
「うん。待ってる。それとリオの名前も覚えておいてね。お兄ちゃんが覚えてくれたらリオは消えないから」
十歳が言える言葉とは思えなかった。
だが、それは確かに今、十歳の少女が発した言葉だった。誰にも教わらず、ただ自分の中から出てきた心の痛みを形にしたような言葉であった。
「忘れない。約束する」
「うん。じゃあまたね!」
ミラはそれだけ言って踵を返した。
背中は昨日と同じく小さかった。けれど、その歩みは勇ましく、他者に心配させまいとするオーラを纏っている。それが今の俺に分かる、唯一の救いだった。
イリスがすぐ後ろで何も言わずに立っていた。
イリスはミラに何かを言うこともすることもしなかった。ただ見守り、見送るだけだけ。それが、今の自分にできる精一杯だと彼女は知っていた。
集落を出て、街道を半時間ほど歩いた頃だった。
朝の光はもうなく、周囲は白く照らされていた。風が廃墟の隙間を抜けて頬を撫でていく。三人ともしばらく口を開かなかった。何かを話すにはまだ昨夜の重さが残っていた。
最初に口を開いたのは俺だった。
「テア、昨夜の襲撃についてなんだが...。襲撃してきた魔物は普通じゃなかったよな」
「ええ、私もそう思った」
「最初の十体は囮で、その間に別の連中が家屋へ回り込んだ。そうした動きをするには指揮を取ってる存在がいる。それも相当に頭の回る奴だ」
「やっぱりそうよね。状況に応じて指示を変えているようだったし...」
「それから、もう一つ。北西の建物の屋根にずっと何かがいた」
テアの足がわずかに止まりかけた。だがすぐに何ごともなかったように歩き続ける。彼女もそれに気づいていた、ということだろう。
「気配だけなら私も感じた。でも攻撃はしなかったわ。何か嫌な雰囲気を感じて、触れない方がいいと思ったの」
「俺もそう思う。触らぬ神に祟りなしってか。おそらくあいつが指揮役だろう」
「断言はできない。でもその可能性は高いと思うわ」
「テア、心当たりがあるのか」
テアはしばらく黙っていた。
足を進めながら言葉を選んでいるのが分かる。知っていることの全てをまだ話す気はないらしい。出会った時からずっと変わらない態度だ。
「いくつか、心当たりはあるわ。一つはノクティラ族。影に潜むのが得意な種族で気配を消して観察するああいう動きはあの種族の特徴と一致する」
「種族ぐるみで人間の集落を襲ってるのか」
「種族全体ではないわ。ノクティラ族は主に取引を商売としている種族。表立って人間を襲う動機が彼らにはない。ただ、一部の氏族なら何か別の動機で動いてる可能性があるかもね」
「別の動機。たとえば」
「誰かに依頼された、とか」
「そういう商売をする連中がいるのか、そいつらの世界では」
「珍しくない。ノクティラ族は情報も人手も売る。代金が見合えば人間を襲う仕事も受ける氏族はいる」
「なんだ、商売だけやってる種族かと思ったらやることやってんのか。昔の人間みたいだな」
「同感ね。でも、そういう世界なの」
依頼。
つまり、ノクティラ族の一部が誰かに金か何かで雇われて動いているということだ。だとすれば、本当の指揮役、黒幕は別にいることになる。
「他の心当たりは」
「……それはまだ言えない。こっちの方は確証がないし、口にするとあなたを過剰に警戒させてしまうから...」
「それだけ警戒した方がいい相手なんだろう」
「ええ。だからこそ半端な情報で動いてほしくない。もう少し調べてからにさせて」
俺はそれ以上は追及しなかった。
テアの言葉にはいつも、嘘ではないが全部でもないという含みがあった。それでもこれまで見せてきた信頼は確かなものだった。今はテアのペースに合わせるしかない。
イリスが隣で小さく息を吐いた。イリスもまたテアの態度には何かを感じていたのだろう。だが、口には出さなかった。
日が傾く頃、街道沿いの廃屋で野営することになった。
壁の半分が崩れた小さな建物だが屋根の一部は残っている。風を凌ぐには十分だ。食事の用意は彼女が手早く済ませ、俺とイリスが薪を集めた。役割分担はもう自然に決まっていた。
焚き火を囲んで簡素な食事を終えた頃。焚き火の前でしばらく火を見つめてからテアが口を開いた。
「ロイ。明日、もう少し話しておきたいことがあるの」
「わかった。聞こうじゃないか」
「今夜話そうか思ったのだけれどまだ少し整理できてなくて。明日、ちゃんと頭が整理できた状態で話すわ」
「……分かった。重い話、なんだな」
「まぁ多少、ね。あなたがこれから関わることになる相手の話だから」
「その相手ってのが気になるな。ただ者じゃなさそうだな」
「鋭いわね。でも、続きは明日にさせて」
テアの声はいつもより低かった。
覚悟を決めかけているような響きがあった。自らの過去を振り返って何か、俺たちに話すべき真実を隠さずに話すために整理している。そういう気配だった。
イリスが俺の隣で眠そうにウトウトしている。
聞こえてはいるがそんなに興味のある話ではないということか。だが、イリスもまた明日のテアの話を聞けば何か反応は示すだろう。
夜は静かだった。パチパチと鳴る音と遠くの風の音だけが、今の世界で唯一聞こえる音だった。
そして昨日の今頃は子供が一人生きていた。そのことを俺は決して忘れないと決めていた。
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