029 仕事の依頼
「熊の討伐ってどのくらいかかるのかしら」
ヴィムと別れた後、アデルは何気ない質問をしてしまった。
「熊の賢さによります。噂では人を食ったといいます。人の味を覚えた獣は次の獲物を得る為に知恵を働かせます。油断すると逆に食われてしまいます」
「エミル卿も熊狩りをしたの?」
「ええ、何度か……自分の3倍もある巨体が目の前まで突進したときはさすがに死を覚悟しました。すんでのところで駆け付けた伯爵と他の騎士たちのおかげで命拾いしました」
話を聞くとなかなか凄まじいないようだ。
(熊の話は今度ゆっくりと聞かせてもらおう)
◆◆◆
ジーク男爵家に到着して、執務室に案内された。
「大事な仕事の話で、できれば他家の騎士は席を外していただけないでしょうか?」
ジーク男爵はエミル卿に申し訳なさそうに言った。
「私は主人の命令で奥様を守る義務があります」
どんな理由があろうと、エミル騎士は引き下がる気配がなかった。
困り果てたジーク男爵にアデルは仕方ないとため息をついた。
「エミル卿、お願い。何かあればすぐに大声を出すから」
エミル卿はアデルの言葉でようやく引き下がってくれた。番犬のように執務室の目の前で待機していた。
(やっぱり、少し落ち着かないかも……)
そう思いながら、新しい仕事相手のいる部屋へ入った。
◆◆◆
部屋にいたのは、年配の紳士であった。身につけた衣装から上品さが窺える。
「今回、私の為に時間を作っていただきありがとうございます。アデル・バイエルと言います」
アデルは紳士にカーテシーを披露した。
「ルネ・ジルといいます。メルティーナ共国では主人とともに外交の仕事をさせていただいており、今回は主人の付き添いで参りました」
「メルティーナの方ですか」
意外な場所からの話にアデルは首を傾げた。
(何故、隣国の方が私に仕事の依頼をするのだろうか?)
「今回は辺境伯の招待にあやかり視察へ訪れています。また、辺境伯への協力依頼をしております」
「協力?」
「はい。一年後にメルティーナ共国のご令嬢がオーガストに遊学します。二国の友好の為でもあり王都での貴族たちとの交流も欠かせません。そこで一年はゴート市に滞在し、オーガストでの生活に慣れてもらいます。その間の家庭教師を探していたところジーク男爵があなたを推薦してくださいました」
メルティーナ王国は二十年前の革命により王家が滅び、新政府が立った。貴族と庶民が議会に出て政治を決める共和制だ。
(現在の指導者は貴族派のバルテル公爵だったはず)
アデルは伯爵夫人として学んだ内容を思い出した。
「主人はオーガストに友好的であり、令嬢を是非遊学させたいと願っています」
「とても光栄な話ですが、私に務まるでしょうか」
マーシャへの指導を認められたのは嬉しいが、他国の令嬢の家庭教師は荷が重たい。
(もしかすると私がローゼンバルト伯爵夫人だったというのを知って、社交での協力を求めているのかもしれない)
アデルは困った。
(それだと令嬢にはかえって迷惑になる。だって、私は……)
世間では夫に見向きもされない伯爵夫人だった。
グッとアデルは手を握りしめた。
「そう、堅苦しく考えないでください。令嬢にはオーガストの歴史と風習、貴族の雰囲気などを教えてくださればいいのです」
提示された書類をアデルは目を通す。
一年間、令嬢の教育をすれば次の留学予定の子女の紹介をするという。
貴族だけではなく将来有望な庶民もいる。
「ぜひ、貴族の暮らし、庶民の暮らしを知るあなたに是非依頼したい」
教育はゴース市で行うことなので、ブランから通うことも可能だ。
(待遇はいいわ。正直にいえば受けたい)
だけど、妙に心がざわついてしまう。自分に都合がいいように思えた。
「主人は一週間ゴース市に滞在しております。それまでにお返事を頂ければ、契約を開始させていただきます」
契約するのは保留ということでアデルは書類を持ち帰って考えることにした。
◆◆◆
「とてもいい話だけど、不安なの」
契約の具体的な内容は口にできないが、アデルはエミル卿に吐露した。
「私では何とも言えません。しばらくすれば伯爵が戻ってきます。その時に相談してはどうでしょう」
「そうね……」
答えてアデルははっとした。
(離婚相手に相談するなんて……)
クラウスとは離婚する、家には帰らないと啖呵切ったのに自然と彼に頼ろうとしてしまった。
(これは自分で考えなければいけないわ。一人で生きると決めたのだからクラウスを頼ってはいけない)
アデルはふるふると首を横に振った。




