86.クレスの事情19
その日の夜も、いつものようにブランは自分のベッドで寝ていた。
――よし。寝ているな。
今日は出掛けたし、昼寝もしていないから疲れているだろう。
そう確信して、俺は隣に座っているルビナにそっと身を寄せた。
「ルビナ」
「紅茶、もう一杯飲む?」
「うん……でもそれはあとにする」
「?」
俺のカップが空いていることに気づいてそう聞いてくれる彼女に頷きたいところだが、俺の要望は紅茶のおかわりではない。
「ブランはぐっすり眠っているから、今がチャンスだよ」
どうしたのかと首を傾げた可愛い奥さんの耳元に顔を寄せてそう囁くと、彼女の肩がぴくりと揺れた。
そのまま手を引いてルビナをベッドに誘導し、顎を持ち上げ軽く口づける。
そうすれば俺の言いたいことを理解したルビナの頬が赤く染まった。
本当に可愛い奥さんだ。今すぐ食べてしまいたいが、まだ慣れていない彼女にがっついてはダメだ。
そのままゆっくりと彼女の身体をベッドに横たえさせ、もう一度口づけようとしたところで、足下に気配を感じた。
「…………ブラン」
「わんっ」
なぜだ。
なぜ、こいつは起きてくるのだ!?
ベッドの下で楽しそうにしっぽを振って、混ざりたそうにしている。
ブランが混ざって楽しいことではないのだ。
これは夫婦の時間なのだ。わかってくれ……。
「ブラン、また起きてきたのね」
身体を起こすと、ルビナは「よしよし」と言いながらブランを抱き上げた。
ルビナのなめらかな頬をぺろぺろと舐めるブラン。
「ふふ、くすぐったいわ、ブラン」
「……」
なんて羨ましいんだ。なぜ俺ばかりがお預けを喰らわされるのだ……!
もう、我慢ならん。
「クレス?」
意を決した俺は、ルビナの手の中からブランを抱き上げ、ベッドから離れた。
どうしたのかと不思議そうな視線を向けてくるルビナを置いて、ブランのベッドも持ち、寝室の扉を開ける。
「ちょっと……クレス、どこに行くの?」
「ブランは隣の部屋で寝かせる。これでは夫婦の時間が取れなくなってしまうからな」
「でも……そんないきなり、かわいそうよ」
「躾ければ大丈夫だ。ルビナはブランに甘すぎる……」
そう呟きながらも構わず隣の部屋へと進み、ブランとベッドをそこに置いて寝室へ戻ろうとすると、あとを追ってきたらしいルビナと鉢合わせた。
「いきなり独りぼっちにする気? ブランは親とはぐれてずっと独りだったのよ?」
「と言っても、隣の部屋だ。扉一枚向こうにいるだけだろう?」
「それでもいきなり扉を閉めるなんてダメよ」
「……では、ブランがこっちの部屋で寝るのを待って閉めよう」
はぁ、とため息をついてしまったのがいけなかったのか、ルビナは眉を寄せて少し不満げに俺を見つめた。
「クレス……まさかとは思うけど、ブランにヤキモチを焼いてるの?」
「……」
その問いに何も答えずにいると、それを肯定と受け取ったルビナは更に続けた。
「犬のすることよ? それにブランはまだ子犬なのよ?」
「わかっているさ。わかっているが……」
「いきなり独りぼっちにさせようとするなんて、かわいそうよ……」
「しかし、俺も――」
言い返そうとして、やめた。
俺もかわいそうだとでも言おうとしたのか?
は……、なんと大人気ない。
ブランは俺が拾ったのだし、ルビナの言っていることはわかる。
犬にヤキモチを焼いているわけではない。しかし、俺とルビナの時間が……。
自分がかわいそうだとは思わないが、俺も寂しかったのだ。
しかしそれは、あまりにも子供っぽい我が儘だ。
フランツ様のこともあり、一度ルビナを知ってしまった俺はまた何度でも彼女との愛を確かめたくなってしまっていたのだ。
……いや、違う。やはり俺もただの男だ。
ただルビナが欲しいだけだ。
「すまない、俺が間違っていた」
「……おいで、ブラン。よしよし、いい子ね」
「……」
きょとんとした顔で俺たちを見上げ、ルビナを選んで足下に懐いていくブランは、彼女に抱きかかえられてぺろぺろと頬を舐めた。
「……」
ルビナはそれ以上何も言わない。俺に呆れているのだろう……。
自分があまりにも情けなくなり、ルビナにどんな顔を向けたらいいのかわからなくなった俺は、先に一人寝室へと戻った。
ベッドに腰を下ろし、深く息を吐く。
扉が開いたままの隣の部屋から、ルビナが出て行った音が聞こえる。
「……」
こんな俺に嫌気が差したから、今夜はブランと自分の部屋で寝るのかもしれない。
これでは本末転倒だ。
俺はルビナと一緒にいられるだけで幸せだったのではないのか?
それなのに、欲を出しすぎてしまった。彼女を失っては意味がないというのに。
「はぁ……」
しかし、ルビナのことになるとたまに冷静でいられなくなる時がある。
修行が足りないな……。
そう思いながら、今夜は一人で寂しく眠ってこれを期に反省しようと布団に身を入れ、切ない気持ちで枕に頭を沈めていたら、少ししてルビナの気配がした。
戻ってきてくれたのかと、嬉しくなってガバッと勢いよく身体を起こす。
「ルビナ……!」
しかし、その腕の中にブランの姿はない。
「……ブランは?」
「メリが見てくれているわ」
「え?」
静かに答えてこちらへ歩いてくるルビナは、そっとベッドに腰を下ろして真っ直ぐに俺を見つめた。
「ブランは今夜、メリの部屋で寝るの」
「……しかし、君と一緒じゃなければブランが悲しむだろ」
「あの子はメリにも懐いているから、大丈夫よ」
確かに、俺たちが日中働きに行っている間、主にメリがブランの世話をしてくれているらしいのだが――。
「でも私の旦那様は、私じゃないと悲しむみたいだから」
「ルビナ……」
そう言って微笑んだ優しい笑顔に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
怒らせてしまったと、呆れてしまったのだと、思っていたのに。
「……そうだ。俺はルビナにしか懐かん」
「ふふ、なによ、それ」
言ってから、子供みたいなことを言ってしまったと後悔する。
だがその恥ずかしさは彼女を力強く抱きしめて誤魔化すことにした。
「すまない、わかっているんだ。ブランは俺が拾ったのだし、俺だってちゃんと可愛いと思っている。それなのに君とブランを悲しませるようなことをしてしまった」
改めて謝罪の言葉を述べると、ルビナの細い指先が口元に伸びてきて、シーっと黙らせるように優しく俺の唇に触れた。
「わかっているわ。私も気持ちは貴方と同じよ? それに、ブランも可愛いけど……やっぱり私が一番可愛いと思っているのは貴方よ、クレス」
「……」
「ね? 旦那様」
少しだけ恥ずかしそうに頬を染めて、ルビナは色っぽく微笑んだ。
ふっくらとした唇に目がいく。胸が高鳴り、身体が熱くなる。
「今夜は……ブランはメリと寝るんだな? 戻ってこないんだな?」
「そうよ」
つまり、今夜は久しぶりに本当に二人きりということだ。
「ルビナ……」
反省しようと思っていたところだったのに。
こんなに嬉しいご褒美を目の前にされて、大人しく待てできるほど俺はできた男ではないのだ。
「すまない……ありがとう、ルビナ」
だからその言葉だけを伝えると、彼女の返事も待たずに唇を重ねた。
寸前、何か言おうとしていた彼女の言葉は俺の唇で飲み込んで、何度も角度を変えながら夢中でルビナのやわらかな唇を堪能した。
堂々として見えても、ルビナの肌からはドクドクと高い鼓動が伝わってくる。
彼女も俺と同じ気持ちなのかもしれないと思うと嬉しくて、感じる体温が愛おしくて、もっともっと深く彼女を自分で満たしたくなる。
「……」
俺のものだと確かめるように一方的に重ねていた唇を離し、代わりに額を合わせて彼女の熱をはらんだ表情を見つめた。
「ルビナ……」
結局この先を急いてしまっている自分の身体をなんとか抑え、嫌な顔をしていないだろうかと確認するように名前を呼ぶと、上目遣いで俺を見上げたルビナから、ゆっくりと、優しく触れ合うような口づけが送られた。
「……」
「好きよ、クレス」
それはまるで、愛を誓うような口づけだった。
彼女の可愛らしい唇から溢れた短い言葉は、魔法のように俺の心をあたためる。
……ああ、もしもルビナが俺に魅了魔法をかけていたとしても、こんなに愛しい気持ちを教えてくれるのなら、それでも構わない。
だが、その魔法をかける相手は俺だけにしてくれ――。
その優しいぬくもりが却って俺から熱を引き出した。
もっと君が欲しくなってしまう。俺だけのものにしたいと、強く願ってしまう。
……ダメだな。俺はとことん君のことが好きなようだ。
サブタイトル→初めての喧嘩。
喧嘩でもさせてみようかと思ったけど、ただただ甘イチャになった!笑




