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『残響の夜に、断れなかった』  作者: こうた
第3章 「収監された朝」

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第33話「母の沈黙」

面会の日は雨だった。



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朝から空気が湿っている。



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窓の向こうは灰色で、


光も鈍かった。



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午前作業の途中、


職員が相沢を呼ぶ。



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「302、面会」



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最近は番号で呼ばれることにも慣れた。



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だが“面会”という単語だけは、


まだ胸を揺らす。



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廊下を歩く。



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足音だけが響く。



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面会室の前で、


相沢は一度だけ深呼吸した。



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扉が開く。



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母親が座っていた。



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前に会った時より、


少し小さく見える。



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髪も短くなっていた。



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相沢は向かいに座る。



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透明板越し。



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受話器。



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母親は笑おうとする。



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だがうまく笑えていない。



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「元気?」



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いつもの言葉。



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相沢は頷く。



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「うん」



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会話が止まる。



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昔なら、


母親はもっと喋る人だった。



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近所の話。



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テレビの話。



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季節の話。



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だが今は、


言葉を選んでいる。



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“普通の会話”を壊さないように。



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母親が小さく言う。



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「暑くなってきたね」



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相沢は窓のない施設を思い出す。



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自分は最近、


季節を温度でしか感じていない。



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「そうだね」



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また沈黙。



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受話器越しの息遣いだけが聞こえる。



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母親は何か話そうとして、


やめる。



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たぶん、


妹のこと。



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父親のこと。



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近所のこと。



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言いたいことは山ほどある。



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だが、


どれも“ここで言うべきではない”気がしている。



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母親が急に尋ねる。



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「ちゃんと眠れてる?」



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相沢は少し考える。



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眠っている。



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でも、


休めている感じはしない。



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「大丈夫」



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そう答えるしかなかった。



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母親は頷く。



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そして、


少しだけ視線を落とした。



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その瞬間、


相沢は気づく。



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母親は泣かないようにしている。



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表情で分かる。



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声が少しだけ不自然だった。



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母親は続ける。



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「家は変わってないから」



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「いつでも……」



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そこで止まる。



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“帰ってきていい”。



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たぶん、


そう言おうとした。



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だが言えなかった。



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刑期。



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事故。



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世間。



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全部がその言葉を止めている。



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相沢は受話器を握る。



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何か言わなければと思う。



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謝罪。



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感謝。



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だが、


どれも軽く感じた。



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結局、


小さく言う。



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「ごめん」



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母親はすぐ首を振る。



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「体だけ気をつけて」



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それだけだった。



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面会終了の時間。



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職員が合図を出す。



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母親は立ち上がる。



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最後まで泣かなかった。



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ただ、


去る直前に一瞬だけ、


ひどく疲れた顔をした。



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扉が閉まる。



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相沢はその場に少し残る。



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母親は強いのではない。



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壊れないように、


必死で静かにしているだけだ。



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房へ戻る。



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雨の音は聞こえない。



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それでも今日は、


世界全体が湿っている気がした。



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夜。



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消灯。



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暗闇の中、


相沢は母親の沈黙を思い出す。



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泣かなかったこと。



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何も責めなかったこと。



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それが逆に苦しかった。



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怒りは終わりがある。



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だが、


静かな優しさには終わりが見えない。



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相沢は目を閉じる。



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そして思う。



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家族は時々、


言葉ではなく、


“黙って壊れない努力”で愛情を示すのだった。

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