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『残響の夜に、断れなかった』  作者: こうた
第3章 「収監された朝」

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第20話「夏の匂いがしない場所」

六月の終わり。



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施設の空気が少し変わり始めていた。



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廊下の温度。



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窓から入る光。



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職員の制服の汗。



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夏が近づいている。



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だがここでは、


その変化が薄い。



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外の世界なら、


もっと匂いがあった。



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熱されたアスファルト。



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コンビニの冷気。



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夕立の湿気。



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虫の音。



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季節には、


本来“身体で感じる情報”がある。



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しかしここでは、


全部が壁に遮られる。



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朝。



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点呼。



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返事。



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移動。



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作業場へ向かう途中、


窓が少しだけ開いていた。



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外気が入る。



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暖かい風。



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湿った空気。



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その瞬間、


相沢の中で何かが揺れる。



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夏の匂いだった。



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ほんの一瞬。



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だが、


懐かしさが異常なほど強い。



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事故前。



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夏の夜。



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仕事終わり。



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コンビニ前で飲む缶コーヒー。



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友人とのくだらない会話。



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そんな記憶が、


匂いだけで戻ってくる。



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だが窓はすぐ閉じられる。



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空気が止まる。



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管理された温度。



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消毒液の匂い。



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現実へ戻される。



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午前作業。



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相沢は集中できなかった。



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“夏”という感覚だけが、


頭の中に残っている。



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外では今頃、


海へ行く人がいる。



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祭りの予定を立てる人がいる。



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学生は夏休みを待っている。



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そんな時間が、


同じ世界で進んでいる。



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しかしここでは、


夏も管理番号の一部になる。



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昼休み。



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テレビでは、


天気予報が流れていた。



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「今年一番の暑さ」



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キャスターが笑いながら話している。



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その笑顔を見て、


相沢は少しだけ違和感を覚える。



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暑さを“季節の話題”として聞ける場所。



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それがもう、


遠い世界に見える。



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午後。



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作業場の隅で、


誰かが小さく言う。



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「今年も花火あるんかな」



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別の誰かが答える。



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「さあな」



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会話はそれで終わる。



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だがその短いやり取りだけで、


相沢の胸が少し痛む。



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花火。



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去年の夏は、


まだ外にいた。



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事故前だった。



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まだ“来年も普通に夏が来る”と思っていた。



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人間は、


日常が続く前提で生きている。



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だが実際は違う。



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たった一つの判断で、


次の季節に立てなくなる。



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夕方。



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房へ戻る。



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窓の外が赤く染まっている。



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夏前の夕焼け。



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相沢はそれを見ながら、


ふと思う。



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今年の夏、


自分の不在にも周囲は慣れていく。



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会社。



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友人。



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家族。



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最初は空席だった場所も、


少しずつ自然になる。



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そして来年には、


もっと自然になる。



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夜。



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消灯。



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暗闇。



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遠くで虫の音が聞こえた気がした。



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気のせいかもしれない。



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だが相沢は耳を澄ませる。



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外には夏がある。



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風があり、


湿気があり、


夜の匂いがある。



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しかしここでは、


その全部が薄い。



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季節だけが、


壁の向こう側で進んでいく。



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相沢は静かに目を閉じる。



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人は自由を失うと、


行動が制限される。



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だがそれ以上に、


“季節の中で生きている感覚”を失っていく。



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そしてその感覚が薄れた時、


人は少しずつ、


世界の外側へ置いていかれるのだった。

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