第2話「帰ると言えない空気」
店内の時間は、最初の一杯からほとんど動いていないように見えた。
グラスはすでに二周目に入っている。誰が何杯目か、もう誰も数えていない。
「なぁ相沢、今日さ、もう一軒行かね?」
隆が当然のように言う。
相沢は一瞬、言葉を探した。
明日、現場がある。朝も早い。会社では酒の件でまた注意を受けたばかりだ。
頭では分かっている。
それでも口が動かない。
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「いや、明日ちょっと早くてさ…」
そう言った瞬間、空気が一段変わった。
一瞬だけ、音が減る。
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健が笑う。
「え、帰るの?」
直樹がコップを置く。
「まだ9時だぞ」
翔が椅子を揺らす。
「最近ほんと真面目だな、お前」
優斗は何も言わない。ただ一口飲む。
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その沈黙が、逆に重い。
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「仕事大変なんだろ?」
隆が笑いながら言う。
「でもさ、こういうのも付き合いだろ」
その“付き合い”という言葉が、逃げ道を塞ぐ。
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相沢はスマホを握ったまま動かない。
画面には母からのメッセージがまだ残っている。
「ちゃんと帰るの?」
既読のまま。
返していない。
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「一杯だけでもいいじゃん」
健がグラスを押し出す。
「な?」
その“な?”に意味はない。
同意しか許さない形になっている。
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相沢は息を吐くように笑ってしまう。
「……じゃあ、一杯だけな」
その瞬間、空気が戻る。
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「ほらな」
「最初からそう言えよ」
「真面目かよ」
笑い声が戻る。
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追加の酒が頼まれる。
一杯だけのはずだったグラスが、また満たされていく。
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相沢は気づいている。
ここでは“帰る”という言葉は存在しない。
言った瞬間、何かが壊れる。
だから誰も言わない。
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時計だけが少し進む。
でも誰も見ていない。
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そしてまた、
次の乾杯が始まる。
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