第1話 「乾杯の位置」
薄い油の匂いが染みついた居酒屋「たけちゃん」は、今日も同じ顔ぶれで埋まっていた。
暖簾をくぐった瞬間、主人公・相沢 恒一は軽く息を吐いた。来たくて来ているわけではない。それでも断れない理由が、この場所にはあった。
「おう、遅ぇじゃん」
カウンター奥から、隆が手を上げる。地元で一番声の大きい男だ。隣には健、直樹、翔、そして無言でグラスを回す優斗。いつもの5人が揃っている。
「仕事、ちょっと押しててさ」
そう言いながら席に座ると、すぐにグラスが置かれた。
「とりあえず乾杯な」
健が勝手に瓶ビールを注ぐ。泡が溢れても誰も気にしない。
「遅れた分な、ちゃんと飲めよ」
隆が笑う。その笑いに逆らえる空気はない。
相沢は小さくうなずき、グラスを持ち上げた。
「乾杯」
喉に流し込む。冷たいはずの酒が、少しだけ重い。
この瞬間だけはいつも同じだ。
楽しいわけではない。ただ、ここにいれば“外されない”。
それだけが理由だった。
「最近さ、後輩に抜かれた奴いるらしいぞ」
直樹が笑うように言う。
「資格取ってないと、今の時代きついよな」
「相沢、お前もそろそろやばくね?」
健がからかうように言う。
相沢はグラスを置いたまま答えない。
分かっている。
会社では何度も言われている。
“資格を取れ” “酒を控えろ” “生活を見直せ”
それでも、今日もここにいる。
店の奥で笑い声が重なる。
誰かが追加の酒を頼む。
「まだ一杯目だろ?」
「今日は帰れねぇぞ」
その言葉に、誰も違和感を持たない。
むしろそれが“いつも通り”だ。
相沢はふと、スマホを見る。
母からのメッセージ。
「ちゃんと帰るの?」
既読だけつけて、返さない。
グラスがまた満たされる。
「はい次な」
健が笑う。
隆がうなずく。
優斗は何も言わないまま飲む。
この夜が、どこまで続くのかは誰も考えていない。
ただ一つだけ確かなのは、
相沢は今日もここから抜け出せないということだった。




