第九話「魔力回復の発見」
仮説を立てたなら、検証しなければならない。
それが醸の流儀だった。前世でも同じだった。「このホップを使えば香りが出る気がする」という感覚的な判断を、データと試作で裏付けてから商品化する。感覚と科学を両輪にして走る——それが醸の醸造哲学だった。
クリームエールの実験で得た仮説は、こうだ。
上面発酵酵母が生成する物質が、魔力回路に作用する可能性がある。
証明するには、変数を絞る必要がある。クリームエールはラガー酵母とエール酵母の両方を使っていた。だから「どちらの酵母が魔力に作用したのか」が不明だ。次のステップは明確だ——エール酵母だけで造ったビールを、リーナに飲んでもらう。
「どんなビールを造るんですか」
翌朝、工房に来たリーナが聞いた。前回のクリームエールの体験以来、彼女の目に「期待」という感情が加わっていた。それまでどこか自分の限界を諦めていた目が、少し前を向き始めていた。
「ゴールデンエールです」醸は麦芽を量りながら答えた。「エール酵母だけを使った、一番シンプルなエールビール。余計なものを入れない。ベースを確認するために、まず最もシンプルなものを造ります」
「シンプルにするのは、なぜですか」
「変数を最小にするためです。複雑なレシピだと、どの要素が効果をもたらしたのかわからなくなる。まず純粋なエール酵母の作用を確かめてから、次の応用に進む」
リーナは頷いた。「……醸さんって、感覚よりも実験が好きそうですね」
「どちらも好きです。ただ、証明されていない感覚は他人に届かない」醸は少し間を置いた。「あなたの魔力不足が本当に改善できるなら、証明しなければ誰も信じない。信じてもらえなければ、他の魔法使いを救えない」
リーナはしばらく黙っていた。
「……他の魔法使いも、ですか」
「魔力保有量が少ない魔法使いは、リーナさんだけじゃないはずです。もしエールが本当に魔力回路に作用するなら——それは王国中の魔法使いにとって意味があることになります」
リーナの目が、少し潤んだように見えた。しかしすぐに前を向き、「わかりました」と短く言った。
ゴールデンエールの仕込みは、午前中に終わった。
麦芽はヘレス用の淡色モルトを使い、ホップはギガントホップを控えめに——IBUは二十前後を目標にする。シンプルな構成だが、使うのはエール酵母だけだ。前回培養したサッカロミセス・セレビシエ系の野生株を、主役にする。
投入温度は二十二度。工房を暖かく保つよう、バルトマンが薪の量を調整してくれた。テスが温度計を手に持ち、「発酵温度、二十一・八度、誤差範囲内です」と報告する。
一時間も経たないうちに、発酵容器の表面に変化が現れた。
泡が出ている——それだけではない。ラガーのときの静かな泡立ちとも、クリームエールのときのモコモコした泡とも違う。もっとダイナミックに、勢いよく白い泡が盛り上がり、工房全体に広がる香りが変わった。
「——甘い!」リーナが思わず声を上げた。「なんか、すごく甘い香りがします。フルーツみたいな」
「エステルです」醸は言った。「エール酵母が発酵するときに出す香り成分です。アイソアミルアセテートといって、洋梨や青リンゴに似た香り。ラガー酵母はこれをほとんど出しません。エール酵母だけが持つ個性です」
テスが手帳に書き込んだ。「エステル——発酵の副産物。魔力作用の候補物質?」
醸は微かに笑った。テスは常に仮説を立てている。
七日後。
発酵が落ち着き、液体が澄んでいく。ゴールデンエールは名前の通り、黄金色の中に僅かに橙がかった光を帯びていた。ラガー系の冷たい黄金とは違う、温かみのある黄金——太陽の色に近い。
テスが最終の温度と比重を記録した。「発酵度:七十三パーセント、アルコール度数推定四・二パーセント。問題なしです」
「よし、瓶に詰めます」
栓を抜く前に、醸は少量をカップに注いで自分で先に確認した。
口に含む。
ラガーとは全く違う飲み心地だった。泡が少し荒削りで、舌に触れる感触が柔らかい。麦の甘みがラガーより豊かに残り、エステルのフルーティさが鼻腔をふわりと抜けていく。ホップの苦みは穏やかで、後口に余韻が長く残る。
これは——何か違う。
醸はその「違い」を言語化しようとした。ラガーを飲んだときには感じなかった、肉体ではなくもっと内側、脳か心臓のあたりに何かが温まるような感覚。前世で疲れ果てた夜にエールビールを一杯飲んだとき、ふと気力が戻ってくる感じ——それに似ていた。
「リーナさん、飲んでみてください」
醸はカップを差し出した。
リーナは両手でカップを受け取り、鼻に近づけた。
「……甘い。クリームエールより、もっとフルーティな匂い」
「飲んでください。ゆっくりでいい」
リーナはそっと口をつけた。一口。
何も起きなかった。
二口。
まだ何も。
三口目——
「っ……!」
リーナの体が、微かに震えた。
カップを持つ手がわずかに揺れる。醸は身を乗り出した。テスも発酵記録から顔を上げた。バルトマンが窓の外から顔を覗かせた。
リーナの目が大きく開いた。
「な——なんか、来ます。胸の中から、何かが——」
「落ち着いて」醸は静かに言った。「ゆっくり呼吸してください」
しかしリーナの体は、醸の言葉を待たなかった。
光が走った。
リーナの体の輪郭に沿って、淡い青白い光が一瞬だけ迸った。瞬間だけの、しかし見間違えようのない光。工房の窓から入り込む午後の陽光とは全く異なる、魔力特有の発光だった。
「あっ、あっ——!」
リーナは立ち上がろうとして、膝が震えた。醸が咄嗟に肩を支える。
「ど、どうなってるんですか、これ——!」
「魔力が急激に回復しています。慌てないで、意識は?」
「あります、あります。でも——体の中が熱い。胸の中に、何かが流れ込んでくる感じがして——止められない——」
リーナは右手を前に出した。普段なら五秒ほどかけて集まる魔力が、今は一秒も経たずに指先に集中していた。光の粒が渦を巻き、制御しきれずに四方八方に小さく散った。一つが壁に当たり、パン、と乾いた音を立てた。
「魔法陣を展開してください」醸が言った。「魔力を形にして逃がす」
「で、でも私、大きな魔法陣は展開できなくて——」
「今は出来るかもしれない」
リーナは両手を前に出した。いつもは薄ぼんやりとしかできない魔法陣の輪郭が——今日は鮮明だった。光の線が走り、幾何学的な文様が空中に描かれる。リーナが息を呑む音が聞こえた。
「——見えます。魔法陣が、はっきり見える!」
テスが「す、すごい……」と呟いた。
魔法陣は三十秒ほど輝き続け、やがて魔力が落ち着くにつれて静かに消えた。リーナは深く息を吐き、その場にへたり込んだ。醸がすぐに傍に寄った。
「大丈夫ですか」
「……大丈夫、です。でも——」
リーナは自分の手のひらを見つめた。普段、触れようとしてもぼんやりとしか感じられない魔力の流れが、今は指の一本一本に確かに感じられる。細い川だったものが、太い川になったような感覚。
「……こんなの、初めてです」
声が、震えていた。
「魔力が満ちるって——こういう感覚だったんですか。ずっと、教科書に書いてある説明が実感として分からなかった。他の魔法使いが当たり前のように感じているものが、私だけ感じられなかった——それが今、わかる」
リーナは眼を閉じた。
静かに、静かに、一粒の涙が頬を伝った。
醸は何も言わなかった。テスもバルトマンも黙っていた。工房に、穏やかな沈黙が流れた。
しばらくして、リーナが顔を上げた。目が赤い。しかし表情は、これまでで一番落ち着いていた。
「……泣いてしまいました。すみません」
「泣いていい場面です」バルトマンが窓の外から穏やかに言った。「七十年生きてきたが、そういう顔は久しぶりに見た」
「リーナさん、今の状態を確認させてください」醸はメモ帳を取り出した。「魔力量は感覚的にどれくらい回復しましたか」
「……半分か、それ以上は。普段の倍くらい?感覚でしかわからないですが」
「暴走の感覚は続いていますか」
「今は落ち着いています。最初だけ急激すぎて——慣れれば制御できそうです」
「副作用は?頭痛、吐き気、倦怠感」
「ないです。むしろ、すっきりしてます」
醸は手帳に書き込んだ。
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【ゴールデンエール試飲実験・記録】 対象:リーナ・フォーゲル(魔法使い・B級冒険者・魔力保有量少) 使用ビール:ゴールデンエール(エール酵母単独・IBU20・度数4.2%) 観察結果: 摂取後三口目から魔力回路への作用発現。体表への魔力放出(発光現象)を確認。魔法陣展開能力が一時的に向上(推定二〜三倍の鮮明度)。魔力量:通常比一五〇〜二〇〇%まで急激に回復。持続時間:現在観察中。副作用なし。結論:エール酵母(上面発酵)由来のビールは、魔力回路に直接作用し、魔素の取り込み量を増大させる。 仮説確定。ラガー=HP回復。エール=MP回復。これが異世界での醸造法則の基本軸となる。
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醸はメモを書き終えてから、リーナを見た。
「これで一つ、法則が決まりました」
「法則、ですか」
「ラガービール——下面発酵——は肉体に作用してHPを回復させる。エールビール——上面発酵——は魔力回路に作用してMPを回復させる。これが、この世界でのビールの基本原理です」
リーナはその言葉をゆっくりと噛み締めた。
「じゃあ、エールをもっと造れば——魔力が少ない魔法使いでも」
「改善できる可能性があります。まだ一例だから断言はできないが——次の目標は、エールをより多く、より安定して供給することです」
テスが手帳を閉じながら言った。「醸さん、もう一つ気になることがあります」
「何ですか」
「クリームエールのときは、効果が『少し』だった。今日のゴールデンエールは『暴走するほど』だった。同じエール酵母なのに、この差はどこから来るんですか」
醸は少し考えた。テスの観察眼は鋭い。
「ラガー酵母がエール酵母の作用を阻害——あるいは希釈していた可能性があります。純粋なエール酵母だけにすることで、魔力への作用が集中した」
「つまり、混ぜないほうがいい?」
「魔力回復が目的ならそうです。ただし——」醸は窓の外を見た。「エールとラガーをあえて組み合わせることで、HP・MPの両方に少しずつ作用する『万能型』のビールを造ることも考えられる。用途によって使い分ける」
テスはまた手帳を開いた。「じゃあ次のビールは——」
「少し待ってください」醸は笑いながら言った。「まず今のゴールデンエールをギルドに届けることが先です。魔法使いの仲間たちに、早く飲ませてあげましょう」
リーナはゆっくりと立ち上がり、両手を見つめてから空に向けた。指先に、小さな光を集めてみる。
すっと、集まった。
今日の夕暮れまで、その感触が消えないと、リーナは確信していた。
夕方、ガルドが工房に現れた。醸が「ビールの法則について話がある」と使いを出していたからだ。
「ラガーが体、エールが魔力——そういうことか」ガルドは大きな腕を組んだ。「つまり、うちのギルドには両方を揃える必要があるな」
「そう考えています。回復薬代わりのラガーと、魔力回復薬代わりのエール。二種類を常備できれば、冒険者の戦力が格段に上がります」
「エールの量産は?」
「クリームエールが十日で出来る実績があります。ゴールデンエールもほぼ同じ。ラガーより圧倒的に速い。ただ——」醸は少し間を置いた。「設備が足りません。発酵容器がもっと必要だし、工房も手狭になってきました」
ガルドはしばらく黙って考えた。
「醸造所、作るか」
「……本気ですか」
「ギルドが費用を出す。場所もここより広いところを確保する」ガルドは立ち上がった。「ビールが王国に必要なものだと、あの酒場の夜に確信した。だったら、やるなら本気でやれ」
醸はガルドを見つめた。豪快で、真っ直ぐで、一度信じたら全力で動く男だ。
「バルトマンさんの工房はどうします。彼がいなければ今日まで来られなかった」
「その老職人も連れていけばいいだろう。工房は彼に任せて引き続き使いつつ、新しい醸造所もギルドが支援する——両輪で回す」
醸はメモ帳を開いた。
やることが、また増えた。しかしそれは、確実に前に進んでいる証だった。
リーナが工房の入口で聞いていた。空に向けた右手の指先に、小さな光がまだ灯っていた。




