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異世界「ホップ物語」~醸造家の異世界転生その2~  作者: 麦汁酵生
転生と始まり

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10/10

第十話「醸造所の誕生」

開店の日は、醸がこの世界に転生してから数えて、ちょうど五十日目だった。

バルトマンの工房が変わっていた。

外観は変わらない。赤みがかった石積みの壁、錆びた麦穂の看板。しかし看板の下に、新しい板が取り付けられていた。ガルドが職人に頼んで彫らせた木製の板に、テスが手書きで緑の文字を入れた。

「HOP BREWERY ―ホップ・ブリュワリー―」

看板の横には、ダンジョンから採取されたギガントホップの蔓が飾られていた。緑と黄金色の花穂が、朝の風に揺れている。

工房の内部は、ガルドが手配した大工が二週間かけて改装していた。一階の奥が醸造スペースになり、銅製の大鍋が二つ並び、発酵樽が六本並んでいる。温度管理のために石造りの地下室も掘り下げられ、ラガーの低温熟成に対応できるようになった。二階はテスの作業室と醸の居室、バルトマンの部屋に分けられた。

使える設備も、原料の供給体制も、五十日前とは比較にならない。

醸は朝一番に工房の前に立ち、しばらく新しい看板を見上げた。

ここまで来た。

胸の中に、静かな充実があった。前世で会社の新商品を市場に出した日の達成感に似ているが、それより遥かに深いものがある。設備も、資金も、仲間も——すべてがゼロから積み上げてきたものだからだ。


開店の日に向けて、醸は一週間前から新しいビールを仕込んでいた。

アメリカン・ペールエール。

エール酵母を使い、ギガントホップを今までで最も大量に投入するビールだ。煮沸開始時に苦味用のホップを入れ、中盤にも追加し、煮沸終了直前に香り用のホップを大量に——これを「レイトホッピング」という——投入する。さらに発酵が終わった後の熟成段階でも、生のホップを直接タンクに加える「ドライホッピング」を行う。

目標はひとつ、ホップを限界まで引き出すことだ。

「醸さん、今回はホップの量が普通の三倍ですよ」テスが計量しながら言った。「IBUが四十五を超えます。苦くないですか」

「苦いです。でもその苦味に意味がある」

醸は鍋を火にかけながら答えた。「ホップの苦味成分——イソアルファ酸は、この世界では浄化属性を持つ可能性があります。第一話でスキルが示した『浄化属性の素地』という言葉が、ずっと頭に引っかかっていた」

テスの手が止まった。「浄化……って、呪いに関係しますか」

「まだ仮説です。でも——」醸は沸き上がる麦汁を見つめた。「ホップを大量に使うことで、その作用がより前面に出てくるかもしれない。それを確かめるためにも、今日は全力でホップを使います」

テスは頷き、計量を再開した。

ホップを投入した瞬間、工房が爆発するような香りに包まれた。柑橘、松脂、熱帯果実、ハーブ——ギガントホップの複雑なアロマが一気に解放されて、窓の外まで漂い出した。路地を歩いていた近所の住民が足を止めて、「何の匂いだ」と工房の方を見た。

バルトマンが目を細めながら鍋の傍に寄ってきた。

「……いつもより、ずっと鮮烈じゃな。草の匂いが強い」

「これがホップの本気です」醸は言った。「今まで抑えていたものを、今日は解放します」


七日後、ドライホッピングを終えたアメリカン・ペールエールを瓶詰めした。

色は前のゴールデンエールより一段深い、琥珀がかった黄金色。光を当てると、赤みと金が交差する複雑な輝きがある。栓を開けた瞬間の香りが——これまでのどのビールとも違った。爆発的に、柑橘と松脂と草の香りが広がる。工房全体が、一瞬でホップの庭になったような錯覚を覚えた。

「うわあ」

リーナが工房に入ってきた瞬間、その香りに顔を覆った。しかし嫌そうではない——目が輝いている。「なんですかこれ、外まで匂いがしてました」

「アメリカン・ペールエールです。今日の開店に合わせて造りました」

醸はカップに注いだ。液体に白い泡が盛り上がり、香りが二倍になった。

「試飲してください」

リーナはカップを受け取り、一口飲んだ。

次の瞬間、目を見開いた。

「——っ!香りが、口の中でも広がる……!苦い、けど、後からくる柑橘の香りが——これはゴールデンエールとは全然違う」

「苦味が先に来て、香りが後から追いかけてくる。それがペールエールの飲み方です」

リーナは続けて飲んだ。カップを半分ほど飲み干したところで、静かに目を閉じた。

「……また魔力が回ってます。ゴールデンエールと同じ感覚。でも——」

「でも?」

「なんか、違う感覚が混ざってます。胸の奥というより、もっと表面。体全体を薄い膜が覆うような……」リーナは自分の腕を見た。「呪いの重さが、少し薄れた気がします」

工房が静まり返った。

醸はメモ帳を手に取った。手が、かすかに震えていた。

________________________________________

【アメリカン・ペールエール試飲記録】 MP回復作用:ゴールデンエールと同等以上。新作用:体表に薄膜状の魔力防護が発生する感覚あり。対象者は「呪いの重さが薄れた」と報告。 仮説:高IBU(高ホップ苦味)が、黄昏の呪いに対して軽微な抵抗作用を発揮している可能性。 要検証:IBUをさらに高めた場合の効果変化。ホップ量と浄化作用の相関関係。 【鑑定(醸造)】による素地評価:「浄化属性の素地を持つ」——この言葉と一致する可能性が高い。

________________________________________


「醸さん」テスが真剣な顔で言った。「もしかして、ホップをもっと使えば——呪いが解けるかもしれないんですか」

「今日の段階では『かもしれない』でしかない」醸は答えた。「でも、目指すべき方向は見えた気がします」

その言葉を、バルトマンが工房の隅で聞いていた。白髪の老人は静かに頷き、工房の石壁に手を触れた。七十二年間、パンを焼き続けた壁。そこが今日から、ビールを醸す場所になる。


開店の刻限は昼過ぎ。

ガルドが冒険者ギルドの面々を連れてやってきた。リーナが先に来て醸の隣に立っている。テスが新しい前掛けをして、発酵室の前に誇らしげに立っていた。

バルトマンが工房の入口に立ち、全員を迎えた。

「みなさん、ようこそ」老人の声は穏やかだった。「ここは七十年間パンを焼いた場所でした。これからは——ビールを醸す場所になります」

バルトマンは工房の奥に目をやった。銅の鍋、並んだ発酵樽、石造りの地下室。かつて大量のパン生地と格闘した窯は改装されて、今や醸造の火を宿している。

「わしには子どもがおらん。弟子も取らなかった。廃業しようとしていたこの工房が——こんな形で続くとは思わなかった」

老人の目が潤んでいた。しかしすぐに微笑んで、手を振った。

「さあ、飲みましょう」


ガルドが大きな声で言った。

「醸造師!開店の一杯を頼む!」

醸は大樽の蛇口を開けた。アメリカン・ペールエールが、黄金色の流れになってジョッキに注ぎ込まれる。泡が盛り上がり、香りが工房に満ちる。次々とジョッキが差し出され、次々と注がれていく。

全員のジョッキが満ちたとき、ガルドが腕を上げた。

「乾杯!」

「乾杯!」

石壁にジョッキが当たる音が重なり、工房に響いた。

醸は自分のジョッキを口に当てた。柑橘と松脂のアロマが鼻腔を満たし、エール酵母の柔らかなフルーティさと、ホップの鮮烈な苦味が舌の上で広がる。その後に来る長い余韻——草と果実と、この世界のギガントホップだけが持つ、野性の複雑さ。

うまい。

今まで造ったどのビールよりも、香りが豊かで、飲み干した後の充実感が深い。

「——醸造師」

ガルドが隣に立っていた。ジョッキを半分空けた大男が、珍しく穏やかな声で言う。

「俺は一ヶ月前まで、あの臭い花が宝物だとは思いもしなかった。腰痛が治るとも思わなかった。冒険者たちがあんな顔で笑うとも思わなかった」ガルドは工房の中を見回した。「全部、お前が来てから変わった」

「皆さんが動いてくれたからです」醸は答えた。「私は造るだけでした」

「それが一番難しいんだ」ガルドは豪快に笑った。「いいものを造れる人間は、世の中に少ない。大事にする」


テスはその日の夕方まで発酵室にいた。開店の騒ぎが一段落してから、一人で樽の前に座り、手帳に今日の記録を書いていた。温度、香り、色、泡の様子——そして欄外に、自分の感想を書いた。

「今日、私は醸造師になった気がした。まだ弟子だし、できることは少ない。でも、この場所で醸されるビールは絶対に世界を変える。私はそれを、データで支えていく。」

リーナは開店の夜、醸が一人で外の石段に座っているのを見つけた。夜風の中で、ジョッキを持ったまま星を眺めている。

「隣、いいですか」

「どうぞ」

リーナは隣に座った。二人は夜空を見上げた。黄昏の呪いの影響か、この世界の星は前世より少しくすんで見える。それでも、数えきれないほどの星が瞬いていた。

「醸さん、この世界に来て——後悔してますか」

「一度もないです」醸は即答した。「前の世界では、自分の造ったビールが誰かの傷を治したり、魔力を回復させたりすることはなかった。ここでは、ビールが本当に人の命に関わっている。それは——醸造師として、これ以上のことはない」

「……私、最初にここに来たとき、本当に死にそうでした」リーナは静かに言った。「魔物に引っかかれて、回復薬も切らして、治療師も捕まらなくて。あのとき、知らない工房に飛び込んで——あなたのビールを飲んで、助かった」

醸はリーナを見た。

「それがなかったら、今日のこの場所もなかった」

「そうですね」リーナは微かに笑った。「だから私も、このブリュワリーの一部です。そういう気がしてます」

「そうです。間違いなく」

二人は夜空を見上げた。

ギガントホップの蔓が揺れる音が、夜風に乗って届いた。星の光の中に、工房の窓から漏れる暖かい灯りが重なる。

醸の手帳の最後のページには、一行だけ書いてあった。


________________________________________

「この王国の呪いを解くビールを、必ず造る。」

________________________________________


ダンジョンの入口でホップを見つけてから五十日。一人から始まったものが、今夜この場所に四人の仲間と、一棟の醸造所と、六つの発酵樽と、それを毎日求めてやってくる冒険者たちと——それだけの広がりを持った。

しかしこれは、まだ始まりに過ぎない。

浄化属性の素地を持つギガントホップ。MPに作用するエール酵母。そしてアメリカン・ペールエールがリーナに示した「呪いへの抵抗」——これらの欠片が、いつかひとつの答えに繋がる日がくるはずだ。

ホップ・ブリュワリーの夜は、まだ長かった。


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