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異世界「ホップ物語」~醸造家の異世界転生その2~  作者: 麦汁酵生
転生と始まり

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8/10

第八話「エールの実験」

三週間。

醸が異世界に転生してから積み上げてきた数字の中で、この「三週間」という数字が最大の壁になってきた。

ラガービールは、仕込みから完成まで三週間以上かかる。低温でじっくりと発酵させ、さらに熟成させて初めて、あの澄んだ黄金色が生まれる。品質を保つためには絶対に省けない時間だ。

しかし需要は、三週間を待ってくれなかった。

ガルドから毎日のように「次のバッチはいつ出来る」という使者が来る。北区の冒険者からは「ドルトムンダーをもっと」という声が届く。市場の商人が「うちの店でも売らせてほしい」と扉を叩いてくる。テスが管理している在庫台帳によると、現在熟成中のラガーが全バッチ合わせて約三百リットル——完成まであと十日ある。しかし昨日の一日の出荷量は五十リットルを超えた。

「単純計算で、完成前に在庫がゼロになります」

テスが台帳を広げながら言った。眼鏡の奥の目が、数字を見るときの真剣な光をしている。

「六日後に欠品します。誤差を考慮しても七日が限界です」

「わかってます」醸は腕を組んだ。「だから今日から動く」

「何をするんですか」

「ラガーの弱点を補う。別の発酵方法で、もっと早くビールを造れるようにする」


問題の核心は発酵温度にある。

ラガー酵母は低温(八〜十二度)でなければ旨く働かない。低温だから発酵がゆっくりで、だから熟成に三週間かかる。品質と時間はトレードオフの関係にある。

しかし醸造の世界には、もう一つの発酵方法がある。

高温で、速く。

上面発酵——エール発酵だ。

エール酵母は十八〜二十四度という、常温に近い温度でも活発に働く。発酵期間はラガーの半分以下。一週間から十日で飲めるビールが出来上がる。量産体制を整えるには、エール酵母を確保することが急務だった。

「リーナさん、ちょっといいですか」

醸が工房の外に呼びかけると、入口の石段に腰を下ろして街を眺めていたリーナが振り返った。最近、リーナはダンジョン依頼のない日は工房に顔を出すようになっていた。護衛という名目だが、実のところ「ビールが飲めるから」という理由の方が大きいと醸は思っている。

「エール酵母を探したいんです。野生のもので構わない。自然の中で、果物や木の樹液が発酵しているような場所を知りませんか」

リーナは少し考えた。「ダンジョンの外壁に、甘い実をつける蔓草が生えている場所があります。夏は実が熟れすぎて地面に落ちて、なんか甘酸っぱい匂いがして——」

「それです」醸は立ち上がった。「案内してもらえますか」

「今から?」

「今から」


街はずれの低木地帯に、リーナが言っていた蔓草の群生地があった。小指の先ほどの丸い赤い実が鈴なりになり、熟れて落ちたものが地面に積もっている。近づくと、確かに発酵特有の甘酸っぱい匂いがした。

醸はしゃがみ込み、落ちた実を一つ手に取った。果皮の表面に白い粉のようなものが付着している。産膜酵母だ。果物の表面に棲みつく野生酵母のひとつで、うまく活用すれば良質なエール酵母の起源になりうる。

【鑑定(醸造)】を発動した。


________________________________________

【野生エール酵母群(果実起源)】 菌種:Saccharomyces cerevisiae系(上面発酵型) 活性度:高 発酵温度適性:18〜26℃ 風味特性:フルーティ(リンゴ・洋梨系エステル)、クリーン 特記事項:雑菌混入率は低め。選抜培養することで安定したエール酵母として使用可能。下面発酵酵母との混合使用に適性あり。

________________________________________


「クリーンで、フルーティ。エステルが強すぎないのもいい」

醸は呟いた。エール酵母が出すエステル(果実香の成分)は、品種と発酵条件によって風味が大きく変わる。今回の野生株はリンゴや洋梨のような軽いフルーティさを持つ——クセが少なく、扱いやすい。

実を丁寧に採取し、工房に持ち帰って少量の麦汁で培養を開始した。温度は二十二度。テスが温度計を傍に置いて二時間ごとに記録し始めた。

翌朝、容器の表面に泡が立っていた。

エール酵母は元気に働いていた。


「醸さん、一つ聞いていいですか」

培養の三日目の夜、醸が記録をつけていると、リーナが工房のベンチに座って声をかけてきた。

「何でしょう」

「私、魔法使いなんですけど——」リーナは少し言いにくそうに言葉を選んだ。「あまり強い魔法使いじゃないんです」

「B級冒険者でしょう。十分すごいと思いますが」

「B級止まりなんですよ」リーナは赤毛のポニーテールを揺らしながら言った。「魔力の総量が、同期の魔法使いの半分もない。努力はしてるつもりだけど、タンクが小さければどうしようもなくて。ヒーラーほど回復は得意じゃないし、前衛には向かないし——」

醸は手を止めた。リーナが自分の弱さを話すのは、初めてだった。

「それで——ラガービールを飲んで傷が治ったとき、確かに身体が楽になったんです。でも魔力は変わらなかった。それが少し——」彼女は膝の上で指を組んだ。「気になってて」

「ラガーは身体に作用するビールです。魔力が増えるかどうかは、別のビールが必要かもしれない」

「そのビールって、造れるんですか」

醸は少し間を置いた。

「今から造ろうとしているビールが、もしかしたら手がかりになるかもしれない。試してみてください」


エール酵母の培養が安定した翌日、醸はクリームエールの仕込みを始めた。

クリームエールは、醸造の世界では少し変わったスタイルだ。エール酵母を主体に使いながら、仕上げの段階でラガー酵母も加えてコールドコンディショニング(低温熟成)を行う——あるいは、エール酵母を低温で発酵させてラガーのようなクリーンな仕上がりを狙う。ハイブリッドとも呼ばれる手法で、エールの速さとラガーの滑らかさを両立させる。

「テスさん、今日は二系統の酵母を使います。手順が少し複雑なので、全部書き取ってください」

「用意できてます」テスはすでに手帳を開いていた。

仕込み水は南区の軟水を使った。麦芽は先回のヘレス用を流用し、ホップは控えめに——IBUは十五前後に抑える。クリームエールは主役がモルトとエステルの柔らかさだ。ホップが出しゃばりすぎると、全体のバランスが崩れる。

麦汁を作り、冷却後にエール酵母を投入した。温度は二十度に設定——テスが薪の量を微調整しながら、工房内の温度を保った。

「ラガーのときの八度と全然違いますね。部屋が暖かい」

「エール酵母は常温に近い温度で働きます。」

「じゃあ夏はどうするんですか。気温が高すぎたら?」

「エール酵母が暴走して雑味が出ます。涼しい場所を選ぶか、冷却する工夫が必要になる——今後の課題ですね」

テスはそれも手帳に書いた。「夏の発酵管理——要検討」と大きく書いてアンダーラインを引いた。

翌朝、仕込んだ麦汁の表面に白い泡の層が浮かんでいた。ラガーとは明らかに違う。泡が上に積み上がり、モコモコと盛り上がっている——これが上面発酵の証だ。エール酵母は液体の上の方で活発に働くため、表面に泡が集まる。

「うわ、泡の様子が全然違う!」

リーナが覗き込んで言った。

「ラガーのときはもっと静かに、ぽつぽつって感じだったのに、これは元気すぎません?」

「それだけ発酵が速い。二日でもうここまで来てる。ラガーなら一週間かかる段階です」

テスが温度と泡の高さを記録しながら言った。「醸さん、これが落ち着いたらラガー酵母を加えるんですよね」

「そうです。一次発酵が終わったら低温に移して、ラガー酵母を少量添加してコンディショニングをかける。エールのフルーティさとラガーのクリーンさを合わせます」

「二種類の酵母が同じ液体の中で働くわけか……」テスは感心したように言った。「喧嘩しませんか」

「温度を下げることでエール酵母の活動を止めてからラガー酵母を入れるので、基本的には問題ない。ただし、温度管理が甘いと両方が暴れて雑味の原因になります」

「つまり私の仕事が最重要ということですね」テスは温度計を握り直した。「任せてください」


十日後。

クリームエールが完成した。

色はこれまでのビールと少し違う。黄金色の中に、わずかに乳白色が混じるような、やわらかい輝きがある。泡は白くきめ細かく、頭に積もった雪のように穏やかに盛り上がった。

香りを嗅ぐと——フルーティだ。洋梨のような、青リンゴのような、軽やかなエステルの香りがラガーのホップ香と重なり合っている。前回のピルスナーやドルトムンダーが「刃物のような」精度を持つとすれば、このビールは「羽毛のような」柔らかさがある。

醸が一口飲んだ。

泡と一緒に液体が口の中に入る。「クリーミー」という言葉がこれほど正確に当てはまるビールはそうそうない。ラガーのような爽快感ではなく、エールのような濃厚さでもない——その中間の、滑らかで包み込むような飲み心地。後口はクリーンで、長くは引かない。

「リーナさん、飲んでみてください」

リーナがカップを受け取り、一口含んだ。しばらく目を閉じていた。

「……あ」

小さな声が漏れた。

「何かありましたか」

「なんか——なんか変な感じが」リーナはカップを持ったまま、自分の胸の辺りに手を当てた。「胸の中が、少しだけ——温かい?ラガーを飲んだときの体の軽さとは違う。もっと内側の、奥の方が」

醸はメモ帳を出した。

「もう少し飲んでみてください」

リーナは残りを飲み干した。しばらく目を閉じていた。テスも口を挟まずに見守っている。

「……魔法の練習、してみていいですか」

リーナはそう言って立ち上がり、工房の外に出た。醸とテスも後に続く。

リーナが右手を前に出した。普段ならぼんやりとした光が数秒かけて集まる程度の魔力が——今日は、少し速かった。光が集まる速さが、心なしか早い。出力そのものは変わっていないかもしれないが、集まり方の——「流れ」が滑らかになっている。

リーナはしばらくその光を見つめていた。

「……速くなってます、少しだけ。魔力の回転が」

醸は手帳に書いた。


________________________________________

・クリームエール(ラガー×エール酵母ハイブリッド)→ 肉体回復効果(HP)を維持しつつ、魔力回路への軽微な作用を確認。 ・エール酵母由来の成分が、魔力系に影響する可能性あり。 ・仮説:上面発酵の酵母が生成する物質が、魔素の流れを改善する作用を持つ? ・要検証:純粋なエールビール(ラガー酵母なし)を造った場合の効果。

________________________________________


「醸さん、これって——」リーナが振り返った。「もしかして、次のビールは魔力が回復するやつが造れる?」

「かもしれません。まだ仮説ですが」

「試してみたい」リーナは真剣な目をしていた。「私、ずっと魔力が足りなくて——同期に遅れて、ランクも上がれなくて。もしそれが変わるなら」

醸はメモ帳を閉じた。

「次のバッチで確かめます。今度はエール酵母だけで造ってみましょう」

リーナは頷いた。その目に、希望の色があった。

工房の前の石畳に、夕暮れの光が長く伸びていた。クリームエールの最初のバッチは仕込みから完成まで十日——ラガーの三分の二の時間で。量産の問題は、一歩前進した。そして量産の先に、もっと大きな何かが待っている気がした。

エール酵母が魔力に作用する。

その仮説が、醸の中で小さく、しかし確かに輝き始めていた。


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