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異世界「ホップ物語」~醸造家の異世界転生その2~  作者: 麦汁酵生
転生と始まり

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5/10

第五話「冒険者たちの乾杯」

ガルドの口は重いが、動き出したら速かった。

副長室での会談から二日と経たないうちに、ギルドの掲示板には新しい告知が張り出された。


【特別クエスト・採取】臭い花(ダンジョン産ホップ)の収集 報酬:銅貨三枚/袋(標準量) 依頼者:醸造師・忽布醸 期間:当面継続 ※花穂(毬花)のみを採取のこと。茎・葉は不要。


最初、冒険者たちの反応は冷やかだった。

「臭い花の採取?そんな最低ランクのクエスト、誰がやるんだ」「あの草は本当に臭いぞ、手に匂いが移って一週間取れん」——酒場の隅でそんな声が飛んでいた。

しかし翌日の夕刻、ガルドが酒場に現れて一言言った。

「俺の腰痛が治った」

酒場が静まり返った。

ガルド・イアンの腰痛は、ギルドの誰もが知っていた。S級を引退せざるを得なかった原因。治療師も魔法も効かないと言われていた十年来の持病。それが——治った。

「あの臭い花から造った飲み物を一杯飲んだだけでだ」

翌朝、掲示板の前に列ができた。


バルトマンの工房は、二日間で別の場所になった。

ガルドが手配した大きな発酵樽が四本、工房の壁際に並んでいた。麦の在庫も補充され、採取クエストから戻った冒険者たちがギガントホップを次々と持ち込んでくる。醸はその一つひとつを【鑑定(醸造)】で確認し、品質を分類した。

「これとこれは一等品。こっちは少し乾燥させれば使える。この袋は——」

醸は手を止めた。ダンジョンの別区画から持ち込まれた花穂を指で揉むと、これまでのギガントホップとは微妙に異なる香りがした。柑橘ではなく、もっとハーブに近い。スパイシーで、乾いた草の香り。

【鑑定(醸造)】を起動した。


________________________________________

【野生ホップ・ギガントホップ(ザーツ系変種)】 アルファ酸:6.8% 精油成分:ミルセン低・ファルネセン高・フムレン中 アロマプロファイル:スパイシー・ハーブ・フローラル・大地 特記事項:低アルファ酸だが精油が豊富。ソフトな苦味と繊細な香りに優れる。チェコ産ザーツホップに近い特性を持つ。

________________________________________


「ザーツ系……!」

醸は思わず声を上げた。バルトマンが怪訝な顔をする。

「どうしたんじゃ、そんなに慌てて」

「これ、別品種なんですよ。最初のホップが強い苦味の品種なら、こっちは穏やかでコクのある香りの品種です。二種類を手に入れた——これで造れます」

「何が造れるんじゃ」

醸はすでに仕込みの計算を頭の中で走らせていた。低アルファ酸のザーツ系ホップを使い、麦汁の糖度を少し高めに仕上げる。発酵温度を丁寧に管理して、麦芽由来のコクを残す——。

「ボヘミアン・ピルスナーです。黄金色で、コクがあって、苦みが丸い。大勢が飲むなら、これが最適だ」

その日の夜から、醸は大量仕込みに取り掛かった。

四つの樽に分けて仕込んだ麦汁は、合計で約二百リットル。前回の四倍以上の量だ。一人の手では追いつかない。醸がバルトマンに工程を説明しながら分担し、老人はその器用な手で麦を砕き、鍋をかき混ぜ、ホップを量り取った。七十二年の職人の手が、初めてビールを仕込む手になっていた。

石窯に火が入り、工房に甘い麦汁の湯気が充満する。今度はザーツ系ホップを加えると、スパイシーで落ち着いた芳香が広がった。前回の鋭いアロマとは違う、もっと包み込むような香り。

「……良い匂いじゃな、今度は」バルトマンが鍋の傍で目を細めた。「前のは草の鋭さがあったが、これは花のような」

「ザーツホップの特徴です。柔らかくて、でも奥に深みがある」

四つの樽が酵母を迎えた夜、醸は工房の床に座って壁に背中を預けた。指の皮がむけ、腕が熱を持ち、全身が麦汁の匂いに染まっていた。しかし、心は静かに満ちていた。

造っている。俺は、ここで醸造している。

前世と変わらない充実感が、骨の芯から滲み出てくるような夜だった。


仕込みから三週間後。

ギルドの酒場は、その夜だけ全席が埋まった。

普段は半分も埋まらない木のテーブルが、革鎧の男たちや魔法使いのローブを纏った女たちで隙間なく埋め尽くされている。醸が持ち込んだ大樽が、酒場のカウンターの後ろに据え付けられ、給仕の娘が次々とジョッキに注いでいた。

ボヘミアン・ピルスナーだった。

透き通った黄金色に、きめ細かな白い泡の頂上。前回のジャーマン・ピルスナーより色がわずかに深く、光を受けると麦藁色に輝いた。傾けたジョッキから漂う香りは、スパイシーでフローラル——草原を渡る風のような穏やかさがあった。

最初の一杯が配られると、酒場が一瞬だけ静かになった。

誰もが鼻に近づけ、香りを確かめた。「なんだこれ」「いつもの果実酒と全然違う」「草っぽいのに嫌じゃない」——そんな声がざわめきのように広がった。

そして一斉に、口をつけた。

「——っ!」

あちこちで声が上がった。言葉にならない声が。

醸は隅のテーブルから、その反応を一つひとつ確かめていた。

一番奥のテーブルに座っていた体格のいい戦士の男——右腕に厚い包帯を巻いている。飲んで十秒後、包帯の下に金色の光が滲んだ。男がゆっくりと包帯を解くと、その下にあった裂傷が半分以上塞がっていた。男は自分の腕をまじまじと見つめ、隣の仲間の肩を乱暴に叩いた。

「おい、見ろ!腕が!」

「俺の足も!」

「膝の痛みが消えた!」

あちこちから声が上がり始めた。カウンター近くでは、憔悴した顔の魔法使いが三人並んで一杯飲み干し、しばらく呆然としていた。そのうちの一人が立ち上がり、右手に魔力を集中させた。これまで滲むほどしか出なかったであろう魔法陣が——いや、それは次の話だ。今夜はラガー、肉体回復の番だった。それでも魔法使いは顔色が見違えるように良くなり、「身体が軽い」と声を上げた。

テーブルの真ん中に座っていた老齢の冒険者が、静かにジョッキを置いた。白髪の混じった六十過ぎの男で、背中が少し曲がっている。彼はゆっくりと背筋を伸ばした。ゆっくりと、しかし確実に、真っ直ぐに。

「……十年ぶりじゃ」

老冒険者は誰にも聞こえないような声で呟いた。「背中がこんなに伸びたのは」

その声を、たまたまそばを通ったリーナが聞いていた。

「ヴァーノスさん」リーナは老人の名を呼んだ。「もしかして、ずっと腰が辛かったんですか」

「ああ」老人は頷いた。「三十年ダンジョンに潜り続けて、あちこちにガタが来ておった。引退しようとも思っていたが……」老人はジョッキを持ち上げ、光の中に透かした。「こんなものが出てくるなら、もう少し続けてみようかの」

酒場の気温が、上がっていた。

物理的な温度ではない。笑い声が増え、話し声が弾み、肩を叩き合う音が増えた。疲れ切って無言でテーブルに突っ伏していた冒険者たちが、顔を上げて喋り始めた。誰かが古い冒険歌を歌い始め、隣のテーブルが合唱に加わった。

醸はその光景を、隅のテーブルから黙って眺めていた。

手にしたジョッキを少し傾けて、自分もボヘミアン・ピルスナーを口に含んだ。麦の甘みが舌の中央に広がり、ザーツ系ホップのスパイシーな苦みが後から包み込む。コクがある。深みがある。飲み干した後も、余韻が長く続く。

うまい。本当に、うまい。

ガルドが隣に座ってきた。大きな体が椅子をきしませながら、醸と同じようにジョッキを傾けた。

「大したものだな、醸造師」

「一度に二百リットル仕込んだのは初めてです。設備が不完全な分、多少のムラがありますが」

「十分すぎる」ガルドは酒場を見回した。「見ろ、あいつら。こんな顔、久しぶりに見た」

確かにそうだった。普段のギルドの冒険者たちは、どこか燃料が尽きかけているような顔をしている。それが今夜だけは、炎が戻ったように目が輝いていた。

「黄昏の呪い、というのはどれほど根深いものなんですか」

醸が聞くと、ガルドは少し間を置いた。

「三百年前、魔王ザルガスがこの王国全土にかけた呪いだ。人の魔力と生命力を少しずつ吸い取り続ける。それが積み重なって、今の王国になっている。聖者が結界を張って食い止めているが……焼け石に水だ」ガルドはジョッキを置いた。「勇者が魔王を討てれば、すべて解決するが——それもここ百年で何人目かの勇者が挑んでいる最中だ」

醸はその言葉を噛み締めた。

ビールは今夜、疲れた冒険者たちの体を少し楽にした。しかし、呪いそのものを解いたわけではない。根本的な問題はもっと深いところにある。

それでも——と醸は思った。

呪われた世界に生きる人間が、一杯のビールで顔を上げ、歌を歌い、仲間と肩を叩き合う。その光景は、今夜だけは確かに本物だった。

そしてホップの苦味の中に、醸の直感がもっと深い何かを示唆していた。浄化属性——あの鑑定の言葉が、まだ頭の中に残っている。ラガービールの回復作用は、呪いへの対処療法に過ぎない。しかしいつか、ホップの本当の力が——。

「醸造師」

ガルドが言った。

「次は何を造る?」

醸はジョッキを置き、メモ帳を開いた。

書くことは、いくらでもあった。


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