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異世界「ホップ物語」~醸造家の異世界転生その2~  作者: 麦汁酵生
転生と始まり

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6/10

第六話「麦芽の危機」

問題は、嬉しい悲鳴から始まった。

ギルドの酒場でボヘミアン・ピルスナーを振る舞った翌日から、醸の工房の前には人が並ぶようになった。冒険者だけではない。街の職人、商人、市場の売り子、果ては老人まで。口コミというのは恐ろしいもので、「あのビールを飲んだら腰痛が治った」「傷の治りが三倍速くなった」という話があっという間に街じゅうに広まり、バルトマンの工房の扉を叩く者が後を絶たなかった。

「在庫がございません」

醸は一日に何度その言葉を繰り返しただろう。申し訳なさそうに扉を閉めるたびに、バルトマンが苦笑しながら後ろに立っていた。

「贅沢な悩みじゃの」

「贅沢なんですが、深刻でもある」

醸は発酵樽の前に立ち、残量を確認した。現在熟成中のボヘミアン・ピルスナーが約八十リットル。完成まであと十日。一方、毎日の需要を試算すると——すでに日産五十リットルを超えつつある。熟成中のビールがなくなれば、次が出来上がるまでの間、店を空にすることになる。

しかも問題は量だけではなかった。

「バルトマンさん、残りの大麦はどれくらいですか」

老人は倉庫を覗き込み、少し間を置いた。

「……あと三袋じゃな」

「三袋で造れるのは、せいぜい二バッチ。それが終わったら——」

「終わりじゃな」

醸はメモ帳を開いた。次の仕込みには最低でも二十袋の麦が必要だ。市場で調達するとして、どれほどの品質のものが手に入るか。翌朝、醸は街の市場へ向かった。


市場の穀物通りは、朝から活気があった。とはいえ黄昏の呪いの影響か、売り手も買い手もどこかくたびれた様子で、露店の声もどこか張りがない。

醸は麦を扱う店を端から順に回った。三軒目、四軒目——【鑑定(醸造)】を使うたびに、鑑定結果が醸の眉を曇らせていた。


________________________________________

【市販大麦(六条種)】 タンパク質含量:16.2%(高すぎる) でんぷん含量:55.8%(低い) 糖化ポテンシャル:中程度 特記事項:パン・飼料用に適する。ビール醸造用としては不適。麦汁が濁りやすく、雑味の原因となる。

________________________________________


六条大麦。パンや飼料に使われる品種だ。粒が小さく、タンパク質が多い分、ビール醸造には向かない。麦汁が濁り、発酵が不安定になり、雑味が出る。前回バルトマンの倉庫にあった「グランディア麦」はまだましな品質だったが、市場で売られている汎用の大麦は、醸の目から見れば原料として失格に近かった。

五軒目で、醸は立ち止まって深呼吸した。

二条大麦が欲しい。

ビール醸造に最適な二条大麦は、粒が大きく、タンパク質が少なく、でんぷん含量が高い。糖化効率が格段に良く、クリアで雑味のない麦汁が得られる。しかしこの市場には一袋も見当たらない。この世界ではビール醸造の概念がないから、当然、醸造専用の麦の需要もない。農家は収量の多い六条大麦を育て、パン用に売る。それが当たり前の流通だった。

「二条大麦、どこかで売ってないですか」と五軒目の商人に聞いてみたが、「なんじゃそりゃ」と首を傾げられた。

六軒目、七軒目——。

「だから、二条って何だよ」「そんな麦、聞いたことないぞ」「麦は麦だろ」——。

諦めかけたとき。

「あの——」

声をかけられた。

振り返ると、小柄な娘が立っていた。年は二十歳前後だろう。丸い眼鏡をかけ、頬にそばかすが散っていて、麦色の髪を後ろで雑に束ねている。農家の仕事着らしい、少し汚れた上着と厚手のズボン。両手に、布袋を抱えている。

「聞こえてしまって……二条大麦、ですよね?」

醸は少し驚いた。「知ってるんですか」

「知ってます」娘は眼鏡を押し上げた。「うちの畑で育ててるので」

「——本当に?」

「父が昔、王都の農業研究所で働いていたことがあって。そこで珍しい麦の種をもらってきて、細々と育て続けているんです。二条大麦って呼ぶんですね、それ。こっちでは『細粒麦』って呼んでますけど」

醸は思わず一歩近づいた。

「その麦、今どれくらい収穫できますか」

「今年の収穫分なら……まだ倉庫に残ってます。六条大麦より収量が少ないし、パンにすると少し固くなるから、父が亡くなってから売り先もなくて。正直、持て余してるくらいで——」

娘は言葉の途中で、醸の目が変わっているのに気づいたらしく、少しびくりとした。

「……そんなに欲しいんですか」

「欲しいです。今すぐ」

娘は眼鏡の奥でぱちぱちと瞬いた。

「わかりました。あ、私テスといいます。テス・ムーラー。一緒に来てもらえますか、うちの農場まで」


街はずれのムーラー農場は、小さいが手入れが行き届いていた。畑の畝は整然と並び、収穫後の麦藁が綺麗に束ねてある。テスが案内した倉庫の中に、布袋が積み上がっていた。

醸は一袋を開き、一粒つまんで【鑑定(醸造)】を使った。


________________________________________

【細粒麦(二条大麦・在来種)】 タンパク質含量:9.8%(理想的) でんぷん含量:68.4%(高い) 糖化ポテンシャル:非常に高い 特記事項:ビール醸造に最適。クリアな麦汁を生成する。麦芽化後のコクと甘みが際立つ。グランディア王国の在来種としてはほぼ最高品質。

________________________________________


「完璧だ」

醸は思わず声に出した。タンパク質が十パーセント以下、でんぷん含量が六十八パーセント超——この数値は前世の最高級醸造用大麦と遜色がない。むしろ上回っている部分もある。

「……完璧、って言いましたよね、今」

テスが後ろから言った。眼鏡の奥の目が、好奇心でキラキラしている。

「言いました。この麦は素晴らしい品質です」

「父もそう言ってました。でもみんな、粒が小さいから売れないって——」醸はもう一袋を確認した。「あなた、醸造師さんですよね?ビールを造るって聞いて。ギルドで飲んだ人の話、街じゅうで聞こえてきて」

「飲みましたか、あなたも?」

「飲みました!」テスは少し興奮した声になった。「すごく美味しかった。あと、なんか知りませんが翌朝すごく体が軽くて、それまで毎朝農作業で腰が痛かったのが全然平気で——」

眼鏡をずり上げながら、テスは一気にまくし立てた。

「あのビール、どうやって作るんですか。カビや酸っぱい菌が混ざるリスクがあると思うんですが、どうやって管理してるんですか。あと、臭い花の添加タイミングはいつですか?」


醸は麦袋から顔を上げた。

「……詳しいですね」

「詳しくはないですよ!でも聞いたことを全部考えてたら、疑問が止まらなくて」テスは少し赤くなった。「すみません、変ですよね」

「変じゃない」醸は立ち上がった。「全部、正しい疑問です」

テスが目を丸くした。

醸は一つひとつ答え始めた。糖度の話、温度管理の話、酵母の選定の話、ホップの添加タイミングの話。テスは話を聞きながら、どこからか取り出した手帳に猛烈な速さで書き取り始めた。

「待って待って——煮沸開始から六十分後に苦味ホップを入れて、最後の五分でアロマホップ?なんで時間を分けるんですか」

「苦味成分は長く煮るとイソアルファ酸に変わって苦味が出る。香り成分は熱で飛んでしまうから、最後に入れて香りを残す。仕組みが違うんです」

「——なるほど!!」テスは手帳に書き込みながら顔を上げた。「それって、素材の目的に応じて工程を変えるってことですよね。農業でも同じで、品種ごとに収穫のタイミングを変えないと品質が落ちる。同じ原理だ……!」

醸は少し驚いた。農業と醸造の工程類似性を、一を聞いて十を知る形で繋げてみせた。この娘はただの農家の娘ではない。

「テスさん、麦の在庫を全部買わせてください。価格はギルドから出してもらいます」

「え、全部ですか?」

「全部です。それと——」醸は少し考えてから言った。「もし良ければ、一度工房に来てみませんか。実際の仕込みを見てもらえれば、残りの疑問に全部答えられます」

テスは手帳を胸に抱えたまま、しばらく醸を見ていた。眼鏡のレンズの奥で、何かを計算するような光が動いた。

「……弟子にしてもらえませんか」

「は?」

「弟子。私をあなたの弟子にしてください」テスは真っ直ぐに言った。「農場は兄が継ぐから、私はずっと行き場がなくて。でも今、初めて『これを学びたい』と思うものに出会った気がして——」

「醸造は地道な作業の繰り返しですよ。毎日温度を測って、酵母の状態を確かめて、数字を記録して」

「それのどこが嫌なんですか」テスは眼鏡を押し上げた。「私、それ絶対に好きです。絶対に」

醸はテスの顔を見た。二十歳の、そばかすだらけの、眼鏡の娘。手帳に書き込まれた文字は、醸が説明したことを一言一句正確に記録しており、欄外には自分なりの疑問と仮説が書き加えられていた。

この娘は、本物だ。

「わかりました」醸は言った。「明日から来てください」

「本当ですか!」

「ただし、最初の一ヶ月は掃除と温度計測だけです」

「それでもいいです!温度管理は絶対に極めます!」

テスは飛び上がるように喜んだ。醸は苦笑しながら、袋の麦をもう一度確かめた。


翌週、高品質な二条大麦を原料にした新バッチの仕込みが始まった。

醸はこのビールをヘレスと呼ぶことにした。ドイツ語で「明るい」を意味するラガー——ホップを抑えめにして、麦芽の甘みとコクを前面に出す。素材の品質がそのまま味になるスタイルだ。だからこそ、テスが持ってきた最高品質の二条大麦が意味を持つ。

仕込みの日、テスは工房に朝一番で現れた。手帳と、なぜか温度計を二本持参していた。

「温度計、どこで手に入れたんですか」

「薬師の道具屋で買いました。ガラス管に着色した水を入れて目盛りを打ったやつです。精度は……少し怪しいですが」

「温度計を自前で用意してくる弟子は初めてです」醸は正直に言った。

テスはそばかすを染めて照れたが、すぐに真剣な顔で温度計を糖化鍋に差し込み始めた。

「六十五度に達したら教えてください」

「わかりました。って——それ、私の仕事では?」

「二本で測って平均を取ります。一本だと誤差が出ます」

醸は返す言葉がなかった。

麦汁が甘い香りを立ち上らせる中、テスは温度を五分ごとに記録し、手帳に数値を書き込み続けた。ホップを投入する段になると、眼鏡を前のめりにしながら鍋を覗き込み、ホップの溶け込む様子を一ミリも逃すまいという顔で観察していた。

「醸さん、臭い花、ホップが溶ける速さって温度で変わりますか」

「変わります。高温ほど速くイソアルファ酸に変化する」

「じゃあ、煮沸温度を変えることで苦味のコントロールができる?」

「理論上はできます。ただし高温すぎると別の雑味成分も出やすくなる」

「なるほど……」テスは手帳に何かを書き加えた。「ということは、適正温度の範囲内で最適点を探す最適化問題ですね」

醸は鍋をかき混ぜる手を止めた。

「……最適化問題」

「農作業でも同じです。収穫量を最大化するために、水やりと施肥のバランスを最適化する。変数が多いほど難しいけど、それが面白い」

醸は微かに笑った。この娘はおそらく、自分より遥かに速く醸造の理論を理解していくだろう。

仕込みを終えた夜、テスは発酵中の樽の前でじっと耳を澄ませていた。酵母が活動する微かな音に、眼鏡をずり落としながら聴き入っている。

「……聞こえますか?」醸が聞いた。

「聞こえます。しゅわしゅわって、生きてる音がします」

「それが【酵母の声】です」

テスは目を輝かせて醸を見上げた。

「それ、スキルですか」

「私にはそう聞こえる。あなたにもいつか、聞こえるようになります」

テスは樽に耳を押し当て、真剣な顔で目を閉じた。醸はその様子を見ながら、バルトマンの工房がもう一つの命で満たされていくのを感じた。

一週間後、ヘレスが完成した。

淡く輝く麦藁色の液体は、これまでのどのビールよりも澄んでいた。口に含むと、ホップの主張が控えめな分、麦芽の純粋な甘みとコクが舌の上を満たす。柔らかく、丸く、温かみのある味。なのに後口はすっきりしている。

テスが試飲して、しばらく黙った。

「……なんか、お母さんが作ってくれた麦粥みたいな味がします」

「それは最高の褒め言葉です」

「でもビールなのに」

「だからこそです」

二人は並んで、ヘレスをゆっくりと飲み干した。工房の窓から夕暮れの光が差し込み、黄金色の液体を最後にひと輝かせた。


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