第四話「ギルドでの騒動」
リーナが工房を訪れた翌日の朝、醸は革袋に小瓶を詰めていた。
アメリカン・ラガーを仕込んだ翌週に、試験的に仕込んでいた第二バッチだ。今度は麦汁の煮沸段階で、ホップを通常の一・五倍量投入した。ギガントホップのアルファ酸が高い分、少量でも十分な苦味が出るはずだったが、あえて多めに入れることで苦味と香りをさらに引き立たせた。発酵も完了し、昨日の夜に濾過と瓶詰めを終えていた。
液体の色は先代より数段深みのある黄金。澄み切った透明感の中に、陽光を受けると緑がかった輝きが浮かぶ。一口含めば、最初の苦味がはっきりと舌を打ち、直後にホップの草のような爽やかな香りが鼻腔を抜けていく。後口はすっと消えてドライ——これはもう、アメリカン・ラガーの弟分ではなく、別の顔を持つビールだった。
ジャーマン・ピルスナー。
醸はそう名付けていた。ホップを前面に出した、苦みとキレが命のラガービール。
「今日はギルドへ行くんでしたな」
バルトマンが工房の掃除をしながら言った。
「はい。リーナさんに連れて行ってもらいます」
「ギルドの副長か……」老人は少し眉を曇らせた。「あのガルド・イアンは、元S級冒険者じゃ。豪快な人物じゃが、怪しいものには厳しい。気をつけなされ」
「怪しくはないと思いますが」
「新参者が、得体の知れない飲み物を冒険者に飲ませようとする——向こうからすれば怪しいじゃろう」
醸はビール瓶を革袋に収めながら、少し考えた。バルトマンの言う通りかもしれない。前世でも、新しい商品を市場に出すとき、最初の壁は常に「信頼」だった。データより先に、まず人を動かす必要がある。
「なら、飲んでもらうしかない。言葉より証拠です」
冒険者ギルドは街の中心部に構えた、石造りの大きな建物だった。二階建てで、一階は酒場と受付が混在している。醸が入った瞬間、革鎧を纏った男たちの視線が一斉に集まった。
冒険者たちの顔は総じて疲れていた。黄昏の呪いのせいか、それとも日常の消耗か。酒場のテーブルに突っ伏して眠っている者、腕の傷に雑な布を巻いた者、エールを無言で飲み干している者。底抜けに明るいはずのギルドの酒場が、くすんだ色をしていた。
「ガルドさん、います?」
リーナがカウンターへ向かうと、受付の女性が少し困ったような顔をした。
「副長なら執務室に……でも今、機嫌が」
「大丈夫です、私から話します」
リーナは迷わず階段を上がった。醸も後に続いた。廊下の突き当たりの扉の前まで来ると、中から低い声が漏れ聞こえていた。
「——だから言ってるだろう、D級クエストの報酬体系を見直せと。あのまま続けたら、若手冒険者の離脱が止まらん。ただでさえ呪いで全員が弱ってるのに——」
リーナがノックした。
「副長、リーナです。少しよろしいですか」
「入れ」
扉を開けると、山のような男がいた。
背丈は優に二メートルを超え、肩幅は扉の幅と変わらない。顎には灰色がかった黒い髭が密生し、両腕には数え切れないほどの傷跡が刻まれている。それでいて執務机の前に座っている姿は不思議と様になっており、積み上げられた書類に赤い印をつける指は意外なほど丁寧な動きをしていた。
ガルド・イアン、四十二歳。元S級冒険者、現・冒険者ギルド副マスター。
「リーナか。傷はどうした、昨日ダンジョンで——」
ガルドは顔を上げ、醸を見た。
「……誰だ」
「この方が昨日、私の傷を治してくれました」リーナが言った。「醸造師の忽布醸さんです。副長に紹介したくて連れてきました」
「醸造師?」ガルドは眉をひそめた。「酒屋か」
「飲み物を造ります。まだ醸造所という形ではないですが」醸は会釈した。「忽布醸と申します。街に来てまだ間もないですが、少し聞いていただきたいことがあって」
「リーナ、傷を治したというのは」ガルドは書類から目を離して立ち上がった。立ち上がると、天井がぐっと近くなったような圧迫感がある。「治療師でもなく、魔法使いでもなく、酒屋が、か?」
「傷薬も魔法も使っていません。ビールを飲んでもらっただけです」
ガルドの顔が止まった。一瞬の沈黙の後、低い声が部屋に響いた。
「……ふざけるな」
温度が下がった気がした。
「酒で傷が治るか。そんな都合のいい話が——」ガルドは机を一歩回り込み、醸の前に立った。見上げると、顎髭が迫力を二倍にしている。「お前、何者だ。冒険者に怪しいものを飲ませて、一儲けしようという魂胆か」
「違います」
「違うと言い切れるか。この国には三百年前から呪いがかかってる。弱り切った人間を狙った詐欺師が、これまで何人来たと思ってる。みんなお前と同じような顔をしてた——穏やかで、誠実そうで、自信満々な顔をな」
醸はガルドの目を見た。怒りの奥に、疲弊がある。何度も騙され、何度も裏切られてきた者の目だ。この人は怒っているのではない——守ろうとしているのだ。仲間を、ギルドの冒険者たちを。
「一つだけ、お願いがあります」
醸は革袋から小瓶を取り出した。澄んだ黄金色の液体が、窓からの光を受けて輝いた。
「私には証明する方法が、これしかありません。飲んでみてください。それでも効果がなければ、今すぐ出ていきます。二度とギルドには近づきません」
「貴様——」
「ガルドさん」
リーナが静かに言った。ガルドが振り返る。
「昨日の私の傷、見ていましたよね。ダンジョン帰りで脇腹を四センチほど裂かれて、血が滲んでいた。あの傷が、この方のビールを一杯飲んだだけで塞がったんです。私は嘘をついたことがありますか」
ガルドは黙った。
リーナ・フォーゲルは、この男が最も信頼している部下の一人だ。真面目すぎるくらい真面目で、融通が利かないくらい正直な性格を、ガルドはよく知っていた。
「……腰が、ずっと痛い」
ガルドがぽつりと言った。
「昔のダンジョンで魔物に踏まれた。それから十年以上、右の腰が。治療師に診てもらっても、魔法薬を飲んでも、完治しない。S級冒険者を引退した一番の理由がそれだ」
醸は黙って聞いた。
「もし飲んで、その腰痛が消えたら——お前の言うことを信じる」ガルドは腕を組んだ。「だが、消えなければ即刻ここから叩き出す。いいな」
「それで構いません」
醸は瓶を差し出した。ガルドは少し間を置いてから、太い指でそれを受け取った。コルク栓を抜くと、ホップの鋭い香りが部屋に立ち上った。ガルドが鼻をひくつかせる。
「……なんだこの匂いは。草か?」
「ダンジョンに生える植物です。冒険者の皆さんが捨てていく、あの花の香りです」
ガルドの目が微かに動いた。臭い花——知っているのだろう、と醸は思った。
「飲むぞ」
ガルドは一気に瓶を傾けた。大きな口が、黄金色の液体を受け取る。豪快に、一気に、三分の一ほど飲んだ。
そして止まった。
顔が変わった。
「……苦い」呟いた。「苦いが——なんだこれ。後からくる。草のような、でも爽やかな何かが」
「ホップの香りです。苦味の後にアロマが来る、それがピルスナーの特徴です」
ガルドはもう一口飲んだ。また飲んだ。瓶が空になった。
部屋が静かになった。醸もリーナも、息を殺して待った。
十秒。
二十秒。
ガルドが右手を腰に当てた。そろそろと、慣れた仕草で。長年の痛みを確かめるような、習慣になった動作で。
「…………」
ガルドの表情が、ゆっくりと変わった。
「ない」
低い声だった。
「痛みが……ない?」
ガルドは腰を左右に捻った。ぐるりと回した。前に倒した。普段なら必ず走る電気のような痛みが——来ない。十年間、一日として忘れたことのなかった右腰の鈍痛が、煙のように消えている。
「……嘘だろ」
ガルドは腰を押さえた手をゆっくりと下ろし、醸を見た。四十二歳の元S級冒険者の目に、見たことのない色が浮かんでいた。
子どものような、純粋な驚愕だった。
「お前——本当に、酒屋か」
「醸造師です」醸は静かに繰り返した。「ビールを造る人間です」
ガルドはもう一度腰に手を当て、今度は大きく前後に体を動かした。何の痛みも走らない。十年分の不自由が、一瓶のビールで消えている。
「……ガハハッ!」
突然、腹の底から笑い声が弾けた。天井が揺れるような笑い声だった。リーナが驚いて後退りした。
「信じられん!本当に消えた!腰痛が消えた!」ガルドは机を手のひらでばしんと叩いた。「なんだこれは、なんだこれは!醸造師、お前——こんなものをどこで学んだ!」
「別の世界です」醸は正直に言った。
「はあ?」
「事情を話すと長くなります。ただ、この飲み物がこの世界で役に立てるとは思っています」
ガルドは椅子に座り直し、腕を組んで醸を見た。笑いの余韻が残りながらも、その目には今度は真剣な光がある。
「もっと造れるか。大量に」
「設備と原料があれば」
「ギルドが支援する。場所も金も口も出す」ガルドは即断した。元S級冒険者らしい、迷いのない決断だった。「うちの連中を見たか、下で。みんな疲れ切ってる。呪いのせいで回復が遅い、怪我が増える、ダンジョンの攻略が遅れる、報酬が減る——悪循環だ。もしお前のビールが本当にあいつらの疲労を取れるなら、こんなに心強いことはない」
醸はメモ帳を取り出した。
「では、必要なものをリストアップします。発酵容器、貯蔵用の樽、麦の安定供給ルート——」
「全部用意させる」
「それと」醸は顔を上げた。「ホップの採取場所を確保したい。ダンジョンに大量に自生しています。冒険者に協力してもらえますか」
「臭い花か」ガルドは顎髭を撫でた。「あれを……か。まあ、どうせ捨てるものだしな。採取依頼として正式なクエストにしてやる」
「ありがとうございます」
リーナが横で安堵の息を吐いた。醸は手帳に必要事項を書き込みながら、心の中で静かに整理していた。
製造拠点はバルトマンの工房。原料調達はギルド経由。販路はギルドの酒場と冒険者向けの直販——まず小さく動いて、効果を実績で積み上げる。企業戦士時代に叩き込まれた事業立ち上げの方程式が、異世界でそのまま動いていた。
「醸造師」
ガルドが呼んだ。醸が顔を上げると、大きな手が差し出されていた。
「よろしく頼む。俺の腰を治してくれた礼は、絶対にする」
醸はその手を握った。分厚く、硬く、無数の傷が刻まれた手だった。十年間の痛みを抱えながらギルドを支え続けてきた手の重さが、掌から伝わってきた。
「こちらこそ。よろしくお願いします」
窓の外で、黄昏の呪いに染まった街がくすんだ光を浴びていた。しかし醸には、その光が昨日よりほんの少し明るく見えた。気のせいかもしれない。だが——確実に何かが動き始めていた。




