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異世界「ホップ物語」~醸造家の異世界転生その2~  作者: 麦汁酵生
転生と始まり

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3/10

第三話「黄金色の奇跡」

仕込みから、三週間が経った。

醸はその間、工房にほとんど住み着くようにして過ごした。バルトマンが気を利かせて二階の物置を片付けてくれたおかげで、藁の詰まったマットレスと古い毛布という、前世の感覚からすれば決して快適とは言えない寝床が確保された。それでも醸に不満はなかった。毎朝目を覚ますたびに、一階の発酵室から漂ってくるあの香りがあったから。

発酵は順調だった。

仕込みから三日目には、樽の中で白い泡がしゅわしゅわと立ち始めた。野生酵母たちが目を覚まし、麦汁の糖を食べ始めた証拠だ。醸はその音を毎日耳に当てて確かめた。泡の勢い、音の高さ、匂いの変化——数値を測る機器はなくても、長年の経験が全身を検査器にしていた。

一週間目。泡が落ち着き、発酵が穏やかになった。麦汁の甘みが抜け、アルコールの刺激が鼻先に漂い始める。

二週間目。液体が澄んできた。上澄みを少量すくって口に含むと——まだ荒削りだが、確かにビールだった。麦の甘みとホップの苦味が、ぎこちなくも結びついている。

「もう少しだ」

醸は樽に向かって呟いた。職人の直感が、あと一週間の熟成を告げていた。

三週間目の朝、醸は地下の貯蔵室から樽を引き出した。バルトマンの工房の地下は石造りで、夏でもひんやりとした温度が保たれている。この世界にはラガービールの低温熟成に向いた自然の冷暗所があちこちに存在した——それだけでもう、十分な「発見」だと思った。

「バルトマンさん、試飲用の器を貸してもらえますか」

老人が丁寧に洗った陶器のカップを二つ持ってきた。醸は静かに栓を抜いた。

しゅっ。

小さな音が工房に響いた。瞬間、甘く香ばしい穀物の香りと、ホップのフレッシュなアロマが一気に解放された。バルトマンが目を細め、鼻を動かした。

液体を傾ける。カップの中に、琥珀でもなく、褐色でもない——透き通った黄金色の液体が注がれた。白い泡が静かに盛り上がり、すぐにきめ細かく落ち着く。朝の光を受けて、カップの中で何かが輝いていた。

醸は一口飲んだ。

——来た。

麦の柔らかい甘みが最初に広がり、次いでホップのほどよい苦味が舌の奥を締める。クリーンで澄んだ後口。炭酸が喉をすっと抜けていく感覚は前世の記憶と寸分違わず、しかしその中に——この世界の水とホップだけが持てる、微かな野性の余韻がある。

「……うまい」

声が出た。思わず、だった。三週間分の疲れが、一口で洗い流されるような感覚。体中の細胞が目を覚ますような、じんわりとした温かみ。

「どれ、わしにも」

バルトマンが催促した。醸はもう一方のカップに注いで老人へ渡した。バルトマンはゆっくりと口をつけた。飲んだ。もう一口飲んだ。しばらく黙っていた。

「……麦のパンとは全くの別物じゃな」白髪の老人がぽつりと言った。「同じ麦なのに。同じ酵母なのに。こんなに違うものになるのか」

「方向性が違うんです」醸は答えた。「パンは焼いて固めることで麦の滋養を凝縮させる。ビールは液体のまま発酵させることで、麦の栄養素を体に溶け込みやすい形に変える。どちらも命を養う、ただ——やり方が違う」

バルトマンはもう一口飲み、静かに目を閉じた。

「なんじゃろう……身体が軽い気がする。年寄りの気のせいかもしれんが」

醸はその言葉を聞いて、胸の中で何かが静かに動いた。まだ仮説に過ぎない。まだ確かめていない。だが——この世界の魔法法則と、ラガービールの肉体回復作用が結びつく予感が、醸の直感の奥でじわりと灯っていた。



その昼過ぎのことだった。

工房の扉が、乱暴に開いた。

「す、すみません——!誰かいますか!」

飛び込んできたのは若い女だった。赤毛を乱れたポニーテールに束ね、魔法使いらしい青いローブを身に着けている。背が高く、すらりとした長身だが、今は前のめりに傾いており——右の脇腹を左手で強く押さえていた。指の間から、じわりと赤いものが滲んでいる。

「ちょっと、怪我をしているのか!」

醸は咄嗟に立ち上がり、女のそばへ駆け寄った。女は顔色が悪く、口元が微かに震えている。しかし、目だけはまっすぐ前を向いていた。

「ダンジョンで……魔物に引っかかれました。大したことないんですが、回復薬を切らしていて……この辺りに治療師か薬師がいると聞いたんですが」

「ここは薬師の店じゃないが」醸は女の脇腹を確認した。布越しでも傷の深さが伝わってくる。鋭い爪か刃物による、縦に長い裂傷だ。「まず横になってください。バルトマンさん、布と水を!」

老人がすぐに動いた。女は醸に肩を貸されながら、工房のベンチに倒れ込んだ。ローブの裾をめくると、白い肌に赤い傷が走っていた。深すぎるわけではないが、放置すれば感染するかもしれない。

「名前は?」

「リーナ……リーナ・フォーゲルです。B級冒険者です」

「リーナさん。痛みはどれくらい?」

「走れないほどではないですが……じわじわ来ます」彼女は歯を食いしばりながら答えた。「本当に申し訳ないです。知らない工房に突然入り込んで」

「気にしないでください」醸はバルトマンから布を受け取り、傷口を軽く押さえた。「止血だけしておきます。治療師はこの近くにいますか」

「いちばん近いのが西通りの薬師なんですが……今日は定休日で。ギルドの回復薬も昨日から在庫切れで——」

リーナは声の途中でかすかに息を呑んだ。痛みが来たのだろう。しかし、顔を背けない。唇を噛んで、堪えている。

醸はふと考えた。

臭い花が弱いとはいえ、回復薬としての効果があるのであれば、この世界のラガービールは、肉体回復に作用する……かもしれない。

まだ仮説だ。バルトマンの「身体が軽い」という感想は根拠として弱い。だが今、目の前に傷ついた人間がいる。治療師も薬もない。そして工房には、できたてのビールがある。

試すなら今だった。

「リーナさん、少し変わったことをお願いしていいですか」

「……何ですか」

「酒です。飲んでみてほしい」

リーナが目を細めた。「……酒ですか?傷があるのに?」

「ただの酒じゃない。少し前に私が造った飲み物です。もしかしたら、少し楽になるかもしれない。もしかしたら、ならないかもしれない。強制はしません。嫌なら断ってください」

リーナはしばらく醸の目を見た。嘘をついているような目ではない、と思ったのか、小さくうなずいた。

「……試してみます」

醸は先ほどのカップに、アメリカン・ラガーを注いだ。黄金色の液体が差し込む陽光を受けてきらりと光る。リーナは体を起こして受け取り、鼻に近づけた。

「……なんか、いい匂い。ちょっと草っぽいけど、爽やかな」

「飲んでみてください。一口でいい」

リーナはそっと口をつけた。飲んだ。

最初、何も起きなかった。

リーナは黙って、カップの中の黄金色を見つめていた。醸も黙っていた。バルトマンも息をのんで見守っている。

十秒。二十秒。三十秒——

「……あれ」

リーナが小さく言った。

「痛みが……薄れてきた?」

醸は身を乗り出した。「傷口を見せてもらえますか」

リーナが押さえていた手を少しどけると——裂傷の縁が、わずかに閉じている。出血が止まっているだけでなく、傷口の周囲の皮膚が、うっすらと発光しているように見えた。淡い金色の光が、傷の上を薄膜のように覆っている。

「……光ってる」バルトマンが呟いた。「傷が、光ってる……!」

リーナは自分の脇腹を見下ろし、目を丸くした。そして残りのビールを、一気に飲み干した。

光は広がった。金色の光が傷口から全身へと、川が支流へ流れるように広がっていく。顔色が変わった。さっきまで血の気が引いていた頬に、みるみる赤みが戻っていく。リーナは大きく息を吸い、表情が変わった——痛みのない顔に。

「……消えた」

リーナは信じられないような顔で言った。「痛みが、完全に消えた。傷も——」

恐る恐る布をはがすと、そこにあったはずの裂傷が、赤い線だけを残してほぼ塞がっていた。皮膚が再生している。魔法なしで、薬なしで、ただビールを一杯飲んだだけで。

工房の中が静まり返った。

醸は震える手でメモ帳を取り出した——前世からずっと習慣だった、腰のポーチに入れていた手帳と鉛筆は、なぜかこの世界に転生したときも身についていた。そこに書く。


________________________________________

・アメリカン・ラガー(下面発酵・低温熟成)→ 肉体回復作用を確認。傷口の再生促進、出血停止、疲労回復。発光現象あり。 ・作用時間:摂取後30秒前後で発現。 ・継続時間:要観察。 ・副作用:現時点で確認なし。

________________________________________


書き終えて顔を上げると、リーナが醸をじっと見ていた。

「……あなた、何者ですか」

「醸造師です」

「醸造師って……酒を造る人ですよね。でもこれ、普通の酒じゃない。回復薬です、これは。いや、回復薬以上だ」リーナは両手を見つめた。「さっきまで動かしたら傷に響いていたのに、今は何ともない。全身が……軽い」

「それは良かった」醸は素直に言った。「私も初めてここまではっきり効果を確認できた。あなたに感謝します、リーナさん」

「感謝するのは私のほうですよ!」リーナが思わず大きな声を出した。「あなたのおかげで、治療師にも薬にも頼らずに治った。こんなことが——こんなことが起きるんですか」

「ビールですから」

「びーる?」

「この飲み物の名前です。麦とホップと水と酵母から造ります」醸はカップを見た。「あなたはこれが最初の、この世界の、ビールを飲んだ人間です」

リーナは空になったカップを見つめた。黄金色はもうないが、内側にわずかな泡の跡が残っている。

「……すごい名前のものを飲んでしまった気がします」

「いい意味で?」

「もちろん」

リーナは立ち上がった。長い脚で、ふらつきもなく。窓から差し込む午後の光の中で、赤毛がオレンジ色に輝いた。

「忽布さん、でしたっけ?ギルドに来てください。絶対に副長のガルドさんに紹介します。このビールを、もっと多くの冒険者が知るべきだ」

醸はメモ帳を閉じた。

ビールが、誰かの命を救った。たかだか麦と花と水でできた液体が、呪われた王国のひとりの若者を、ほんの少しだが救った。

それはこの世界で最初の、醸の醸造が生んだ「奇跡」だった。


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