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異世界「ホップ物語」~醸造家の異世界転生その2~  作者: 麦汁酵生
転生と始まり

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2/10

第二話「廃業パン屋の老人」

ダンジョンの入口から街道を南へ歩くこと一時間ほどで、石造りの街並みが見えてきた。

中世ヨーロッパの城下町を思わせる風景だった。赤みがかった石を積んだ建物が肩を寄せ合い、石畳の路地を人々が行き交っている。鍛冶の音、馬の蹄の音、市場の喧騒——それらはどれも、かつて醸が映画や本の中でしか知らなかった世界の音だ。

しかし、何かが重かった。

陽光は確かに降り注いでいるのに、街全体に薄いフィルターがかかっているような、くぐもった明るさしかない。行き交う人々の顔に、意識して見なければわからないが、うっすらとした疲弊の色が滲んでいた。老人は杖に頼り、若者でさえ肩を落として歩いている。市場の商人たちの売り声には覇気がなく、子どもたちの笑顔も、どこか燃料が足りないかがり火のように頼りない。

黄昏の呪い、か。

ダンジョンの近くで出会った冒険者が、去り際にそう言っていた。三百年前に魔王がこの王国全土にかけた呪いで、人々は慢性的な魔力不足と疲弊に晒されている、と。当たり前すぎて誰も気にしなくなっているが、確かにここには何か、生命力を少しずつ吸い取るような重さがある。

醸はギガントホップをコートの内側に包んで抱えながら、街の中心部へと歩いた。

まず必要なのは場所だ。醸造に必要な設備を一から揃えるには莫大な資金がかかる。だが幸い、前職で培った「ないものは借りる、交渉で動かす」の精神はここでも活きるはずだ。

街をひと回りすると、すぐに気づいたことがある。いくつかの店が、静かに閉まっていた。シャッター代わりの木板が打ち付けられ、かつては賑わっていたであろう店構えが、埃を被って眠っている。廃業した店が多い。呪いの影響で人々の活力が落ちれば、消費も落ちる。経済の縮小が街を少しずつ蝕んでいるのだ。

そして、一軒の工房の前で、醸の足が止まった。

麦の穂を模した錆びた看板。「バルトマン・パン工房」と彫られた木の札。煙突は冷え、窓には蜘蛛の巣が張り始めているが、建物自体は頑丈だった。奥に見える煉瓦造りの窯が、かつての繁盛ぶりを物語っている。

そして工房の前の石段に、老人が一人、腰を下ろして空を眺めていた。

白髪で、小柄で、しかし背筋は真っ直ぐだ。皺の深い顔に柔和な笑みが刻まれており、どこか賢者か祖父のような空気を纏っている。膝の上には、使い込まれた木の麺棒が横たわっていた。

「……ご老人、少しよろしいですか」

醸が近づくと、老人はゆっくりと視線を向けた。目が細くて穏やかだが、鋭い光が宿っている。

「旅の方ですかな。見慣れない顔ですが」

「はい、昨日この街に来たばかりで。ちょっとお聞きしたいことがあって」

「ほう」老人は麺棒を膝に置いたまま、話を続けるよう目で促した。

醸は単刀直入に切り出した。

「この工房、今は使っていないんですか?」

老人の表情が少し揺れた。石段を見下ろし、短く息を吐く。

「三月前から休業しておる。腰が言うことを聞かなくなってきてな。弟子もおらんし……そろそろ潮時かと思っておる」

「廃業するつもりですか?」

「そのつもりじゃった。が——」老人は再び空を見上げた。「七十年かけて築いた場所を、そう簡単に手放せるものでもない」

醸は一瞬間を置いてから、正直に言った。

「この工房を貸していただけませんか。設備を使わせてほしいんです。報酬は……今はお支払いできないんですが、必ず利益で返します」

老人は醸をじっと見た。長い沈黙。

「何をするつもりじゃ?」

醸はコートを開き、ギガントホップの花穂を一枝取り出した。強い芳香が石畳の上に広がった。老人が微かに眉を上げる。

「パンをご存知ですよね。あなたのご専門だ。麦を挽いて、酵母で膨らませて、焼く。その酵母——発酵の力を使って、私は飲み物を造ります。この花を使って」

「……臭い花ではないか」老人は花穂を指差した。「ダンジョンに生える草じゃ。薬師が最低品質の傷薬に混ぜるくらいしか使い道がないと聞いておるが」

「それが使い道のすべてだとは思えません」醸は花穂を鼻に近づけて言った。「嗅いでみてください」

老人は少し躊躇ってから、差し出された花穂に鼻を近づけた。そして——目を見開いた。

「……これは。なんと複雑な香りじゃ。柑橘のような、それでいて草のような……」

「でしょう。これが持つ香りと苦味の成分を、麦を煮出したお湯に溶かし込んで発酵させると、全く別の飲み物が生まれます。私はそれを造りたい」

老人は花穂を醸に返し、しばらく黙って考え込んだ。

「麦を使うのなら」とうとう口を開く。「倉庫に在庫がある。廃業する前に仕入れた大麦が、袋で数十個残っておる。このまま腐らせるくらいなら——」

「使わせてください」

老人——バルトマンは、皺だらけの顔に、ゆっくりと笑みを浮かべた。



翌朝から、工房の中が動き始めた。

醸はまず在庫の大麦を確認した。【鑑定(醸造)】のスキルを使うと、袋に入った大麦の質が一目でわかる。タンパク質含量、糖化ポテンシャル、水分値——どれも合格点だ。二条大麦ではないが、この世界固有の「グランディア麦」と呼ばれる品種で、粒が大きく澱粉含量が高い。

「この麦は、乾燥させてから焙煎しているんですか?」

「パン用じゃから、粗く挽くだけじゃ」とバルトマンが答えた。「焙煎はせんな」

「麦芽——発芽させてから乾燥させる工程は?」

老人は首を振った。この世界には「モルティング(麦芽製造)」の概念がないようだ。醸は内心で舌を打ったが、すぐに頭を切り替えた。

麦芽を作るには、大麦を水に浸漬させて発芽させ、その後乾燥・焙煎して酵素を活性化させる。本来なら一週間以上かかる工程だが、幸いバルトマンの工房には大きな水瓶と石窯がある。設備の問題は解決できる。

「バルトマンさん、麦を発芽させるための浅い木箱か何かありますか?平たくて、通気がいいもの」

「パン生地を延ばす台板ならあるが……」

「それで十分です。あと、水を大量に用意したい。井戸はどこですか?」

バルトマンは醸の行動の速さに少し驚いた顔をしながらも、工房の裏手にある井戸へ案内した。醸はバケツを手に取り、【鑑定(醸造)】を水に向ける。


________________________________________

【グランディア湧水(軟水系)】 硬度:42mg/L(超軟水) pH:6.8 ミネラル:カルシウム微量、マグネシウム微量 特記事項:魔素を微量含む。醸造適性:ラガー・ピルスナー系に最適

________________________________________


「軟水か。ラガーに向いている」

醸は小さく呟いた。軟水はピルスナーやアメリカンラガーのような、すっきりとした味わいのビールに適している。硬水だとミネラルが多くなり、ペールエールやスタウト系に向く。この街の水なら、第一弾はクリアなラガーがいい。

午後になると、大麦の浸漬が始まった。台板に麦を薄く広げ、水を吸わせる。バルトマンはその様子を工房の入口から眺めながら、何度か声をかけてきた。

「パン酵母を使うと聞いたが、その発酵とはどう違うのじゃ?」

「良い質問です」醸は手を動かしながら答えた。「パンも酵母が糖を食べてガスを出すから膨らむ。ビールも同じ——酵母が糖を食べてアルコールとガスを出す。麦の糖をお湯に溶かし出して、それに酵母を入れると、飲めるアルコール飲料になるんです」

「ほう……」バルトマンは目を細めた。「ではわしが使っているパン酵母も使えるということか」

「使えます。ただ、パン酵母よりビール専用の酵母のほうが風味が良くなります。どこかに野生酵母がいないか探したいんですが——バルトマンさん、この辺りで自然に発酵が起きているものに心当たりはありませんか?果実が落ちて発酵している場所とか、古い木樽とか」

老人はしばらく考え込んだ。

「……街はずれに古い蜂蜜酒の醸造所跡がある。三十年前に廃業したが、あそこの樽はまだ残っているはずじゃ」

醸の目が光った。



翌日、バルトマンに案内されて街はずれの廃醸造所を訪れた醸は、古い木樽の内側をランタンで照らした。

樽の底には、褐色の澱が乾いて残っていた。醸はそれを指で少量すくい、スキルを使う。


________________________________________

【野生酵母群(休眠中)】 菌種:Saccharomyces混合種(下面発酵優位) 活性度:低(復活可能) 風味特性:クリーン、微かなフルーティ 特記事項:低温発酵に適性あり。異世界固有のラガー酵母に近い性質を持つ

________________________________________


「いた。しかもラガー酵母だ」

醸は声を抑えながら言った。下面発酵のラガー酵母は、本来は低温でゆっくり発酵する。この廃樽の中で眠り続けていた野生酵母は、まさに理想的な性質を持っていた。バルトマンがきょとんとした顔をしているが、醸にはその澱が宝に見えた。

樽の欠片ごと布に包んで工房に持ち帰り、少量の麦汁で酵母の活性化を始めた。白い泡がじわりと湧いてくる様子を見つめながら、醸は初めて、この異世界で何かが動き始めた手応えを感じた。



三日後の夜。

工房の石窯に火が入った。

麦芽化モルティングを終えた大麦は、薄く焙煎して黄金色に仕上がっていた。それを粗く砕き(クラッシング)、大きな銅製の鍋——本来はバルトマンがパン生地を大量に仕込むために使っていたもの——に入れ、湧水を加えて温める。

温度が六十五度に達したとき、醸は火加減を調整した。

マッシング——糊化と糖化の工程だ。麦芽に含まれる酵素が澱粉を糖に分解し、甘い液体が生まれる。バルトマンが傍らで見守っている。工房に、香ばしくて甘い麦の湯気が満ちていった。

「……甘い匂いじゃな」と老人が言った。「パン生地を作るときに似た匂いだが、もっと濃い」

「そうです。今、麦の中の澱粉が糖に変わっています。この甘い液体が——」醸は木べらで鍋の中をゆっくりかき混ぜた。「酵母のご飯になります。酵母がこれを食べてアルコールにしてくれる」

バルトマンは鍋をじっと見た。老職人の目に、かすかな好奇の光が宿っている。

麦汁を濾過し、煮沸鍋に移す。沸騰したところでギガントホップを一束投入した。瞬間、工房が強烈なアロマで満たされた。柑橘と松脂とハーブが混ざり合う、圧倒的な香り。バルトマンが思わず目を見開く。

「なんじゃ、この匂いは……!」

「ホップです。ダンジョンの臭い花です」醸は静かに答えた。「これが入ることで、苦味とアロマが生まれます。そして——腐りにくくもなる」

「あの臭いものが、こんな素晴らしい香りに?」

「素材を正しく使えば、そうなります」

煮沸が進むにつれ、麦汁の色が深みを増し、湯気の中でホップの香りが立ち昇り続けた。バルトマンはずっとそこを離れなかった。七十二年の人生で嗅いだことのない香りが工房を包む中で、老職人は若い頃に初めてパンを焼いた日を思い出しているような顔をしていた。

煮沸が終わり、麦汁を冷却して発酵容器に移す。そして——活性化させた酵母を、静かに注ぎ込んだ。

木製の樽の中で、わずかな泡が立ち始める。

これが、この異世界で最初の「ビールの種」だった。

醸は樽の蓋を軽く置き、ゆっくりと息を吐いた。あとは時間と温度が仕事をする。低温でじっくりと、酵母たちが糖をアルコールに変えていく。数週間後、この樽の中で何かが生まれる。

「……できたのか?」バルトマンが小声で聞いた。

「仕込みが終わっただけです。ビールになるのはまだ先です」

「そうか」老人は樽を見つめた。「……楽しみじゃな」

醸も、樽を見た。

この世界で初めて醸す。かつて会社の工場で何万リットルものビールを造ってきたが、あのときとは全く違う感覚が胸の中にあった。設備も不完全で、麦芽化も手作業で、発酵温度の管理だって完璧ではない。すべてが手探りだ。だがそれでも——いや、だからこそ、今この樽の前に立つ気持ちは、三十五年の醸造人生で一番鮮明だった。

「バルトマンさん」醸は振り返らずに言った。「工房、使わせてもらえますか。ちゃんと利益が出たら、きちんと返します」

老人は少し間を置いてから、静かに笑った。

「……わしは見届けたい気がしてきた。あの臭い花が本当に宝物になるのかどうかを」

工房の窯に薪がくべられ、夜の火が揺れた。石畳の外では街の人々が疲れた足取りで家路につきながら、黄昏の呪いを当たり前のように受け入れながら眠りにつこうとしている。

だが、この工房の中だけは、かすかに違う空気が流れ始めていた。

麦汁の甘い香りと、ホップの鋭い芳香が混じり合った、かつてこの世界には存在しなかった匂いが。


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