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異世界「ホップ物語」~醸造家の異世界転生その2~  作者: 麦汁酵生
転生と始まり

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1/10

第一話「臭い花の秘密」

目が覚めた瞬間、最初に感じたのは鼻をつんと刺す草の匂いだった。

……俺、死んだんじゃなかったか?

忽布こちぬの じょうは、ゆっくりと瞼を開けた。視界に飛び込んできたのは、褪せた空の色でも無菌室の白い天井でもなく——薄暗い石造りの壁と、その隙間から差し込む橙色の光だった。

地面は湿った土。背中に当たる冷気が、じわじわと衣服を通して肌に伝わってくる。

醸はゆっくりと身体を起こした。三十五年間、毎朝通勤電車に揺られ、工場のコンクリート床を踏み続けてきた身体は、なぜか筋肉痛ひとつなく、不思議なほど軽かった。

「……ここはどこだ」

呟いた声が、石の壁に反響した。

記憶を遡ると、事故の瞬間が断片的に蘇ってくる。深夜の残業帰り。横断歩道の青信号。脇見運転の大型トラック——そこで映像は暗転した。身体の痛みすら感じる暇もなかったはずだ。なのに今、醸は確かに生きている。あるいは、別の何かとして「在る」。

立ち上がりながら周囲を見渡す。そこは広大な洞窟の入口のような場所だった。奥へ続く通路は深く暗く、どこか規則的な気配があって、人工的に彫られたような岩の断面が見える。

ダンジョン……?

醸は元来、空想的な人間ではなかった。大手食品メーカーの醸造開発部で十年間、麦汁の糖度、酵母の活性率、ホップのアルファ酸——数値と向き合い続けた理系の職人だ。「異世界転生」などという概念は、せいぜい昼休みに目にしたウェブ漫画の中にしか存在しなかった。

それでも今、目の前の現実はあまりにも鮮明だった。

石の壁の質感。遠くで滴る水の音。腐葉土と鉄錆が混ざったような空気。これは夢ではない。

「……まあ、死んだのなら生き返ったと思っておくしかないか」

醸は実用的な人間だった。パニックを起こしても状況は変わらない。まず情報収集。次に安全確認。それから行動計画。企業戦士として鍛えられた思考回路が、粛々と起動する。

ゆっくりと洞窟の入口に向かって歩き出したとき——

鼻が反応した。

何か、嗅ぎ覚えのある匂いが混じっている。

洞窟の壁際、薄暗がりの中で何かが揺れていた。草だ。淡い緑色の蔓性植物が、岩の割れ目から逞しく伸びている。花穂のようなものが密集してぶら下がり、独特の芳香を放っていた。

醸の足が止まった。

……待て。この匂いは。

心臓が一拍、大きく跳ねた。

膝をついて近づく。植物に顔を寄せた瞬間、鼻腔に飛び込んできたのは——柑橘のような爽やかな芳香と、その奥に潜む樹脂質のピリッとした刺激。杉の木に似た緑の香り。そしてほんの微かな、甘みにも似た穀物の余韻。

「……カスケード。いや、カスケードより強い。これはもしかして——」

手を震わせながら、花穂を一つ指で摘んだ。揉んでみると、掌に緑の粉が残り、香りが倍増した。ルプリンだ。ホップの腺に含まれる黄金色の粉——アルファ酸とアロマを司る、ビール醸造の魂とも呼べる物質。

「ギガントホップ……!!」

醸は思わず叫んだ。声が洞窟に響き渡り、遠くで何かの羽ばたく音がしたが、そんなことはどうでもよかった。

頭の中で、知識と経験が一気に結びついていく。

カスケードホップは醸造界の定番品種だ。爽やかな柑橘香と適度なビター——アメリカンクラフトビール革命を牽引した立役者。だが今目の前にある植物は、そのカスケードを遥かに凌駕している。花穂の密度が異常だ。通常の二倍、いや三倍はある。しかも岩の割れ目という過酷な環境で、何の手入れもなく育っているにも関わらず、これほど健全な姿をしている。

抵抗性が高い。病害に強く、収量も桁違い。野生種でありながらアロマの複雑さは……

醸の脳内で計算が走った。このホップのアルファ酸含量は推定十五パーセント以上。通常のカスケードが五〜七パーセント程度だから、苦味の効率が三倍近い。しかもアロマプロファイルが圧倒的に複雑だ。柑橘だけではない。花、熱帯果実、松脂、ハーブ。まるで複数の品種をブレンドしたような多層構造。

「——俺が知る限り、こんなホップは地球上に存在しない」

呟いた瞬間、醸の中で何かが音を立てた。

スキルが解放されました——【鑑定(醸造)】

声ではない。脳の奥に直接、文字が浮かぶような感覚だった。

植物に触れながら、改めて集中する。すると不思議なことに、視界の端に情報が流れ込んできた。

________________________________________

【野生ホップ・ギガントホップ】 アルファ酸:19.4% ベータ酸:8.2% アロマプロファイル:柑橘・熱帯果実・松脂・フローラル・ハーブ 特記事項:通常種の三倍以上の精油量。浄化属性の素地を持つ。採取場所:グランディア・ダンジョン各所

________________________________________

「浄化、属性……?」

見慣れない概念が引っかかったが、今は後回しでいい。

醸は洞窟の壁を見渡し、状況を把握しようとした。ホップの蔓は入口付近の壁に広く自生しており、その量は相当なものだ。ちょっとした農場と同じくらいの密度で、何十キロもの収穫が見込める。しかも放置された野生株だ。誰も栽培していない、誰も価値を見出していない植物。

なぜ誰も採取しないのか。

考えながら洞窟の外へ踏み出すと、ちょうど数人の人影が近づいてくるのが見えた。革の鎧と、腰に吊るした剣。ファンタジー世界の冒険者そのものの格好だ。

「おい、また例の臭い花が生えてやがる」

先頭の男が顔をしかめた。ごつい体格の赤ら顔で、鼻を思い切りつまんでいる。

「本当にひどい匂いだな。これがダンジョンの一番の被害だぜ。ゴブリンの草履より臭い」

別の冒険者が続いた。そして二人は、醸が大切に手にしているホップの花穂に目を留め、ぎょっとした顔をした。

「……なんだ、お前。そんな臭いもの触って大丈夫か?毒はないが、あれは最低ランクの傷薬の材料にしかならん。ゴブリン以下のゴミだぞ」

醸は立ち上がった。

「これが……ゴミに見えるんですか」

男たちは顔を見合わせた。醸の目は真剣だった。笑っているわけでも皮肉を言っているわけでもない。本心から——驚いている目だ。

「この植物に『傷薬の材料』になるくらいの効果があるのなら、それはむしろポテンシャルがあるということです。苦味物質……ホップ酸が持つ抗菌作用を、この世界でも認識しているということでしょう?」

「は、はあ……?」

「ここにどれだけ生えていますか?自生地は他にもありますか?ダンジョンの中にも群生地はある?」

矢継ぎ早の質問に、冒険者たちは呆気に取られた顔をした。

「い、色々あるが……なんでそんなこと聞く?お前、錬金術師か何かか」

醸は少し考えてから答えた。

「醸造師です。ビールを造ります」

男たちはまた顔を見合わせた。「ビール?」という言葉が通じないらしく、きょとんとした表情をしている。この世界に「ビール」という概念がないのだ、と醸はその時初めて気づいた。

「……麦と水とこの花から造る、液体です。飲み物、と言えばわかりますか」

「臭い花から造る飲み物?そんなもの飲めるのか?」

「飲めます。それどころか——」

醸は花穂を鼻に近づけ、もう一度深く吸い込んだ。柑橘とハーブの芳香が肺に満ちる。

「——きっとこの世界で、最高の飲み物になります」

冒険者たちは半信半疑の顔でどこかへ去っていった。残された醸は、再び洞窟の入口に向き直り、壁一面に広がるホップの群生を見つめた。

薄い光の中で、花穂が風に揺れている。

三十五年間、誰よりも多くのビールを造ってきた。世界中の原料を研究し、何千という試作を重ねてきた。それでも——こんなホップには出会ったことがない。

「よし」

醸は呟いた。仕事に向かうときの声だった。

「まず採取量を把握する。それから水源を探して水質を確認。麦の代替になる穀物があるかどうか。酵母は……野生酵母があるはずだ、この環境なら。発酵容器は自作するしかない。温度管理が最大の問題か」

問題を整理するたびに、気持ちが静まっていく。パニックではなく、集中。恐怖ではなく、好奇心。異世界に転生してしまったという非常事態の中、醸の心は醸造家として、不思議なほど凪いでいた。

ダンジョンの奥から何かが唸るような低い音が響いてきたが、醸は振り返らなかった。

ホップを持つ手に力を込め、来た道——街へと続く方角へ、足を向けた。

ビールを造ろう。

この世界で、まだ誰も知らないビールを。


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