第4話:東京の狼狽
第4話:東京の狼狽
一九二〇年代半ばの東京は、西洋の模倣という名の、安っぽい張り子の文明に狂奔していた。
東京のお上品な西洋風サロンでは、帝国大学を出た日本のインテリ男どもが、西洋の最新の文学雑誌を広げて得意顔でふんぞり返っていた。
「やはりこれからは、ウルフの『ダロウェイ夫人』の英語原文を直訳して真似るべきだ 。
主語も時制もはちゃめちゃな『源氏物語』や 、お上の婚姻のルールを外れて化かし合う泉鏡花の『天守物語』など 、近代国家にふさわしくない野蛮な遺物に過ぎん」
彼らは、自国の足元にある宝(生の音)を完全に見捨てて埃を被らせていた。
だが、そのサロンの卓上に、ロンドン発の最新の文芸誌『ヴォーグ』、そして大英博物館からの海外電報という、冷徹なファクト(爆弾)が突き刺さる。
誌面に刻まれていたのは、ロンドンの知性の女王ヴァージニア・ウルフが、アーサー・ダビッド・シュロスの放った英訳『The Tale of Genji』の前に、総立ちになってひれ伏しているという戦慄の記録だった 。
「せ、西洋の文豪たちが、源氏の君の前に総立ちになってるだと!?」
東京のインテリ男どもが顔を真っ青にして狼狽するなか、電報の文字は、彼らが「笑い話の不美人」として見捨てていた、あの『末摘花』の巻の英訳の、息をのむほどの美しさを冷徹に暴露していった。
《あなうたて、この人の御心のいと執念く、世づかぬまで、もて離れ給へるを……》
"How strange a passion was this! That he should address his vows to one so
(remote from the ways of the world)..."
文字の直訳ではない。
日本の男どもが「鼻の赤い不細工な女の喜劇」としてしか読めなかった末摘花の一節を、アーサーは、恋人ベリルの刻む裸足のモダンダンスの拍動を耳に聴きながら 、
「光源氏という男の、常軌を逸した、狂おしいまでの執着」という、一篇の完璧な心理小説へと完全に逆ハッキングしてみせたのだ。
主語のはちゃめちゃさを、言葉の壁を超えた「愛の業の深淵」へと昇華させる、色のついた瞳(淡い瞳)の西洋の天才の知性。
《かくおぼしよるまじき御振る舞ひの、あやしく執念きを、あなうたてとおぼす》
"He felt within himself a dark, persistent curiosity, a stubborn obsession that made him wonder at his own behavior..."
その英訳の凄みを前にして、東京のインテリ男どもは真っ青になって腰を抜かした。
かつてアーネスト・サトウが「わずか二五二ポンドの移送実費」でこの国から救い出し、ロンドンの金庫に封印したあの暗号が、自分たちが西洋の真似事に狂って焼き捨てようとしていたその足元から、世界の文学史を完璧に支配して逆輸入されてきたのだ。
彼らが大狼狽しながら、慌てて蔵から『末摘花』や『天守物語』の和古書を引っ張り出し、真っ青な顔で埃を払い始めるその横で、大英博物館の書庫の片隅。
アーサーはカラスの濡れ羽色の墨をペンに浸し 、
その瞳を細めて、遥か東洋の男どもの醜態を冷徹にあざ笑っていた。
写本の余白からは、カラスの濡れ羽色の黒髪をかき上げた、最高に性格の悪い紫式部の幻影が、ニヒルに笑う生の肉声がはっきりと響いていた 。
『東京の文字の学問に溺れる馬鹿どもが。貴方が西洋の張り子の文明をどれほど有難がろうともね、ボクがこのはちゃめちゃな言葉のグルーヴ(音)で毟り取って叩きつけた末摘花の深淵には、逆立ちしても及ばない。あんたたちが見捨てたこの暗号を、すべてを完璧に解釈してやったさ』
霧に包まれたロンドンの夜空には、西洋の近代も、東洋の張り子の文明すらをもすべて込み込もうとする、巨大な『東洋の黒い雲』が静かに、しかし圧倒的な美しさで渦巻いていた。
日本人が見捨てた暗号を、アーサーの真の知の逆転劇の黒い波が、ついに東京の脳髄を完全に支配したのであった。
『末摘花』の英訳への昇華: ウェイリー(アーサー)の実際の英訳において、最も文学的評価が高い『末摘花(Suemutsumuhana)』の巻の「滑稽さを超えた人間の業( persistent curiosity / stubborn obsession )」という本物の一次資料のニュアンスを、東京のインテリ男どもを精神的に叩き潰すための「カウンター(逆襲の弾道)」しました。




